2020年TVアニメ10選

おれにとって今年のアニメは「あるがままの他者の肯定」であった。
久しぶりに10コ選ぶやつの寸評が書きたくなったので書く。話数単位だとがらっとタイトルが変わってくるので作品単位。全体を整理したいタチだから実はこっちのが肌に合うんじゃ。


SHOW BY ROCK!!ましゅまいれっしゅ!!

ゆるっと見られるポップでキュートな青春音楽百合アニメ。しかしてその実態はバンドアニメという概念を突き詰めた、個性と変化を巡る物語におけるひとつの完成形である。
お話は田舎住まいの少女・ほわんがオーディションのため上京し、後にバンド『Mashumairesh!!』を組む3人とライブするところから。それぞれが違う悩みを抱えるMashumairesh!!の4人の対比、そして彼女たちとはベクトルの異なる2バンドとの対比を通して、バンドを組む理由と、自身が何者か・それを知るのは誰かを描く。
一緒にきらきら輝きたいから、大好きな仲間と音楽をやる。
人より優れているからではなく、あなたがあなただから共に居たい。
本作全体を貫くアイデンティティへの力強い肯定は、自身の才覚を厭っていた少女・ヒメコの心を救い出す。「すごい」ではなく「好き」。ほわんの純粋な好意が胸に届いたとき、ヒメコは彼女と「好き」を共有するために才を振るえるようになり、やがては「すごい」という賞賛さえも素直に受け取れるようになる。
これと対照的なのが特別に焦がれる少女・ルフユのドラマ。ヒメコやデルミンと違い褒められたい・特別になりたい彼女の存在が、すごさへの憧れを否定しない作風を成立させる。人より特別になりたいルフユと普通になりたいデルミン。ふたりがそのまま友達になれる事実は最終盤における「才能も人格もその人を織り成す要素」という止揚につながる。

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レッツ!フレッシュ!ニューフェイス! 4人は4人のまま変わっていく。

ひとりひとりが違う美点・欠点を持つからこそ肯定しあえる。互いに影響しあい、変化して、楽しい日々を生み出していける。そこには彼女たちがバンドである意義と、変わりゆく心、変わりえない個性への深い慈愛がある。
……と堅っ苦しく骨子を書いたが、本作最大の魅力は普段のだらっとした空気感の良さだ。雑談や生活の描写が全体の質感を底上げしており、アドリブの多さもあってキャラの吐息にはたしかな温度が宿る。惹かれるように再視聴をすれば散りばめられた台詞や演出に膨大な量の対比や反復・変奏を発見することができ、3周、4周とつい観てしまう。つい、である。そういう魔力がある。ケモキャラの耳と尻尾を活かした豊かな感情表現も◎。本作や前枠の『ネコぱら』を見て、おれはすべてのアニメキャラに耳と尻尾が付けばいいと思うようになった。
骨・肉付け・味付けどれもが「すごく」て、かつ「好み」でもあるという、文句なしの2020年マイベストアニメ。まさにルナティックアニメーションだった。

リアルタイムでの視聴完了時に書いた長尺の評はこちら。

② 耐え子の日常(シーズン1・2)

定期的にやべーのが現れるショートアニメ界の今年のやつ。理不尽に笑顔で耐えるOL・辛抱耐え子の日常を描く漫画がまさかの全編ミュージカル調でフラッシュアニメ化された。3月に第1期を終えたが直後に2期の放映が決まり、以後は夕方の1分番組に枠を移して放送ちゅ……お、大晦日に終わった……。
本作の特色は他の追随を許さないネタのスピード感だ。5分という短い枠に多数詰めこまれた荒唐無稽なネタ。矢継ぎ早に繰り出されるギャグにはこちらのツッコミが追いつかない。初見時はなにこのアニメ……と戸惑うあまり苦行じみた感覚に陥るが、見ているうちに軽妙なテンポがだんだんクセになってくる。耐え子を演じる一般女性・田中さん(仮)が繰り出す「〇〇に耐える~♪」のメロディがいい。アニメ化に際しミュージカル調にした監督の発想が光る。

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画像は朝美がぬるっとランプの魔神を召喚するシーン。フリージかな?

ネタの自由度にも驚かされる。恋愛や職場の人間関係などのOLらしいネタから全力のスラップスティック、果ては伝奇・ファンタジーまでなんでもござれ。割とチョロかったり実はノリが良い耐え子のキャラも魅力的である。周囲の異常な挙動に対していつも(^o^;)みたいな顔で耐えてるが、たまに真顔になって内心キレていたりするのがホント好き。こちらが笑いを堪えられない。耐え子の近辺、治安が悪すぎる。
本作の看板ネタといえば耐え子の無二の親友(本当に?)・朝美である。すべてのネタが掛け値なしにひどい。ぶっちぎりで今年最悪の女。サブタイ『こんな友達に耐える』が表記されたときの緊張感といったらない。朝耐えは覇権CPですよ。百合のヲタク耐え子見とるか?
1分アニメに変わってからは尺的な物足りなさを覚えるが、5分時代より凝縮された分さらにテンポが上がってしまった。単位時間あたりの実況ツイート数では並ぶアニメがない。一挙放送だとアカウント凍結される。でもまたやってほしいなあ……そんな感じで中毒性の高い、狂騒曲みたいなアニメ。

乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…

2020年の名作しかない春クールで優勝してしまった…
『八男』『アルテ』と並ぶ春の三大貴族アニメの一角。頭を打ち前世の記憶を思い出したカタリナ・クラエス嬢が、このゲーム世界「FORTUNE LOVER」で自身を待ち受ける破滅の未来を回避するべく(主に農業に勤しむなどして)奔走する。
いわゆる転生ものでありながらチート要素はほぼ見当たらない。使える魔法は土ボコ一本、ゲームの内容はうろ覚え。技能も知識も半端なカタリナの最大の武器は人徳である。食と野山を愛する楽天家と化した彼女に周囲は戸惑うが、その素朴な価値観はありのままの他人の人格を捉える。既存のしがらみに左右されない肯定は人をコロリとオトす。身分も性別も関係なしだ。人たらしラブコメを標榜するのも納得の逆ハーレムルート。
おバカで幼いカタリナに打算はなく、ただ自然にふるまっている。それが本人もあずかり知らぬうちに他者を救い、好意を寄せられる。序盤はこの繰り返しなのだがこれが見ていて非常に気持ちいい。いいやつが好かれると嬉しい。エンターテインメントの基本である。
3話に渡る幼年編を終え、舞台は魔法学園に移る。ゲームの主人公・マリアの個別回である5話も素晴らしいのだが、そこから数話がSILVER LINK.アニメの本領発揮と言えよう。
ぶっちゃけみんなでわいわいやってるだけの回がしばらく続くのだ。

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小学生の絵日記みたいだが(華)(麗)は指導要領にはない。

夏休みを満喫し、ダンジョンに突入し、本の世界で欲望にまみれ……キャラクターを十二分に活かした脂の乗ったコメディはべらぼうに楽しく、このまま永遠に放送していてほしい気持ちに駆られる。カタリナへの好意の発露の仕方で個性が出るのがいいんよね。傍に居られればいいメイドのアンと、傍に居てくれるだけでいいカタリナの噛み合った関係を写し取る9話が個人的なドツボ。
終盤は生徒会長・シリウスの闇の魔力によって眠りについたカタリナが、前世の幸せな夢を振り切るさまが描かれる。指先だけしか届かなかったあっちゃんに今生の別れを告げて、前世の夢から覚めたカタリナの手はソフィアの手に包まれている……。あっちゃんからもらったゲームの知識をもとにカタリナは会長の居場所を突き止め、過去に苦しむ彼へと自覚的に善意を向ける。
「みんなが私にしてくれたように、傍に居て、悲しい時、辛い時には話を聞いて、元気が出るまで一緒にいるわ」
みんながそれを為せたのは、カタリナが最初にそれを為したからである。ままならない運命の中でここに居る人と手を取り合い生きる。カタリナの言葉にはこの物語の善性が詰まっている。
世界をより善きものに変えていく自身の姿を知らず、誇らず、そんな主役がもたらすいっぱいの笑いと共に駆け抜けた12話。納得の第2期決定である。土おじさんのCMもパワーアップして帰ってきてほしい。

④ 異常生物見聞録

カン!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
中国の大人気ウェブ小説をbilibiliがアニメーション化。伝説のアニメ『音楽少女』の西本由紀夫氏を監督に据え、海を渡りやって来たちょっと反応に困るタイトルのアニメは、騒がしい冒険と日常を切り取った幸福のフィルムだった。地上波で放送されなかったことが心の底から悔やまれる。
無職の青年・好人はふとしたなりゆきで人狼の少女・莉莉と吸血鬼・ヴィヴィアンに出会い、一軒家の空き部屋を貸すことになる。それをきっかけに彼は希霊帝国(多元宇宙の秩序を維持する組織)の審査官見習いとなり、様々な異類の入居受け入れと管理を生業とするはめに。
こうして書くといかにもハーレムもののフォーマットだが色恋はない。後に増える男女の同居者を含めて彼らは純粋な「仲良し」もしくは疑似家族に近い関係の何かとして描かれる。きわめてフラットな関係性のコニュニティが起こすドタバタ騒ぎは、同性同士や小学生のそれとも似て非なる手触りがある。大人の社会で失われるきらめきのすべてが詰まっているような……この空気感を味わえる一幕といえば10話のキャンプだろう。好き。
さて、本作のユニークさといえば何よりロケーションの奔放さだ。イングランドの古城、宇宙船、他惑星の海、そして夢の次元。先述した『耐え子』以上に自由でワールドワイドな世界観は、愉快な異常生物たちを常に新鮮な環境に放りこむ。ユニークで愛嬌あるキャラクター×トンチキシチュエーション=最高! ここに大陸の風を感じる突き抜けたギャグが乗るからたまらない。アニメの楽しさの真髄である。大陸といえばミニキャラによる本編の外の中国語コーナー『いじょうせいぶつけんぶんろく』も大変に気が抜けていて面白い。『アイドルメモリーズ』で中国語を学んだヲタクもにっこりである。
物語が進むにつれメインキャラは増え関係も深まっていく。常日頃喧嘩している莉莉とヴィヴィアンが互いを憎からず思う関係に変わっていくのは本作最大の見どころと言えるだろう。ヴィヴィリリは覇権CPですよ。百合のヲタク異常生物見聞録見とるか?

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あっちは最強メンバーのイザックスさん!

世界を股にかけた冒険、仲間を賭けた戦いを終えて、異常生物たちが挑む最後のシチュエーションは現代の日本社会。光熱費を払えず止まったガスと電気を復旧させるべく、お金を稼ごうとバタバタするさまがこの物語の終章となる。路上ギター、鉱脈掘り、宝探しに隕石落とし(?)。ムチャクチャであり当然稼げない。彼女たちはどこまでいっても社会不適合者の集団だ。しかし莉莉だけが犬カフェで働くという社会性を発揮し、さらにはバイト先で学んだ料理を家で好人たちにふるまう。疑似家族に当てはめれば子ども役、貴女は食べるだけだとかつてヴィヴィアンに謗られた莉莉が、である。
莉莉の成長は異類が人間と共存できる証明となる。しかし彼女がみんなに手料理をふるまいたいと願い努めたのは、その動機の源泉にはきっとヴィヴィアンの羽根の付いた背があるのだ。
他方新しい入居者になるはずだった卵は茹でられた。頭がゆだるようなオチである。光熱費を払った後はゆで卵。
ところでその、BD発売決定はまだですか……?

⑤ Lapis Re:LiGHTs

「魔法×アイドル」をテーマに掲げるメディアミックスプロジェクト。ふたつの要素はそれだけ聞くと奇妙な食い合わせに感じられる。舞台も現代ではなく魔獣が跋扈するファンタジー世界である(ゲームジャンル:RPG。シャンシャンしない)。しかし見るまで何が出てくるのかわからないのがアニメというもの。ことこのアニメ版はすべての要素を見事使いこなしてみせた。ソシャゲの男主人公をオミットするアニメは名作らしいね。
物語はウェールランドの第一王女にして伝説の魔女・エリザに憧れを抱く妹・ティアラが喧嘩の末に家を飛び出し、魔女養成校・フローラ女学院の門を叩いて幕を開ける。
前半クールはどこを切り取っても紛うことなきトンチキアニメ。いずれもバラエティに富んだ面白おかしいエピソード揃いである。クソすごろく回などはアニメ観てるな~! と幸せな気持ちになれる。でもキャバレー部は一線越えてない? メディアミックスはパラレルワールドという設定をタテに暴れてない? 各ユニットの紹介を兼ねつつアニメは楽しく進行していく。
ティアラのドラマはユニット『LiGHTs』を結成した8話で転機を迎える。初のオルケストラを披露するもポイント不足で退学が決まり、故郷に戻ったティアラはエリザに「憧れだけでは魔女になれない」と告げられる。ここでLiGHTsの仲間がエリザの言う通りだと首肯するのがミソ。

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「みんなを照らしたい」から「私が輝くことでみんなを照らしたい」へ。

自分は自分でしかない。その厳然たる事実を受け容れたとき、ティアラは単なる憧れではない、自分だけの衝動――魔女の道を見つけ出す。
わたしとあなたは違う人間で、得意なことも好きなことも違う。だから自分の手に届く範囲でやれることからやってみればいい。こうした個々の役割分担を、主題歌をはじめ多くの楽曲で歌われる虹=七色のモチーフに見立てるのが美しい。個々人のカラーが違うからこそ実現できる協働の象徴。それこそがオルケストラであり、あるいはこの世界の営みなのだ。
ティアラに魔女を諦めるよう言い続けたエリザの真意は最終話で明かされる。声を失った自分のようになってほしくないと伝えるエリザに、ティアラは「私はお姉ちゃんとは違うんだから」と笑顔で答える。自分は自分。憧れの姉には「なれない」という可能性の閉塞が、声を失った姉には「ならない」という希望に反転する。そして自分だけでは足りなければ仲間に補ってもらうのだ、とも。
本作は誰もが違う人間であることへの希望に満ちている。

⑥ 魔王学院の不適合者 ~史上最強の魔王の始祖、転生して子孫たちの学校へ通う~

寸評を書いたくらいでこのアニメの力を測れると思ったか?(魔王構文)。
アニメ制作会社SILVER LINK.が誇る二大監督・大沼心氏と田村正文氏が贈るキング・オブ・エンターテインメント。得点は無論0点である。ヲタクには計測不能のため。
このアニメの強みは何を置いても主人公のキャラに尽きるだろう。その御名もアノス・ヴォルディゴード様。神話の時代より2000年後の今世に転生した魔王であり、平和と家族とキノコグラタンを愛する最強の人格者だ。ちょくちょく挟まれる世間離れしたおじいちゃんみたいなトークが好き。ときには自覚的に2000年前ジョークを放つセンスもあり、学内にファンクラブ(アノスファンユニオン)が誕生するのも納得のイケメンぶりである。
2000年の間に改竄された歴史と偽魔王の謎を追う、という話の大筋自体も吸引力が高く面白いが、道中の肉付けである悪役とのバトルがまた異様に楽しい。最終話までほとんどの敵がゲスであり、謎にモチベが高いのだ。アノス様の力を目の当たりにしても怖気づく様子を見せない。高慢と差別意識とガッツの塊みたいな敵たちを冗談じみた画ヅラで薙ぎ倒していく(強すぎてアホみたいな画になりがち)活劇はエンタメの覇道を征く。というかアノス様が力を振るうだけで楽しすぎるんですよね……「山が吹き飛んだわ!」「川も枯れた……」で笑顔にならんヲタクおらんやろ。衝撃のコメディ・アノス様応援歌も戦いに華を添える。

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本気に~な・れ・な・い(ウッウー)♪  絶・魔王~~~~♪

しかしそんなふざけた応援歌がここぞというシーンにおいて「王と民が与えあえるもの」として扱われるのには本当に痺れた。ユニオンにとってはアノス様が、アノス様にとってはユニオンが。応えるべき人の存在こそが踏ん張る力をくれる。ウッウー! アノス様がユニオンを個々人として認識するのもポイントだ。
個々を慈しむアノス様の愛は内のみならず外にも向けられる。偽魔王として討たれることで平和をもたらすつもりの勇者カノン=レイ。人間が魔族に抱く憎悪の化身と呼びうる存在ジェルガ。アノス様の剣は憎悪の連鎖を断ち切り、その魂を救う。「人間が魔族を憎んだのではない、お前が俺を憎んだのだ」。愛するにせよ憎むにせよ、その対象は属性ではなく個人。そこには種族という垣根をナチュラルに越える平和への意志がある。
物語はレイがミサ、アノス様が家族のもとに帰り幕を閉じる。戦乱の時代に生きたふたりが平和な今世で愛を得るのだ。単に面白いだけではなくテーマに一本芯が通っている。実は徳の高い作品だった。世界が愛に満ちますように。

⑦ アサルトリリィ BOUQUET

可愛い女の子が異形の怪物とドンパチやってると……嬉しい! 同クールに3作品放映されるほどにメジャーなジャンルをかの天才アニメよろず屋・佐伯昭志氏が監督となって手掛ける。
本作品最大の特徴はシュッツエンゲル制度(学園内における疑似姉妹関係)の存在である。数多くの百合作品で用いられてきた古典的な設定は、本作ではその背に役柄を担う・あるいはおろすというテーマの起点となる。
姉として、妹として、人々を守る学園のリリィとして。そうあれかしと願い願われる理想像はときに重荷となるが、ときに自他を奮い立たせ、美しくあろうとする少女たちを支える。姉が妹の身だしなみを整えるシーンなどは象徴的だ。「わたしが理想とするあなた」の姿を押しつけたり引っ込めたりするドラマが1話から最終話まで様々な関係で見受けられる。美鈴-夢結-梨璃-結梨は言わずもがな、神雨姉妹やヌーベル親子、理事長代行と生徒らもそうだろう。
自分が抱く、相手に抱かれる想いはお互いへと影響する。この影響を及ぼす力自体にレアスキル・カリスマという形を与え、夢結と梨璃の関係の核に組みこんでいるのがテクい。夢結が望まずして保有しているレアスキル・ルナティックトランサーと合わせて、このふたつのレアスキルの特性はふたりのドラマの肝となる。
相手を「わたしが理想とするあなた」に変えてしまう支配のカリスマ*1
相手を「あなたが理想とするあなた」へと押し上げる支援のカリスマ。
自身が「わたしが理想とするわたし」から乖離するルナティックトランサー。
精神に対し無意識に発動してしまう二種三様の異能は美鈴と夢結、夢結と梨璃の姉妹関係を揺さぶるノイズとなるが、やがて逆にその根底にある感情を克明に浮かびあがらせる。
過去と違っても、何をしても、美鈴を手にかけていても夢結が愛しい。
思うように動いてくれない、自分を追いてけぼりにする梨璃が愛しい。
あなたがわたしの理想だからではなく、ただあなたがあなたであるから。姉妹、レアスキル、リリィ、ヒュージ――そうした外付けのタグを包括し、また剥ぎ取っても残る関係。それこそが夢結と梨璃、シュッツエンゲルとシルトが育む絆なのだ。

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社会からの「そうあれかし」が常に重く圧し掛かるリリィだからこそ、そうではない姿を互いに許しあえる関係が大事なのかも。

ふたりの主役の心情を追う上で無駄な台詞・場面が極端に少なく、そのどれもが幾重にも照応するため密度が高い。全12話でありながら2クールものに比肩する読み応えがあり、しかしさらっと流し見てもエンタメとしてきわめて上質である。ドデカい剣をブン回し重火器を掃射する迫力の戦闘、風呂を筆頭に多種多様なモチーフを活かした暗喩表現、情感を帯びた美術背景、そして何よりリリカルな台詞回し。それ単体で涙腺を刺激するプリミティブな強さがある。やや駆け足で難解な描写が多い印象は否めないが、総じて今年を代表する名作と呼ぶにふさわしいアニメだろう。でも結梨ちゃんの件はつれえよ・・・。

ご注文はうさぎですか? BLOOM

劇場版とOVAを経て円熟を迎えたシリーズ3期。過去のTVシリーズでは弱点だったテンポやキャラデザも改善され、日常系アニメの"王"たる貫禄を見せつけてくれる。ちょろっと世間を見回した時に「ごちうさ、3期になって変わった?」という声を複数見たのが印象的。
3期は高校進学を目前に控えるチノを中心に据え、変わることと変わらないこと、その選択を全キャラ(!)を通して描き、個々の道行きを肯定・祝福する前進の物語である。自身がもっとも輝ける場で輝けるかたちを取るのが大切で、誰かと一緒にいる/いない、変わる/変わらないこと自体に貴賤はない。骨太な価値観は3期のエピソード全体を貫徹している。
原作読者として目につくのはやはりエピソードの順序変更、そしてアニオリシーンの追加だがこれが目の覚めるような出来だった。1・2期と比較してみても明らかに大胆かつ洗練されている。6話では5巻のイメチェン回と6巻のパン祭り回をセットにし、ココアとチノ双方のお互いの「いつも」への好意を可視化している。アニオリでは同じく6話、ココアの「チノちゃんが私に似てるなら私は今の私でいいかな」や9話、チノからリゼへの「イメチェンしても全然いいと思います」あたりが勘所か。他にも挙げるとキリがなく、視聴後はコミックスとにらめっこである。増やした箇所はもちろん削った箇所にさえ明確な意図があり、ともすれば往時の原作以上にテーマの深掘りに成功している。このアニメはいわば原作に補助線を足したメディアミックスなのだ。作劇の比重がエモーショナルに偏ったのは好みが分かれるか。

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その再構成、絶大。(このシーンは別にアニオリではない)

変化を軸に進んだチノのドラマは最終話で一歩飛躍する。街の外に出て新しいセカイを知ることについてのチノの不安。それを払拭するのは自身もかつて(木組みの街への)来訪者だったココアである。故郷を出てちょっと変わりラビットハウスで楽しくやっている。そんなココアの今の姿こそがチノの未来に対する福音だ。傘を忘れても雪の中を踊りながら帰った10話のように、セカイを豊かに“観る”ココアの魔法によって変わってきたチノは、これからも変わっていく勇気を胸に抱き、笑顔で感謝を告げる。その一歩は君を見ているから踏み出せる――チノが浮かべる満面の笑みは、この2年の変化の結晶である。
漫画を読みこんでいても常に新鮮な気持ちで楽しめる上に、見落としていた数多の魅力に気付かされる最高のアニメ化だった。旅行編を筆頭に今後の展開がますます待ち遠しい。

⑨ 体操ザムライ

ドヨルテレ朝奇跡の1時間・スポーツアワー(OTAKU2020)の跳躍担当。時は平成、2002年の日本体操界を舞台に、ピークを過ぎた元代表選手・荒垣城太郎の再起を描く。製作は『ゾンビランドサガ』のMAPPA村越繁という座組。『かつ神』『シートン学園』の座組と言われるとちょっとドキドキする。
こう言うと身も蓋もない気がするが、本作、単純に面白い。単話の構成にそつがなく、見終わった後の満足度が高い。ここで挙げる10作品の中でもっとも人に勧めやすいだろう。リアリティライン破壊生物ことビッグバードの存在も肩肘張らない空気感の醸成に貢献しているのが匠の技。90年代の名残をとどめるゆるい雰囲気が好ましい。
そんな本作の柱にあるのは「演技」への深い敬意だと思う。父子家庭で在りし日の母のようにふるまう9歳の娘・玲と、ニンジャに憧れてござる口調なバレリーノの居候・レオナルド。城太郎を主役とする体操競技の物語と並行して、ロールによって日々を生きる玲たちのジュブナイルが展開される。玲の物語のクライマックスである6話は私的ベストエピ。父の前で完璧な主婦を演じようと(=母のようで在ろうと)気を張っていたこと自体、図らずもかつて自分の前でそうだった母とぴたりと重なる。大人のふりをやめて父の胸で思いっきり泣きじゃくった後、いつの間にか自転車に乗れるようになっている自分自身に気が付く。

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幸福をもたらす鳥はロールを真実にしろと圧を掛けてくる。玲につねられるのも道理である。最終話では文字通りレオの背中を蹴っ飛ばす活躍を見せる。

演じ続けた理想はいつしか本人の力に還元される。より高難度の技に挑み己を高めていく体操のように。この哲学はキャラクターを問わず話の随所に散見される。でもねえ、このアニメの作劇にはそうした力強さだけではなく、ロール抜きの人格を尊重する優しさも同居しているんだ……その柔らかい筆致こそ、おれが本作に惹かれるポイントなのかも。
終幕において荒垣父娘はそれぞれの演技を結実させる。キティ・チャンとの出会いを経て母のような女優になると決めた玲は、母が演じた大河ドラマの台詞を以てレオから勇気を引き出す。自身は女優、レオはニンジャ。そのロールも自己の一部なのだとして。
そして城太郎の演技は自身の既存の限界を超克する。彼が屈伸アラガキを編み出し見事成功できたのは、彼がヒーローだからではなく、ニンジャの助言と声援があったからだ。
演じる者とそれを見つめる者。演技はその両者に力を貸す。玲がレオを、レオが城太郎を、城太郎が鉄男を変えたように。あるいはこのアニメの視聴者にも、何かが届いているやもしれない。
大会を終えると場面は2年後に飛び、さっくりと幕を下ろす。ちょい食い足りないくらいの尺がむしろ完璧な余韻を生んでいる。過不足なしの美しい着地はいかにもこの作品らしい。
レッテルもペルソナも力に変え、今ある自分を越えていく。心の暗がりに寄り添いつつも上を向かせるいいアニメだった。跳べ!! 抗え!! ヲタク!!

⑩ いわかける! -Sport Climbing Girls-

ドヨルテレ朝奇跡の1時間・スポーツアワー(OTAKU2020)の登頂担当。予定されていた春・夏アニメの放送時期が後ろへとずれこみ、時ならず空前の豊作となってしまったこの秋クールで、なお頂へと登り詰めた予測不可能のダークホースである。今マーダー・ヲタクベーションって単語思いついたけどひっこめた。
いや、本作、マジありえん楽しい。まずはこの一言に尽きるのです。パズルゲーム全国1位の高校一年生・笠原好が興味本位で入部したクライミング部で活動を続けるうち、スポーツクライミングの魅力に取りつかれていくというのが大筋。導入となる序盤もマイナースポーツものとして良作なのだが、個性溢れるライバルが揃い始める4話からが真骨頂。くるくるすbot、ウサ耳レズ蜘蛛、ボキャ貧パンサー、語尾がにゃー、やんす(一人称あっし)……巻き髪バレリーナやヤンキー、ゾンビ、マッスルが薄味に思えてくる。開き直ったコテコテの味付けのキャラを見ていると心が躍る。緩急の効いた卓抜したギャグ、ゼロ年代でもねーよ! とツッコみたくなる崩した演出も最高。「君がそうならそこをそうさせていただく」のズレたセンスはすごい。丸一週間笑い続けて日常生活に支障をきたした。

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ラストカット原画の全体的にぶっ飛んだ勢いはなんなんだ。

そんな軽い口当たりの本作だが題材とドラマには真摯だ。クライミング周りの描写は堅実かつ視聴者にもわかりやすい(突然パンサーになったりクソダサいスーツを装着したりするが……)。ときにはあえて説明を省く受け手を信頼した表現もある。花宮女子の4人だけを見ても個性に応じた得手不得手があり、その連環がクライミングというスポーツ自体の掘り下げとなる。シンプルだが非常によく練られた構成であり舌を巻いてしまう。
キャラ付けが濃くとも繰り出される感情は真に迫っている。花宮の4人は元より好敵手・久怜亜と茜のドラマもいい。憧憬と劣等感がないまぜの少女の感情はおれに効く。相手を凹ませたいくせにいざ凹むとキレ出す女なんだよな。11話のノノ先輩の声も未だに耳にこびりついている……キャラの声質を保ったままあのような叫びを絞り出せるのか。富田美憂という声優のポテンシャルを叩きつけられる一幕。
好は個人部門では全国トップのくるくるすには敵わない。しかし団体部門では花宮女子として優勝を掴み取る。持ち味が違う仲間の存在が栄冠への鍵となる帰結は、バラエティ豊かなキャラに彩られた作品の〆にふさわしい。
これぞ深夜アニメと歓喜にむせぶ楽しい表現に満ち溢れ、しかし楽しいだけでは終わらない芯の強さと太さを感じさせる。長丁場だった今期ドヨルを締めくくる爽やかな快作だった。途中で次回予告がなくなってしまった点だけが心残り。すすすすくるくるす~。



以上。以下、おまけで選んだ話数単位10選となんやかや。

① 22/7 第7話「ハッピー☆ジェット☆コースター」
SHOW BY ROCK!!ましゅまいれっしゅ!! 第10話「プラットホーム」
③ アルテ 第4話「コルティジャーナ」
白猫プロジェクト ZERO CHRONICLE 第7話「山菜採り」
かぐや様は告らせたい?~天才たちの恋愛頭脳戦~ 第11話「そして石上優は目を閉じた③/白銀御行と石上優/大友京子は気づかない」
八男って、それはないでしょう! 第12話「八男って、それもありでしょう!」 
Re:ゼロから始める異世界生活 2nd season 第29話「親子」
ジビエート 第12話「命の果てには」
⑨ ご注文はうさぎですか?BLOOM 第6話「うさぎの団体さんも大歓迎です」
⑩ 体操ザムライ 第6話「親子ザムライ」

このラインナップで書いたら全然違う雰囲気になるだろうな……。シャチバト10話やアラド11話、キンスレ9話も捨て難かった。D4DJ4話なんか当確級だけど来年に回る。ブシロードが悪い。

今年のアニメも豊作でした。ましゅましゅに始まりアサリリに終わるような1年間だったけれど、リアルタイムの視聴体験はスポーツアワーが抜群に良かった。一般層にもリーチしうるルックと完成度の体操ザムライ、ヲタク向けに振りきった極上B級娯楽アニメのいわかける。連続で摂取することによって相乗効果が発生していた。深夜2時半から朝まで続く感想戦もまた思い出深い。
このレベルの番組編成とはしばらく出会えそうにないけれども、こうした体験を上回るために新アニメを見続けるのである。……視聴体験に限った話ではないか。作品単位でもそうだ。更新されない「今が最高」は「昔が最高」に変じていく。他人のそれを否定はしないけど、おれはもうちょっと走り続けたい。走って走ってそれでも残った「最高」に価値があると信じたい。

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『恋とプロデューサー』いいアニメだったよね。

年末いっぱいまで秋アニメが続き、冬クールは三が日から(僧侶)。なかなか切り替えが大変だけどキリキリ突っ走っていくぞ。

それでは来期アニメで会いましょう。よりもいの再放送も楽しみ。

*1:これは相手の目に「あなたが理想とするわたし」を映すことにもなる。夢結側の視点について考える際のひとつのポイントだろう。

今、このときを帰る場所と決めて ~TVアニメ「SHOW BY ROCK!!ましゅまいれっしゅ!!」読解・感想~

奇跡、出会えたかも!? これは夢と希望と音楽と、奇跡の物語。

サンリオ原作・キネマシトラス制作のアニメ『SHOW BY ROCK!!ましゅまいれっしゅ!!』を観た。
SHOW BY ROCK!!』シリーズのアニメとしては(ショートアニメを除くと)実にこれで3作目となる。主役バンドに前2作と異なる新バンド『Mashumairesh!!』を据え、アニメとしての制作体制もほぼ一新して作られた本作だが、20年代の始まりを告げるに相応しいビビッドな傑作に仕上がっていた。
音楽を媒介に、方向性の異なる3バンドを足場にして描かれる物語は、初めのうちこそとりとめもなく映るが次第にその軸が可視化されていく。
なぜバンドなのか、自分たちは何者なのか、そしてどのように在りたいのか。質感を伴った細やかな描写と話数を跨いだ反復、そしてバンド・キャラ間の対比は各々の成長とアイデンティティをくっきりと浮かびあがらせる。
本作は他者との交流の中で『Mashumairesh!!』のメンバー4人が、ちょっとだけ変わったり変われない自己の一部を認めたりしながら、全員でひとつの答えに至るまでの輝ける青春の1ページである。あと百合と野郎。
以下、例によって文字起こしにも近い雑感を書き連ねていく。誤読や曲解、牽強付会も多々散見されると思うが、当座の記録ということでひとつ。

・才への期待と個性への愛

本作では実に多くのキャラが他者から期待を注がれている(あるいは、いた)。
ほわん、ヒメコ、デルミン、ヤス、そしてレイジンの面々……それぞれが自分にかけられた期待に対してどのように応じたか、またどのような在り方を選択したか。その様がときに淡々と、ときに凄烈な筆致で描かれる。
象徴的なのが1話Aパートだ。本作の主人公・ほわんはえいやっと村の人々から無邪気で過剰な期待を寄せられている。胸が温かくなる一方で初見時はこんクソ田舎…と呟きたくもなる一幕だが、ほわんはすっかり慣れたことのようにしなやかに期待を受け止めている。

これと対照的なのがもうひとりの主人公・マシマヒメコである。
ヒメコはかつてその優れた音楽的資質を買われてバンドを組んでいた。しかし、バンドメンバーから寄せられる過度の期待に応えきれず、身勝手な幻滅を繰り返し受け続けるうちに拗れていった人物でもある。
誰もが才能目当てで近寄ってくる。才能だけしか見てくれない。そんなバンドという場にヒメコは強い憂いを抱いている。
(3話でマスターからどこゆびのチケットを受け取り「でも曲は良かったから」と語るほわんを見て立ち止まるヒメコの姿は印象的。自分のバンド練を見学しに来たのもチケットをもらった理由(=音楽的能力のみに対する期待)と同列の感情なのか? このシーンは5-6話でヒメコが「ほわんも結局自分の能力に惹かれているだけなのかも」と勘違いする最初のトリガーとなっている)

物語前半部のヒメコには、ヒメコとバンドを組みたがる人間からの「すごい」は禁句である。
「すごい」は能力への賛辞である。たとえその中に好意が含まれているとしても、すごくなくなったら、期待に応えられなくなったらそこで好意も終わり。芸能の世界さながら、才の切れ目が縁の切れ目となる。
10話での作曲風景を見る限りそれなりにスランプも起こすタチなのだろう。実際そんなふうに離れていく人をヒメコは多く見てきたらしい。
6話でヒメコがほわんのバンドの話をたびたび打ち切るのはこのためだ。
バンドを組んだらほわんもいずれ自分に期待を寄せるかもしれない。そうなったらまた幻滅される。今のようなただの友達でさえいられなくなる。それだけは嫌だと。

一方、ほわんがバンドを組みたい理由は別のところにある。

「みんなと一緒に音楽を、音楽を……えーっと、わからないけど、とにかく一緒にやればきらきらできるって」

6話Aパート、バーガーショップでの台詞。ここでほわんが言い淀むのは音楽をことさら特別視はせず、単に好きなもののひとつとしてヒメコたちと共有したいからだ。好きなものについて話した2話、秘密を言いあった4話の延長。この台詞の力点は音楽(≒ヒメコの才能)ではなく、一緒に何かをやることにある。
音楽じゃなくていいわけではない、けど音楽だけがすべてでもない。この手段であり目的でもあるという題材への距離感は絶妙なもの。

6話の話を続ける。
カラオケで「うまい」「ダントツですごい」と言われ、トラウマを刺激されて苛立つヒメコ。「特別」に惹かれるルフユが評しているのがまた一貫性があり……というのは一旦脇に置いといて。
カラオケボックスを出たヒメコとほわんはレコードショップの前で足を止める。

「このバンド好きなの?」
「うん。いい曲書くんだよ。海がテーマのやつで、ぐっとくるんだ」
「ほわ~。聴きたい!」
「うちにあるから後で貸してあげ……」
「ヒメコちゃん?」
「なんでもない」

CDを貸し借りしようとする上のくだりは2話のリフレインだが、2話と違いヒメコはほわんにCDを貸すのを止めてしまう。
音楽でほわんとつながることを、さらに帰宅後は旅行という音楽と無関係の遊びすらも拒絶する。ヒメコはいよいよほわんを遠ざける。裏切られるのが怖いから。たぶん捨てられるより、自分から捨てる方が多少は楽だろうから。
ヒメコはひとりになるよう努めてきた1話時点の彼女に逆戻りしようとしている。

夜の海辺で、ヒメコの痛切な心情を聞いたほわんは海に向かって叫ぶ。

「うちの、バカ――――――――――――!!」

ほわんはバンドを組みたい自分の気持ちばかり優先して考えていたと懺悔し、自分がヒメコにしてもらったこと、ヒメコを好きになった根拠を並べていく。
そこから続く「ヒメコちゃんはすごく優しいしカッコいい」という台詞は、ヒメコの過去とも才能とも関係のない、今のヒメコの人格に向けた言葉だ。

そしてほわんは、今までヒメコが一番欲しかっただろう言葉を口にする。

「でも、うちはずっと一緒にいたいの」
「なんで」
「決まってるよ。ヒメコちゃん、だから」

ただ、その人がその人であるから。
これは本作全体を貫く、存在そのものが有するアイデンティティへの力強い肯定だ。

「ねえ歌って!」
「唐突」
「うちヒメコちゃんの歌大好き!」
「やだ」
「えー」
「一緒なら、いいよ」

ほわんはヒメコの歌を「すごい」でも「うまい」でもなく「好き」だと語る。
評価ではなく嗜好。口に合うと言い換えてもいいのかもしれない。5話・8話でレイジンの力量を認めながらもましゅましゅを選んだように、ほわんはヒメコの作る歌こそが他のどんな歌よりも好きなのだ。
ほわんはヒメコの音楽的才能を、人格的な優しさやカッコよさと同一線上に並べられる個性のひとつとして好きだと言う。
優れているからではなく、ヒメコだから。
その才能もまた、ヒメコという存在の愛おしい一部だから。
どれだけヒメコが悩んで怒っても「優しくてカッコいい」と評したように、たとえ作曲で躓いても「歌が好き」だってきっと変わらない――そういう好意を向けられたことでヒメコの心はとうとうほぐれる。
また、そんなほわんが相手だからバンドの結成にも前向きになる。ほわんの主目的はヒメコの才能ではなく純粋な「好きの共有」なのだと、心からそう信じられるようになる。
浜辺でポテトを食べる、という自分だけの秘密を打ち明けながら。ほわんと好きを共有しながら。

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(6話の1週間後に発売された『ましゅましゅ!!がカラオケ歌ってみたCD』のジャケット。6話から一転、ほわんたち3人の前で何の憂いもなく楽しそうに歌える、音楽の才能をふるえるようになったヒメコが本当に眩しい)

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(人格への愛といえば2話A・最終話Aのデルミンもいい。デビルミント鬼龍族内での期待に応えられず出奔したのに、外では一族というだけで特別扱いされて過度な期待を寄せられる。そう4話でこぼしたデルミンだが、アンダーノースザワの住民は一族の才覚とは無関係にデルミンを愛している。デルミン当人は街の人気者である事実を自覚していないが、ここにもほわん→ヒメコ、あるいは5話以降のルフユ→デルミンのような「鬼龍族だからではなくデルミンだから」という種類の好意を発見できる)

・バンドの方向性となりたい自分たち(どこゆびの場合)

本作6話までのお話はほわんたち個々の掘り下げおよび1対1の関係の進展に焦点を当ててきた。
そしてバンドを結成した7話以後は、上記に加えて物語の縦軸に「バンドの方向性・バンドとしてのアイデンティティ」が取り入れられる。

「そもそも、君たちはどうなりたいんだい?」

8話で対バンに完勝したララリン様からましゅましゅへの問いかけ。
ましゅましゅとどこゆびの方向性の問題は7話で提起されるが、現時点でそれを確認できていない両バンドは先輩バンドであるレイジン・シンガンに敗北を喫する。
目指すべき方向性を全員が自認し、バンドとしてまとまること。それが両バンドの今後の課題となる。(いやどこゆびが負けたのはクソカーリングだが……)

DO根性北学園という外部からの手出しもあり、先に一歩踏み出すのはどこゆび。

『君たちの音楽で人々の心を豊かにすること』
「悪くねーんだけどな。けど、あいつら……」

学園卒業の手段としてバンドを組んでいたどこゆびだが、ライブを繰り返すうちにヤス(と他の3人)は他人の心を満たせる音楽という媒体そのものに惹かれていく。
一見やる気がなさそうなどこゆびの3人を見て煩悶するヤス。彼の前に仁刃笛に扮した校長が現れ、ソロデビューの誘いを持ちかける。

「なあ、母ちゃん。おれがテレビ出たりして売れたら嬉しいか?」
「そりゃもちろん。そんな日が来たらねー」

迷ったヤスは母と会話し、母から期待の言葉を引き出す。
ヤスはその期待に応えるために仁刃笛の提案に従い、ヤンキーらしいキャラを捨て、自身のアイデンティティを切り崩していく。

「やりたいことは売れてからやればいい」

……校長のこの台詞に、レイジンの幻影を見てしまうのは単なる感傷だろうか。

なぜバンドを組むのか? なぜ音楽をやるのか?
仁刃笛のプロデュースはヤスの動機を容赦なく解体していく。ヤスは方向性を見失い、その姿を3人に目撃される。
しかし音楽を本気でやるのも、音楽で誰かの心を満たすのも、実はどこゆびのままで大丈夫なのだ。ヤスはアイデンティティを捨てなくていい。そんな新曲『カバンには鉄板です』を、彼らはもう作っている。
素直になった3人との会話でヤスはその現実に気が付く。ヤスに花束を贈ったファンが既に後者を証明しているのがニクい……。

「売れなさい。私がびっくりするくらいにね」

あとは思いっきり売れて、ヤスの母の期待に応えるだけだ。

どこゆびの方向性とは気楽に喧嘩できるメンバー間の仲の良さであり(ほわん曰く「音の仲が良い」)、また9話で再確認した本気で音楽に打ちこむ姿勢である。彼らの言葉で表現するなら「仲間」の一言に尽きるのだろう。
9話はハッチンからの食事の誘いを再三断り続けたヤスが、実家のコロッケを持ってきて自分からどこゆびに踏みこむ形で終わる。どこゆびの4人はコロッケを囲み、さらに少し仲良くなる。
ましゅましゅのポテトとどこゆびのコロッケ。つまりおいしいやつです(?)。

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(アイドルになるのも悪くない、とさらっと描かれているのも実にいい。どこゆびのメンバーはその変化を芸風の振れ幅、なりたい自己像として許容する。ギャグだが、この描写は未来のましゅましゅ、ひいてはレイジンの映し鏡にもなっている。……ホントになってるか?)

・バンドの方向性となりたい自分たち(ましゅましゅの場合)

新曲ができたどこゆびとは逆にヒメコはすっかりスランプ気味。表現したいテーマが定まらず、ゆえに作曲作業も捗らない。ましゅましゅ一同はヒメコの気晴らしのためにほわんの実家があるえいやっと村へ。
言うまでもなくこの行為の裏にはヒメコの才能への期待がある。しかし同時に少しでもヒメコの役に立ちたい想いの表れでもある。行きの電車内でプレッシャーを感じさせるぎこちない笑顔を浮かべつつも、ほわんの家族からの温かい歓待を通してヒメコの態度は軟化する。

「ところで、何か思いついた?」
「んー……温泉湧いてもフレーズは湧いてこないね」

温泉に入っている最中にほわんと交わす何気ない会話だが、ここにはヒメコの6話以降の変化がぎゅっと凝縮されている。
温泉を出てほわんの部屋に移ってからの会話も大変いい。

「あのさー、そういうことならもっと曲のアイデア出しとか手伝ってよ」
「うちたちも一緒にしていいの?」
「当たり前じゃん。あたしたちの曲だよ」
「やるー!」

温泉でのしょうもない冗談も、曲作りの協力要請も、過去の彼女からすれば「期待を裏切るような言動」のはずなのだ。
こんなことを言えるのは相手が他ならぬほわんたちだからである。ほわんたちがヒメコに抱く期待は、ヒメコという存在への愛を大前提とした期待だからである。
仮に期待に応えられずともほわんたちは自分に幻滅なんかしない、自分から離れてなんかいかない、自分への愛は消えない――今のヒメコには、ましゅましゅに対するこのような強固な信頼がある。
消えない愛が前提の期待。この構図はえいやっと村→ほわん、ヤスの母親→ヤスと相似形だったりする。ほわんの育った村の環境がほわんの人格形成に強い説得力を与えている……。

作曲中、自分たちの中から出てくるものが曲になったらいいな、とこぼすほわん。
ほわんの言葉を皮切りに4人はましゅましゅでの思い出を辿っていく。

「そんな思い出が曲になったらいいね」
「思い出かあ……」

そして夜が更けた頃、ほわんとヒメコは星がよく観える丘に散歩に出かける。
ほわんにとって1話で「なんかいいことありそう」な兆しに見えたオーロラは、ヒメコとふたりで観たとき、同じ風景でもかけがえのない「奇跡」になる。
(完全に余談だが、星の意匠は1話から最終話に至るまで形を変えて様々な物・事柄に組みこまれている。Mashumairesh!!のロゴも円陣も、ライブ中のエフェクトもEDも……いや単にヒメコのトレードマークでもあるんだけども。「一緒にやればきらきらできる」のきらきらって✧のことですよね?)

「ほわんに出会って、あたしちょっと変われたかも」
「え? ヒメコちゃんはずっとヒメコちゃんだよ?」

この変化に対する認識の相違もましゅましゅの肝。後述。

「うち、今最高に楽しいって気持ちを、ずっと覚えていたい。ヒメコちゃんも忘れないでね」
「忘れないよ」
「じゃあ約束しよう」

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これが最終話で歌となって結実する、ましゅましゅの方向性である。

・心と力、変わるものと変わらないもの――アイデンティティへの祝福

11話、新曲を完成させたヒメコをましゅましゅは全員で賞賛する。

「やっぱヒメコは天才だねー!」
「はあ!?」
「そうですね。アンダーノースザワの宝です」
「ほわ~」
「言い過ぎだし。それに、あたしだけじゃなくって、みんなで作った曲、でしょ?」

上述した通り今のヒメコにはましゅましゅとの関係への信頼があり、またましゅましゅも今のヒメコなら褒めても大丈夫だと確信している。ヒメコはましゅましゅという場で自身の才能を素直に受け容れ、また十全に発揮できるようになっている。
こうした能力への賛辞はデルミンの家に遊びに来たルフユにもなされる。

「すごいです。ルフユさんマメです。見た目と違って意外です」
「えっと、ありがとう……?」
「そのうち本でも書けそうですね」

ヒメコの天賦の才ともデルミンの出生とも異なる等身大の「すごさ」だが、デルミンに褒められたルフユはこの上ないほどに喜ぶ。
ルフユはましゅましゅの中で唯一の特別になりたい(=すごい力を持ちたい、みんなに褒め称えられたい)少女である。ヒメコやデルミン、ほわんとは異なる願望を持つ彼女の存在が、力に惹かれる気持ち自体は否定しない作風を成立させる。相手の人格を顧みずに力だけ見るのが問題なのである。

6話・10話に続いてこの話数でも再度出る「ヒメコはヒメコ」。
その含意を確認するほわんとヒメコの破壊的に甘いピロートーク会話を経て、翌日ましゅましゅ4人は全員揃って寝坊する。マジか。
冗談みたいな最終話の幕開けだが、ましゅましゅの方向性がプロ意識の弱さと裏表なのだと捉えると納得はいく(言い方が悪いな……)。ほわん曰くプロみたいなヒメコも実際にはプロではなく、ゆえにたまにはこういうポカもする。監督も4人はまだまだ未熟な所があるって言ってるしね……(最終話後のTwitterコメントより)。

間違ってトラックで運ばれたギターを追って街中で迷子になるほわん。チケットを落としてひとり途方に暮れた1話のリフレインである。
違うのは、思い起こす人が故郷の人々からましゅましゅに変わっている点と『ネオンテトラの空』がエールのように響き渡っている点。「そんな奇跡があるんだって(あなたが教えてくれました)」という歌詞にましゅましゅが重なるの好き……。

デルミンのビームを目印にほわんはどうにかフェス会場に辿り着く。
デルミンにとってビームはデビルミント鬼龍族としてのアイデンティティである。この特別な才能もまた、ステージに上るための大事なピースとなる。

ライブ前、ステージ裏で交わされる会話にはましゅましゅの4人それぞれの変化が詰まっている。

「バンドを組んで対バンしてフェスまで出て! 毎日が特別でいっぱい!」
「そういうルフユもすごいけどね」
「えっ」
「うん。ルフユちゃんは面白くて、ドラムが上手で、みんなを引っ張ってくれて」
「強引なことも多いですが、全然普通じゃないです。特別な友達です」

普通がいいと語ったデルミンが、特別な関係に喜びを見出して。
特別に憧れたルフユが、ありふれた、けれどたしかな特別を得る。

「だってミディロックだよ? ここに自分が立つなんて。……しかもバンドで出るんだなって。その、なんていうか、嬉しい。ちょっとヤバイかも。だってあたしひとりじゃ絶対に出られなかった。悔しかったり悩んだりもしたし、自分が嫌にもなったけど。今は、うん。割と好きかも」

「あのさ、あたしたちが出会えたのって奇跡だと思うんだ」

言葉で表現することに奥手なヒメコが雄弁に想いを語り、バンドで出られて嬉しい、この出会いは奇跡だとましゅましゅに伝える。ほわんのように。

「胸がいっぱいでうまく言えない。だから歌で伝える。聴いてね、うち、頑張る!」

今までたくさんの言葉で想いを伝えてきたほわんが、胸に詰まったその感情を全力で歌に籠める。ヒメコのように。

4人で今をめいっぱい楽しむ。方向性が一致したましゅましゅの円陣はぴったりと噛みあう。グーをぶつけあう4人の笑い声で私は毎回泣きそうになってしまう。本当に楽しそうで、嬉しそうで、幸せを煮詰めたようなひととき。

ましゅましゅはフェスのステージに立ち、新曲『プラットホーム』を歌い奏でる。

1話冒頭のほわんの鼻唄が形になったのが『プラットホーム』である。
ひとりで口ずさむだけだったそのメロディを曲として完成させられたのは、4人の尽力、そしてヒメコの音楽の才能のおかげである。
最終話は物語前半の「才能だけではなく人格も見るのが大事」という語り口から一歩進んで「才能も人格もその人を形作る大切なファクター」だと改めて強調する。
心と力のどちらが欠けても、その人はその人足りえない。
自分が自分だったから、みんながみんなだったから。だからましゅましゅはフェスのステージで、このライブを実現できるのだ。

そこにはこの全12話を通して少しずつ変わったましゅましゅの4人も、変わらない4人――歌が好きなほわん、才能豊かなヒメコ、特別に焦がれるルフユ、鬼龍族のデルミン――も含まれている。

さよならはまだ言わない
またこの場所で待ち合わせ 指切りしよう
忘れないでねえ いつか
帰ってくるよ必ずまた 会えるように

曲名の『プラットホーム』とはなんだろう? 帰る場所とはどこを指すのだろう?
私見だが、私は「今のましゅましゅ」そのものを指しているのだと思う。一番最高で楽しい今の4人を、重ねた日々を忘れない。そう誓った今のましゅましゅこそが、常に帰るべき場所であるのだと。
君たちは未来でどうなりたいのか? というレイジンの問いかけに対して、過去の様々なシーンを彷彿とさせる歌詞に曲を乗せて「さよならはまだ言わない」「この場所に帰ってくる」と、すなわち今のバンドの方向性・バンドのアイデンティティを貫くと答える。
信じる道を進むために過去の方向性=しんGOずとさよならしたレイジンへの真っ向からのアンサーである。

また、この曲は決して未来にかけての変化を否定しているわけではない。
今がどんなに愛おしくても彼女たちは列車に乗りこむのだ。1話から今までの日々が休みない変化の連続だったように、どうあれ同じままではいられない未来に向かって進んでいくのだ。流れる時間に背中を押されて、今との離別に涙を堪えて。
しかし彼女たちは今を忘れないと、帰ってくると約束する。だから本当のさよならにはならない。
ヒメコがこれから変わっていっても、変わらずヒメコであるように。
『プラットホーム』で帰るべきアイデンティティを確立したましゅましゅも、これからどんなに変わっていっても変わらずましゅましゅのままだから。
その人がその人であり続ける限り、ヒメコのミクロな視点では変わってもほわんのマクロな視点では変わらない。10話で描かれたこの変化の概念がバンドにも拡張される。
『プラットホーム』は今のましゅましゅと未来のましゅましゅを同時に肯定する。
変わった自分も、変わらない自分も、これから変わっていく自分すらも。

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(BD・DVDのジャケットがカメラのフレームを模しているのも象徴的。否応なく時間は流れていく。止まってほしいと希うほどに愛おしい今もすぐ過去になる。そんなすべての瞬間をこれからもずっと忘れないための記録。その一枚一枚がましゅましゅというバンドを形作っていく。ルフユのノートも11話の写真も最終話ED映像も同じ文脈だろう。記録しようって言い出すの絶対ルフユなんだよな……ルフユ……)

「うちたち、『Mashumairesh!!』でした!」

ひとりでは認められない自身の個性も、4人でなら認めあっていける。
互いの個性の全部を使って楽しい日々を生み出していける。
『Mashumairesh!!』はこれまでも、これからもそういう時間を重ねていく。

物語はフェスが終わった1週間後、『ヒロメネス』のストリートライブで幕を閉じる。
『プラットホーム』が帰る場所の歌なら『ヒロメネス』は行く場所の歌である。フェスが終わっても4人のバンド人生は、変わっていく日々は続く。

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見上げればその道行きには、1話のように幸運を告げる星が光っている。

・総感

大好きな、そしてすごいアニメだった。まさしくルナティックアニメーション。
楽曲と脚本は言わずもがな、作画・演出・キャストも申し分なし。アイデンティティを巡る物語としても、青春音楽百合アニメとしても。その道におけるひとつの極致を垣間見たような心地である。
1話はぼんやりと視聴していた。2話でなんかいいな~と感じた。4話でおっと舌を巻き、5話、6話で百合アニメとして爆発した。
心情描写の丁寧さに気付いたのは話も後半の頃で、反復・対比の巧みさに唸るのは2周目の視聴からである。私がアニメの内容を割とすぐ忘れるタイプのダメ視聴者なのもあり、こうした構造の作品は何度見ても発見が尽きない。
上でちょくちょく立ち寄った小ネタ以外にも語りたい事柄はあまりにも多い(手足や耳、そして尻尾を用いた非常に豊かな感情表現とか)(1話であだ名を拒否してたデルミンが11話でルフユをルナティックさん呼びとか)(2話で仲良くなると共に接近してるほわヒメのギターとか)(4話のアーク溶接の比喩とか)(互いの部屋で互いのベッド使ってるほわヒメとか)(序盤・終盤で同じ台詞に別のニュアンスを籠めてるのとか)(随所に出てくる境界線演出とか)(ミド&バンジー望郷編、本質過ぎるだろ……とか)(方向性を変えたレイジンとて過去を忘れてなんかいない、アイデンティティを失ってはいないとか。バンド名……5話序盤のしんGOず時代からのファン……)(サントラのジャケとか)(削れて音が変わってもデルミンの祖父は祖父のままだとか(?))(4話でカレーの味で揉めたどこゆびが同じ激辛鍋を囲むとか)(バンドヤバイ!とか)(互いが互いのヒーロー性を与えあうから『ヒロメネス』なのだとか)(各楽曲の作詞・作曲・編曲の表記だとか)(ほわひめキャラソンでお互いへの愛を歌うな💢💢💢とか)。だらっとした雑談や生活の描写が作品全体の質感を底上げしていたのも間違いないだろう。ポップなケモ耳キャラでありながら吐息にはたしかな温度がある。上に長ったらしく書き記した骨子となっているテーマ部分以上に、この肉付け部分こそが本作最大の魅力だったのかもしれない。
携わった全スタッフに深い感謝の意があるのは勿論だが、監督・孫承希さんとシリーズ構成・田沢大典さんの名前は特に深く記憶に刻まれた。どちらもその役職に就くのは初めてというのだから驚きである。アドバイザーの小島正幸さんの存在も大きいのかも。

楽しくてきらきらしたアニメだった。慈愛に満ちたアニメでもあった。価値観の異なる多くの人物を多層的に扱いながら、その誰をも否定せずにただ優しく彼ら彼女らの背中を押す。変わっていくものと変われないもの、そのいずれをもそっと抱きしめる。そんなふうにどこまでも温かい、血の通った手触りの作品だった。
これからのましゅましゅ、どこゆび、レイジンの日々がますます幸多きものに……もとい「ヤバく」なるように。今はただそう願ってやまない。

続編のSTARS!!に望むことはどこゆびのヒットとレイジンの掘り下げですかね……。

私は私のまま大人になる ~Re:ステージ!ドリームデイズ♪第9話『向こうの親御さんには私から連絡しておくわ』読解~

f:id:n_method:20190908100133j:plain毎日アニメを観ていると1クールに何本か「これは」と思える回と出会う。
そうしたとき、これまで点と点で認識していた数多の描写が星座のようにつながり様々な像を結んでいく瞬間がある。これは大変な僥倖で、この経験を得た後に改めて過去の話数を反芻すると初視聴時とはまるで見え方が違ってきて驚いたりもする。
本記事では久しぶりにそのような感覚を味わえたアニメ『Re:ステージ! ドリームデイズ♪』第9話について現時点で感じたこと、思ったこと、考えたことを時系列順に書き記した。例によって半ば文字起こしになってしまった部分が多いが、本エピソードを楽しむ上での一助となれば何よりの幸いである。

第9話『向こうの親御さんには私から連絡しておくわ』のあらすじを端的に表現するならば、本作のもうひとりの主人公と呼べる少女・月坂紗由(以下紗由さん)が一旦子どもに立ち返り、大人のフリをやめて、少し大人になるお話である。
先に言うと、今年観たアニメの中でも間違いなく五指に入るエピソードだった。

・幼さという個性の肯定

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「あら? 舞菜ちゃん、最近ちょっとお胸が発育したんちゃう?」

アバン。
更衣室。深夜アニメ名物のサービスシーンと呼んで相違ないアレ。
次回予告の時点で話題騒然だったサブタイも相まって、すわベッドシーンへの前振りか! と色めきだったヲタクは多いだろう。かくいう私もそのひとりである。
何しろ女子中学生の発育の話である。条件反射で歓喜する。しかし冷静に見返すと本エピソードの初手としてとても大事なシーンだと理性で理解できる。後述。
(第1話で舞菜が部長と出会うシーンで既に「胸はちょっと小さめで……」とこの台詞の前振りをしていたりする。実に仕事が丁寧。)

Aパート。
夜、母親と喧嘩して自宅を飛び出した紗由さんは歌詞作りの際に知った舞菜の家を訪れ、一晩泊めてくれるように頼む。舞菜と叔母は快諾し、紗由さんはなし崩しで舞菜と共にお風呂へ。

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「誰かとお風呂に入るなんて久しぶりだよ」
「うん、私も」
「紗由さんってスタイルいいよね。えいっ」

お風呂シーン。深夜アニメ名物のサービスシーンと呼んで相違ないアレ。
舞菜は13、紗由さんは12才。言うまでもなくまだまだ子どもで、けれどいつまでも子どものままではいられない。そしてスタイルの良い紗由さんは発育途中の舞菜より一足先に大人の階段を登っている。
肉体の成長は「大人になるよう否応なく背を押してくる時の流れ」そのものである。これはAパ―トのキーポイントのひとつ。ところで紗由さんのほうが年下なのよくない?

「これ、アヒルさん? 紗由さんの?」
「うう……私、それがないとお風呂に入れなくて……」
「えぇっ」
「こ、子供みたいよね。中学生にもなって」
「え、全然? 可愛いよ紗由さん! 私も一緒に遊んでいい?」

OPでおなじみ玩具のアヒルがついに本編に登場する。
ところで、ここで第3話でのある会話を思い返しておきたい。

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「好きなことになると早口になるのね、かえって」
「あっ……胸が熱くなると、そのクセが出てしまう」
「別に? いいと思うわよ。可愛い!」

ボイスノイド・ここぱんなについての説明シーンの後、何気なく挿入された会話。かえのヲタク特有の早口を可愛いと肯定する紗由さんと、浴場にアヒルを持ち込む紗由さんを肯定する舞菜は台詞の言い回しまできれいに重なっている。
3話の当該シーンでは紗由さんのすぐ隣に座っていた舞菜である。知らず知らずのうちに影響されたのかもしれない。
私にはこの反復は、アヒルがないとお風呂に入れない紗由さんの幼さを改めるべき未熟さではなく可愛らしい「個性」としてかえの早口と同列に描くためのものに映った。

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「実は、うちの親、私がアイドルを目指してることを反対してて」

「去年までは応援してくれてたんだけど、中学に入ったらやめなさいって言われてね。いつまでも夢ばっかり見てるなって。だから、本校の受験も許してもらえなくて」

中学進学時、本校の受験を許されなかった過去を語る紗由さん。
この時アヒルが紗由さんの身体からすーっと離れていくのが印象的。アヒルは紗由さんの幼さの象徴であり、また彼女の個性でもある。
紗由さんは「いつまでも夢を見ているのは子ども、諦めるのが大人」という、母親のかざす論理に囚われている。

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紗由さんの長い告白の後、舞菜は彼女から離れたアヒルに手を伸ばす。

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「気にしないで、紗由さん。私のこと頼ってくれてとっても嬉しい。それにこうやって、紗由さんと一緒にお風呂にも入れて、アヒルさんとも遊べたし!」
「うわぁもう! また!」
「あはは、あははは! だって楽しいんだもん!」
「今度は私の番よ! 舞菜、覚悟ー!」

家出も、他人と共に入るお風呂も、アヒルの玩具で遊ぶのも、言ってしまえばいかにも幼い行為である。
しかし舞菜は紗由さんの幼さを否定しない。むしろ彼女が初めて見せてくれた幼い顔のすべてを楽しい、可愛いと積極的に受け容れて、紗由さんと同じように年齢よりやや幼い子どもとして振舞う。
絶賛発育中、紗由さんと同様に自らも大人の肉体に変わりつつある舞菜がアヒルで遊ぶのである。言葉などよりはるかに雄弁な、紗由さんの幼さの全肯定だろう。
舞菜の姿に引っ張られるように紗由さんは自身のアヒルを取り戻す。
舞菜の眼前で、アヒルで遊ぶ自分のことを肯定して見せる。

……感情のままに突撃する紗由さんだからこそ、受け止めた舞菜とふたりで楽しい時間を過ごせる。
思えば舞菜と紗由さんは出会いの日からずっとそんな感じである。関係性の縮図。

・未来に架ける「ずっと一緒」の夢

お風呂から時間は飛んで時刻は深夜。
衣装直しからの……同衾! 深夜アニメ名物のサービスシーンの中でも最上位に君臨するアレ。
紗由さんの孤独、互いが互いを引っ張り上げる関係についてひとしきり喋り、笑いあった後。

「私、紗由さんとずっとずっと一緒にいたい。離れたくない」
「私もだよ、舞菜。でも、それってどれくらいまで?」

「ずっととはどれくらいまでか?」とは。書き起こしてみても奇妙な文面である。
ここで再び過去の話数での紗由さんの動向に目を向けたい。第2話と第7話。

「うん、絶対だよ。プリズムステージまで、ずっと一緒に」

「舞菜がつらいとき、私、ずっと傍にいる。ぎゅっと手を握ってる。だから一緒に行こう? 私は舞菜と一緒に夢が見たい」

実は「ずっと一緒」と先に言い出したのは舞菜ではなく紗由さんの方だ。
そして先述した母親の論理と上記の台詞を統合すると、紗由さんの「ずっと」は実は有限の時間、子どもで/夢を見ていられる間を指していると思われる。
進学時、親の唐突な翻心によって一度夢が潰えた彼女にとって、未来とは突然途絶える可能性を当然に孕む代物なのだろう。道先には保証など何もない。多くの子どもは大人になるまで夢を保てない。そんな苛酷な現実の一側面を(……あるいはこうして齢を重ねた我々と同様……)、彼女は明確な実感を帯びて理解している。

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「え? ずっとはずっとだよ?」
「プリズムステージが終わるまで?」
「ううん。もっともっと、ずーっとだよ。これくらい、ずっとだよ」
「何それ。よくわかんないよ」
「いいよ。わかってくれるまで離れないもん」

対して、舞菜は遠い将来にかけて紗由さんと一緒にいることを信じている。
ずっと一緒にい続けることを、大人になっても諦めたりはしない、と。
(舞菜の言う「ずっと」は語義通り、大人になってからの時間を含むため)
今の紗由さんにはまだ舞菜の言っていることの意味がわからない。彼女にとってそれは腕を伸ばしても易々とは届かない、ともすればアイドルよりも遠く想像し難い「夢」なのかもしれない。

私は初見時、どこか冷めている紗由さんの言動に妙な大人っぽさを、逆に無邪気に「ずっとはずっと」と言える舞菜に子どもっぽさを感じたりしていた。
このステロタイプな印象論が覆るのが本エピソードの肝である。

※余談だが、先に挙げた3話と7話、そしてこの9話の3エピソードは同一の脚本家(冨田頼子さん)が脚本を担当している。

・循環する勇気と大人の話

Bパート。
学校に乗り込んできた紗由さんの母親(以下紗由ママ)にミニライブを見せて熱意をわかってもらおうとする展開。家庭の問題だ! と取りつく島もない紗由ママに(結果的に)一宿一飯の恩義で切り込む舞菜。話運びが巧い。いえ、そんなのはいいんです。

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みぃ!みぃ!みぃ!みぃ!
4話時点ではみい先輩への脅し文句として機能していた「生徒会副会長が語尾みいキャラでアイドルやってる事実」が生徒会を含めた生徒らに受け容れられ、どころか応援されているさまが克明に描かれる。香澄とサバゲ部も同様である。
ものすごいトンチキな画ヅラなためやはり初見で思考が回らなかったが、このふたつのライブでもアヒルや早口と同じく個性の肯定がなされている。
みい先輩はみい先輩のまま、サウザンドキルエンジェルはサウザンドキルエンジェルのままアイドルという夢に邁進し、その姿が観衆に認められて心を掴んでいるのだ。イェーイ!

4人のライブが終わり、舞菜と紗由さんの順番が回ってきたとき紗由さんはこのようにこぼす。

「今さら私たちのステージを見ただけで、お母さんが考えを変えてくれると思えなくて」
「ボクのことは、あんなに必死に説得したのにね」
「あっ」

この香澄の応答からの流れが本当に鮮やかで感服してしまう。
香澄は知っている。紗由さんの胸に宿る、諦めの心を溶かす情熱を。

「言っておくけど、みいは全っ然心配してないみぃ!」
「せやで。紗由ちゃんはこんなことではへこたれん強い子やって、うちら知ってるし」

部長は、みい先輩は知っている。
入学後、紗由さんが一緒に踊る仲間なしに挫けず頑張ってきた過去を。

「絶対説得してきて」

かえは知っている。
自分でも夢を見られることを教えてくれた、一緒にやろうと告げてくれた姿を。

先に挙げた第3話での紗由さんからかえへの早口の肯定が、お風呂シーンでの舞菜から紗由さんへのアヒルの肯定として巡り巡ってきたように。
ここに至るまでの紗由さんの奮闘が、周囲の人間に勇気を与えてきたアイドルらしい軌跡の数々が、今度は紗由さんの力となるべく彼女のもとに帰ってくる。
紗由さんの諦観を溶かすのは外部のエネルギーではない。
謡舞踊部の目に映っていた、明るくて頑張り屋で猪突猛進な、そして誰よりも諦めが悪い紗由さん自身の姿――個性である。

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「昨日言ったよね。私たち、ずっと一緒だよって。紗由さんとこれからもずっと一緒にやっていきたいって。だから、見せよう! 私たちの夢を!」
「夢……」
「私がついてる」

そして舞菜は未来の話をする。
「ずっと」という夢、「アイドル」という夢を叶えよう。
そう紗由さんに力強く告げる。かつて紗由さんが自分に何度も「ずっと一緒」と言ってくれたように。

舞菜と一緒ならきっと母にも届く。信じた紗由さんにもう迷いはない。

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「理想と現実は違う」なんてね 大人のフリもしてみたけれど
大人になるってこと それは何かを諦めることじゃない きっと…

Story is Bright
強さも弱さも 混ぜて私なんだ
何度だって[ユメを見よう]
追いかけては[追いかけられ]
ほら逃げずに[誤魔化さずに]
心のCenterを進もう

このシーンのために制作された挿入歌『ステレオライフ』の歌詞より。

大人になるとはどういうことだろう?
それは肉体の成長に伴って個性や夢を捨てることではない。
それはたぶん、今の自分と向き合うことだ。強さも弱さも認めた上で、不確定な未来へと一歩を踏み出すこと。そうするための勇気を持つことだ。
だから背が伸びても胸が膨らんでも、幼さやヘンテコさを抱えたまま生きていいし。
きっと、ずっと、叶うかどうかわからない夢を見続けてもいいのだ。

(舞菜が私を支えてくれるの。舞菜が私を引き上げてくれるの。私を連れて行ってくれるの。前よりもっと輝いている場所へ。だから私、舞菜と一緒に……これからも夢を追い続けたい!)

その道行きがお互いにどこまでも高めあえる、不足を埋めあえる、勇気を与えあえる友達と一緒ならば。人生においてこれほど心強く、幸福なこともないだろう。

紗由ママにとっての夫も、もしかしたらそういう存在なのかもしれない、とも。

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最高のパフォーマンスを見せた紗由さんを認めて部活動を許可する紗由ママ。久しぶりに見た娘の笑顔が効いたという筆致が優しくて好き。
「勉強もしっかりやるのよ」という大人の目線の一言もいい。紗由さんの方にも親を心配させるだけの不足、向き合わねばならない弱さがある。この内実をOPの映像という最小限の時間・手間で見せてるから話が早いしストレスも低い。
また「夢ばかり見てないで」と窘められないよう頑張ってほしい。両立大事!

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「見てて、お母さん、お父さん! 私、絶対優勝してみせるからー!」
「まったく…」

子どもらしさ全開の紗由さんと勉強の話頭に残ってる? みたいな両親の呆れ笑いで〆。
本エピソードにおいて肉体面のみならず精神面でも大人の階段を昇り始めた紗由さんだが、そもそも彼女はまだ中学一年生であることも忘れてはならない。
ラストに今一度等身大の紗由さんを感じさせるカットを映し出すのは、成長することは素晴らしいけどそう生き急がなくてもいい、と作品が言ってくれているようでやっぱり優しい。……うんこのあたりはさすがに自分で書いてておれの願望が過ぎる気がしてきた……。

・おわりに

以上が本作2周目(第9話まで)時点での覚書である。
モチーフの扱い方や話数を跨いだ反復の精緻さもさながら、お約束のサービスシーンや本作らしいトンチキな表現のすべてがパズルのピースのように不可欠な要素として散りばめられた傑作エピソードだった。過去の回も含めてどのシーンを抜いても話が成立しない非常に貪欲な構成である。
色々取りこぼしや誤読もあると思うので機会を見つけて最初からもう1周したい。アニメ視聴ってパズルでもあるよね。もちろんリズムも大切だけど。

この2ヶ月、いっぱいの笑いと涙をくれたこのアニメも総集編を除いて残り3話。
膨れあがる期待と緊張の狭間で揺れながら見守っていきたい。

いつか届く、次のキミへの歌 ~TVアニメ「音楽少女(2018年版)」感想~

「ここにいる皆さん全員が私と同じような気持ちになる保証はありません。でも、なるかもしれない。そんな可能性が音楽少女にはあります」

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スタジオディーン×キングレコードの共同アニメーション作品『音楽少女』を観た。
ゆるい作画、すっとぼけたギャグ、単話完結ベースで面白いものの時たま判りづらく雰囲気で押し通しているような作劇。第一印象はいかにもなB級アニメ、実際終始そんな匂いを漂わせていた本作であるが、それら一切をも含めて胸に刺さる掛け値なしの傑作だった。
トンチキ要素とエモーショナル成分の稀有なレベルでの融合、それでしか織り成されることのない独特のドラマと鮮烈な絵面、反復と対比がゴリッゴリに効いた演出・展開と美点を挙げればキリがない。視聴するたびに発見があり、何周でもしたくなる魅力に溢れている。特に最終話は何度見ても滂沱する。ここ数年のアニメ作品でも五指に入るのは間違いないだろう。今年のアニメでは一番好き。
前置きが長くなった。以下、感想。


「素敵なキラキラオーラを放って、音楽の力でみんなをワクワクドキドキさせる無敵の女の子」。アイドルが何なのかつゆと知らず、そんな母の言葉だけを胸にその存在を頭の中で自由に思い描き憧れていた少女・山田木はなこは、数年ぶりの日本への帰郷時に売れないC級アイドルグループ『音楽少女』と出会う。彼女たちのミニライブに心動かされたはなこはその活動を応援したいとマネージャーに志願し、『音楽少女』の面々と自分自身を少しずつ変えていく。

「アイドル」という概念は今やその由来である偶像を越えて、文化に応じて様々に定義される単語と化しているが、本作では「想いを歌で届ける者」(表象としてのアイドル)そして「自分の何かに対して懸命な者」(内実としてのアイドル)としてのアイドルがフォーカスされる。
また、受け取る者の存在なくして何かを届けることが叶わないように、受け取る観客があってはじめてアイドルはアイドルとして成立するということも。
当記事ではこの基本骨子を軸にし、アニメ『音楽少女』について私見を交えて書き綴っていく。

・山田木はなこという少女について

本作の主人公である山田木はなこの最大の特徴として、上述した受け取る者としてのきわめて優れた資質が挙げられる。
はなこは1話で初めて『音楽少女』のライブを見た時点で、楽曲『ON STAGE LIFE』に籠められた強い想いを受け取っている。桐の振り付けのズレを的確に見取り、逆に美点を褒めそやしたりもする。
3話では絶対音感の才覚を、6話では聞き上手な側面を見せたりと、とかく周囲に対するアンテナが鋭敏な上に心配りも巧い。ある意味理想の受け手の具現化とも呼べる存在だろう。
その一方で、送り手としては非常に中途半端な存在である。
一目でダンスを完コピできるがコピー以上でも以下でもない。料理の腕前は羽織に劣り、メイクは髪のセットが精々。音痴ゆえに作曲にも携われない。歌については言わずもがなである。スタッフとしても責任と実績を有する池橋には権限の範囲で及ばない。
はなこにできることの多くはクリエイティブでプロ的なそれらの前段階にある。
そこに存在するのは、ただ「届けようとする熱意」そのものだ。2話で免許を持たない彼女がライブ衣装を走って届けた描写が示唆的だったりする。
こと歌においては、それは作中で「心で歌う」と呼ばれている。
そして、届けようともがけば、それが誰かに届く瞬間だってある。音痴の歌でもそれは変わらない。……相手が受け取ろうとする限りは。

この「届けようとする熱意」は言葉通りの懸命さを帯びている。
即ち、実のところ上記の内実としてのアイドル性と直結している。

はなこ母「あなたが自分から何かをやりたいと言い出したのは初めてね」(2話)

2話ではなこの母が言及した、はなこの人物造形について触れる台詞。
はなこがなぜ送り手としての資質に欠けるかを端的に示した言葉ともいえる。
彼女はたぶん、今までの人生で自分から一生懸命になった経験に乏しいのだ。だから特に序盤は加減がわからず、結果オーライの無遠慮な行動にも出てしまう。
自分の道を歩き出したばかりのはなこは応援する者としてもまだまだ未熟だが、はなこ同様『音楽少女』を支える者として在り続けたセンター・羽織の姿を通して、徐々に適切な言動やレシピのアレンジなどの技も身に付けていく。

「応援できるような存在になりたい」ではなく単なる「応援したい」なのもミソだと思うがここではさて置く。
ともあれ、『音楽少女』を応援しようとはなこが決意したとき、彼女は内実としてのアイドル性を既に獲得している。
(ただしアイドルとは呼べないだろう。自分自身に向けられない情熱や、既に持っている内実のアイドルの本分からズレた地点でのそれは言ってしまえば似姿に過ぎない。だからあくまでアイドル「性」とする。)

次項に進む前にはなこのキーアイテム・ドルドルにも軽く触れておきたい。
ドルドルは曰く「はなこの中のアイドル」であり、彼女を象徴するアイテムだ。ツギハギだらけの不恰好な人形は(帰国して新たに生じた『音楽少女』を応援したいという熱意を除く)はなこのアイドル性・送り手たるすべてを仮託されてできている。
ドルドルは両親の仕事の都合で転居続きだった幼いはなこの寂しさを紛らわしてきたという。恐らくはなこは自分自身を送り手=ドルドルと受け手=はなこに分割し、受け手としてドルドルから元気をもらう他に孤独を癒す術を知らなかったのだろう。
自分の中の「音楽の力でドキドキワクワクさせる無敵の女の子」をドルドルに託したはなこが音痴なのは、後述する最終話のライブを踏まえると納得感がある。

・交感する受け手/送り手の関係

作中での直接的な言及はないが、観客とアイドル・受け手と送り手の関係性は本作の中軸を担っている。『音楽少女』のスタッフであり同時にいちファンでもあるはなこや、他の登場人物たちを通じてこの関係はしばしばピックアップされる。
受け手はただ提供されたものを注がれるだけの器ではない。己が内に生じた熱を以って送り手に影響を返しうる存在なのだ。本作はその点に着目したドラマが再三描かれている。

作曲の3話。
期待されることのプレッシャーからひとりでの曲作りに行き詰った絵里は、受け手であった日陽たちとの作曲によってスランプから脱する。絵里に足りていなかった音、つまり空回りになっていた懸命さは、日陽の初めての作曲活動や『音楽少女』の面々のサポートに補完される。
作詞の6話。
キャリアを積むうちいつしか色を失っていた6話の夏輝先生の心は、未来のダンスと素人丸出しの作詞によって復活する。先生は初めて作詞した未来と同じように素人らしいダンス(キレッキレだが…)を踊り、かつて心の中にいた17歳の少女、内実としてのアイドルを再獲得する。
そして歌の8、11話。
H☆E☆S、羽織に対してのはなこの歌も、上のふたりと同様である。
受け手に芽生えた内実としてのアイドル性=原初的なひたむきさが送り手のそれを再生/再発見させる構図が、もっともわかりやすい6話に限らず幾度も繰り返されている。

はなこ「だから『音楽少女』のみんなが、仕事や家族のこと、過去や将来のこと、そして絶対に諦めたくない夢について、全力で一生懸命ぶつかっているのを見て、びっくりしました。そしてすごいと思いました。そんな『音楽少女』が生み出す音楽だから、ドキドキしたり、ワクワクしたり、キラキラするんだって」(12話)

最終話ではなこはこのように語る。
しかし『音楽少女』が挫け、迷ったとき、その背を後押しして再起に至るまでの情熱――内実のアイドルを再び導いたのは、他ならぬはなこ自身なのだ。

また、こうした構図を反転させたドラマも並立して描かれる。
「心で歌う」バル・あこちゃんの姿を見て、羽織が自身の内実としてのアイドルの喪失を突きつけられる10話である。

羽織「桐ちゃんの体、あったかくてほっとする。なのに、もう心で歌えなくなっちゃったよ。どうしよう」

ユニットを支える者という既存のアイデンティティに囚われ、自分がいなくても『音楽少女』の歌が届きうると知った羽織からは、内実のアイドルがすっぽりと抜け落ち、表象のアイドルとしてしか振舞うことができなくなっている。
園児の前では歌えていたのに後に「歌えない」とこぼすさまが印象的だ。今の彼女の歌に心はなく、ただの発声でしか歌っていない。そしてこのライブも9話と同様、他メンバーの歌によって観客の園児らに無事届いてしまっている。エンドロールで実際に羽織が歌えていたことを示す演出がニクい。
ちなみに、10話は純粋な受け手であったあこちゃんが送り手となり、自身に芽吹いた内実のアイドルによって「心で歌う」ことを周囲の園児に伝播させていくさまも描かれる。
これは最終話におけるはなこの願いにもつながっている。

ここで、はなこの音痴という設定についても書き記しておきたい。
私は、元々はなこは天性の音痴だったというわけではないと考えている。

はなこ「私はずっと、自分が何をしたいか、自分に何ができるか知らないで生きてきました。ううん、そんな難しいこと考えたこともなかったんです」(12話)

はなこの音痴とは、自分のやりたいこととできることへの無知である。
あるいは、やりたいこと・ひたむきさが自身の歌に向けられていない状態の発露である。到着したい行き先を持たない声音は1話での空港のはなこと同様、常に五線譜の上をゆらゆらとさ迷う羽目になる。
内実の喪失による声の不調和。羽織の喉の失調と同一線上に位置する現象である(はなこと違い、表象の力のみで表面上また歌えるようになってしまうのが羽織のプロたる所以というか……)。

しかし、かつてアイドルになどなりたくないと言い切っていたはなこは、最終話で涙ながらに『音楽少女』になりたいと強く叫ぶ。
他者の応援に向けられていたはなこの中の内実のアイドル性は、誰かのためだけではないひたむきさ――内実のアイドルに形を変える。
今度は11話までとは逆に、はなこのほうが『音楽少女』の姿から、ドルドルに仮託していた自身の内実のアイドルを再生された形だ。
仕事、家庭、過去、未来、夢……自分の何かに一生懸命な『音楽少女』の姿が、そうした熱を何も持たなかったはなこに届いたから、はなこもそんなふうに、彼女たちのようになりたいと希えたのだ。
『音楽少女』のアイドルとしてのひたむきさを間近に受け続けて、憧れではない、自分の中の新しい内実のアイドルを見つけたのだ。

そして、そうなりたいと懸命に希うはなこの姿は既に『音楽少女』のそれと重なる。
ゆえにはなこは『音楽少女』になれる。素敵なキラキラオーラを放って、音楽の力でみんなをワクワクドキドキさせる無敵の女の子になれる。
はなこが確立した内実のアイドルは、本来有していた表象のアイドルとしてのポテンシャルと噛み合い、もうその音が迷うことはない。

・外の世界へと届ける歌――輝ける最後の一片

はなこ「ここにいる皆さん全員が私と同じような気持ちになる保証はありません。でも、なるかもしれない。そんな可能性が『音楽少女』にはあります」(12話)

最終話、はなこの演説と歌は観衆の心には届かない。
会場には野次と罵声が飛び交い、嘲笑の声が止むことはない。
この時点のはなこは表象のアイドルをまったく扱えていないからである。歌で想いを届ける力を一切有していないからである。
アイドルという表象の力を伴わない心だけの言葉・歌は、傍にいる人やファンには届いても、山田木はなこという人間を知らない、いわば「外の世界」の人には届かない。
この点、最終話は過去の話数すべてへのカウンターパートであると言える。
これまで『音楽少女』に対して好意的な、言ってしまえばぬるい声しか描いてこなかった過去の描写も、この野外フェスにおいて強烈な対比として機能してくる。

そしてこの一幕は、アニメとして十分にリッチなビジュアルだったとは言えない本作『音楽少女』自体の性質ともオーバーラップする。
告白すると、嘲笑するファンではない観衆の姿に、私は1話放映時点の私を見た。

アイドルではないはなこの想いは外の世界には届かない。
しかしアイドルグループである『音楽少女』の歌も、当然、必ず届くとは限らない。

羽織「みんな何しにここに来てるの!? 音楽を聴きたいからでしょう!? 音楽を楽しみたいからでしょう!? だったら、『音楽少女』が最高の音楽を聴かせてあげるわよ!」(12話)

羽織の啖呵に湧いた観衆のすべてに、その想いが届いているかははっきりしない。
私にはなんとなく、その多くが雰囲気で歓声をあげているだけのように聞こえる。

誰かに歌が、そこに籠めた想いが届いたとき、彼女たちはアイドルとなる。
届いたという事実だけが、彼女たち12人を遡及してアイドルとなす。
だから彼女たちは歌うのだ。自分たちは特別だと信じて、想いよ届けと声を振り絞って。
ファンではない、無邪気な園児たちを『音楽少女』の虜にできたように。
今度は、大切な仲間を嘲り笑った世界を変えていくために。

最終話ラストライブに対する観客の反応は描かれない。

最後のピースは誰でもない キミだよ キミなんだよ(ED『シャイニング・ピース』歌詞より抜粋)

1,1,2,3,5,8,13 Let's Go!(同上)

EDではなこが、そして10話であこちゃんがそう歌われたように、アイドルグループ『音楽少女』を完成させる最後の一片の役目は受け手に委ねられる。
これは視聴者についても同じことが言える。はなこがユニットの一員となった今、受け手の役割は私たちにシフトしている。私たちが届けられた想いを受け取ったとき『音楽少女』というアニメは初めて完成する。
そのために彼女たちは、そして本作はこのラストライブで、その表象においても外の世界にまで通用する最高のパフォーマンスを見せた。

それを本当の意味で最高のライブに、そして『音楽少女』を最高のアイドル、最高の作品にできるのは、私たち受け手だけだ。
だから私たちは音楽に、アイドルに、あらゆる創作物について、舐めてかかってはならないのだ。

夏輝先生「みながダイヤの原石。それを磨くのは客だ。君たちだけが特別ということはない」
未来「お言葉を返すようですが。自分は特別だって思わないとアイドルはできないと思います。私はいつだって、私を見てくれるすべての人のハートを鷲掴みにするようなパフォーマンスを見せたいって思っています!」(6話)

受け手が舐めずにかかった上でそれでもなお籠められた想いが届かなかったことを、作り手は――少なくとも『音楽少女』は受け手の責任にはしないだろう。

はなこ「この日見た景色を、私はきっと、忘れない!」(12話)

私たちの目に映った作品は、総じて私たちの記憶となる。
ひとりひとりの視聴体験の中にそれぞれの『音楽少女』というパズルは存在する。同じ完成形はひとつとしてない。

・おわりに

楽しく、面白いアニメだった。深く心に突き刺さるアニメでもあった。あの日あの時リアルタイムでファンと笑いあいながら実況した、そんなことが代えがたい視聴体験となる、そんなアニメでもあった(後番組の『百錬の覇王』も込みで)。
私は山田木はなこではないし『音楽少女』にはなりたくてもなれない。彼女たちに影響を与え返すなど不可能だし、最後まで本作の受け手のままだ。
ただ、彼女たちのようにはありたいと思った。そう私の中の内実のアイドル性が訴えかけてきた。
だからたまらずこうして筆を執っている。今伝えたい感情は今伝えなきゃその価値やニュアンス変わってしまうと『永遠少年』にも書いてある。
届けというこのアニメの想いを受け取ったから私も届けたいと思った。現時点での私のパズルを、この楽しみ方を忘れてしまった遠い未来の自分に、もしくは本作を楽しみたいと思いたまたまこんな場所を目にした誰かに。

これほど誰かに見てほしい、届いてほしいと思ったアニメは久しぶりだった。
ただ、視聴済みの方向けの記事でこんなことを言うのもナンセンスだが。
いちファンとして本作を薦めるときに言えるのは、やはり同じくいちファン、いちスタッフだった頃のはなこが語った記事冒頭の台詞だけなのだろうとも思う。

想いよ届けと叫んだ本作が、より多くの「外の世界」の人々にも届いてほしい。
今はただそれだけを切に願って筆を置く。



――アニメ舐めんな!!!

【イベント参加告知】放課後のプレアデスプチオンリーイベント「流れ星 時々 いちご牛乳」2/26(日)@池袋サンシャインシティ

イベント概要

サンシャインクリエイション2017Winter内プチオンリー
流れ星 時々 いちご牛乳
A1ホール/B13a「窓色アルバム」 

新刊情報

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 ジャンル:放課後のプレアデス

 誌名:ひとり星オーバーレイ

 版型:A6(文庫サイズ)オンデマンド

 イベント頒価:300円

2/26(日)池袋サンシャインシティにて開催される上記のイベントで、放課後のプレアデス二次創作小説「ひとり星オーバーレイ」を頒布します。
あおいの友人がすばると友達になるまでのお話です。本文60頁の短編ですが、色々な意味で原作とだいぶ離れたものに仕上がっているため、その旨ご了承いただけると精神的に大変助かります……><
本編でアナザーあおい(すばるの運命線のあおい)とあおいの友人が通っていた中学に、もしもすばるも入学していたら、という設定。

また、会場ではひかるメインの掌編もコピー本として無料配布いたしますので、お気軽にお手に取っていただければ幸いです。本編6~8話の間くらいのお話。6000字弱。こちらは一応本編ベースです。
あとたった今できちゃったので抱き合わせでアナザーすばる(あおいの運命線のすばる)の掌編もくっつけます。上記の短編の追補のような。6000字ちょい。

加えて、既刊で昨年発行した天体のメソッド二次創作小説「天体の足跡」の在庫もこっそり持っていきますので、もしご入用でしたらぜひぜひ。こちらは頒価700円となります。

それでは、2/26 A1ホール B13a「窓色アルバム」にてお待ちしております。 
当日はよろしくお願いします。


【追記】

Boothにて通販開始しました(上記のSS付)。よろしくお願いいたします。