地上に瞬く星々への歌 ~TVアニメ「連盟空軍航空魔法音楽隊ルミナスウィッチーズ」覚書~

戦ってみんなを守る統合戦闘航空団のウィッチ達とは真逆の航空団、戦わないウィッチである彼女たちは、“歌や音楽”でみんなの笑顔を守る!それが彼女たち「連盟空軍航空魔法音楽隊ルミナスウィッチーズ」なのです。(公式サイトより抜粋)

TVアニメ『連盟空軍航空魔法音楽隊ルミナスウィッチーズ』を観た。

ストライクウィッチーズ』(以下『SW』)を基とする架空戦記プロジェクト『ワールドウィッチーズシリーズ』の10周年記念作品であり「戦わないウィッチ」を標榜する外伝的作品。シリーズの特徴となる、キャラのモデルと類推できる歴史上の人物は存在する*1が、もうひとつの特徴である過度な露出は鳴りを潜めている。令和だしね。
監督はシリーズの根幹を成す天才アニメよろず屋・佐伯昭志氏。スタッフには同監督が手掛けたアニメ『放課後のプレアデス』『アサルトリリィBOUQUET』の流れを汲む面々を揃え、企画発表から足掛け4年、紆余曲折あり今夏放映された。
20年代に刻まれる名作なのは論を待たないところ。

この記事は独自解釈を交えつつ全話の流れを追うことで、自分で理解したつもりになるための個人的な備忘録である。数年後に読み返した時「リアタイ時はこんなふうに見てたな~」とか笑うための記録。
リーダビリティとか期待しないでね。ぶっちゃけ書きながら考えてるし。まずは形から入るってアイラ様も言ってたし。勢いは大事だし。
ざくざく進めるべく、2話単位でテーマをまとめて書き出している。8割は筋書きで感想らしい感想は「萌え」「えっち」くらいしかない。
長くて行ったり来たりが大変なのでたまには目次もつけておく。またの名をスキップ機能。全部目通すの自分でもしんどいしな……。

 

1-2話 人の光を見つける物語

(ジニーの歌を聴いたグレイス少佐が新しい歌唱部隊員を募る。ぽんこつ・わけありのウィッチが集い、新しい音楽隊が発足する)

舞台の幕明け前の下準備、最序盤となる2話まででは各キャラの紹介と彼女たちを加えた新しい音楽隊の設立が描かれる。
物語開始前の時点で音楽隊はすでに存在するが、少なくとも軍上層部からはその価値をほぼ認められていない。隊員であるアイラとエリーもやりがいを感じてないように見える。
2年前に魔法力を完全に失って前線を退き、今は音楽隊を指揮している隊長・グレイスは老女・フェリシアの激励を受ける。

グレイス「翼を失ったウィッチにはなかなか居場所がなくて」
フェリシア「今のウィッチには未来の姿よ。もっと輝いてお見せなさい」

フェリシア「あなたのしていることは小さな光かもしれないけど、集まればもっと美しく輝くでしょう」
グレイス「光を集める……」

タイトルも冠する「光」。作中では主に比喩として用いられる。見る者の心を明るくするような物事・人といったニュアンスか。
活き活きとした姿、頑張る姿、その人らしい姿、そして笑顔。
輝く人の姿は見る人を照らし、憧れや希望を与える。照らされた側が触発されて輝き始めることもあるだろう。
逆に言うと、他人を元気づけるにはまずは自分が輝く必要がある。

本作はウィッチたちが自分の「光」を見つけたり取り戻したりする話でもある。
自分でも気付かなかった・目を逸らしてきた・失いかけた想いや個性。それらが他者との交流を通じて鮮やかに輝くさまが幾度も描かれる。他人の視点を通して見れば、と表現してもいいかもしれない。
ある意味、観測者の存在によって光っている/可視化されているとも言えるだろう。ウィッチにしか視えない精霊のように……というとこじつけが過ぎるか。

閑話休題
要は魔法力を失ったグレイスがそれでも軍で活き活きとしていれば、やがて同じように力を失う後続ウィッチの道標になるよって話。
ウィッチとして戦力にならないルミナスのメンバーにかかっているようでも、終盤におけるジニーの物語を見据えているようでもある。

自分たちをぽんこつだと自嘲するミラーシャといのりを見て、ジニーはひとり立ち上がり、こう告げて、歌う。

ジニー「気分が落ちこんだときは歌を歌うといいよ。落ちこんだときも、楽しいときも、なんでもないときも。歌を歌うと幸せな気持ちになれるから!」

アルバート記念碑の前で心から楽しそうに歌うジニー。きっと誰の目からも太陽のように輝いて見えただろう、そう思わせる美しい歌声である。
歌を耳にしたいのりは目を見開き、グレイスは隊の増員を思い立つ。ジニーの歌という「光」を浴びたことによるふたりの発光、そしてその連環のはじまり。

グレイス「地上の星を見つけなきゃ……もっとたくさん……」

日は変わり、隊員を募集するグレイスの前にミラーシャたちぽんこつが集っていく。
一方でいのりだけは自分は志願せずにジニーを推薦し、夜にはジニーを探索するべく一同と共に空へと向かう。
名を呼んでも返事はなく、代わりにいのりはジニーが歌っていた曲を歌い出す。
モフィの魔導針が歌を受信し、ようやくジニーは呼びかけに気付くが、肝心の返答はいのりたちに届かない。

ジニー「やっぱり私の声はどこにも届かないんだ」

こぼれた言葉からは長年重ねた失意と諦念が垣間見える。
受信専門のナイトウィッチ。世界中の声が聴こえるのに自分の声だけが世界に届かない。
ジニーが膝に顔を埋めると、魔導針が煌々と輝き出す。

太陽の光で輝く月も誰かを照らす光源たりうる。月は広がっていく光の象徴であり、本作の基本構造。受信することで発光する魔導針も月の似姿っぽい。

宙に身を投げたジニーを受け止めるべくひとりで空を飛んだ(飛べるようになった!)いのりはさっそく隊にジニーを勧誘し、ジニーはそれをノータイムで快諾。

いのり「ジニーちゃんが歌ったら、きっと絶対すっごく素敵だから!」
ジニー「でも、いのりちゃんだって歌いたいよね。いのりちゃんの歌も素敵だったよ」

いのり「だって、歌えばきっと見つけてくれると思って」
ジニー「うん、見つけたよ! いのりちゃんも私を見つけてくれた!」

ここには両者の相互的な発光と発見の循環がある。
記念碑前でのジニーの歌と、夜空でのいのりの歌を通して。
いのりはジニーの、ジニーはいのりの、歌いたい気持ちと声の素敵さを。
物理的な意味だけではなく、互いの「光」――想いと個性を見つけあった。

元々志願していなかったふたりはこの後揃って音楽隊に加入する。
ジニーは他に配属先がなくて飛ばされてきた形だけど……。

3-4話 届け手と受け取り手の関係

(戦場を離れたことを未だに悔しく感じているアイラが、客の笑顔を通して昔の笑顔を取り戻す。音楽隊が「歌うウィッチ」として確立される)

アイラ「音楽が人を救うなんてこと、本当にできるのかな」
エリー「さあね」

グレイスが信じる音楽の力について半信半疑なふたり。
そもそもふたりは望んで音楽隊の活動を始めたわけではない。アイラは魔法力の減衰によって、逆にエリーは発現の遅れによって、それぞれ前線で戦えないため配置転換を余儀なくされている。
そして今までふたりが隊の活動で歌を届けてきた相手は、ふたりの歌をアクセサリー程度に思っている(少なくともアイラはそう認識している)軍のお偉いさんが主らしい。
力を振るい人々を守っていた前線時代と異なり、実際に自分の歌で救われる人を直接その目で見たことがない。アイラが上記のような台詞をこぼすのも無理のない話だろう。

軍人らしさにこだわるアイラはマリアに無理な飛行訓練を強いてしまう。
気を失ったマリアを前に自責の念に駆られたアイラは、自分こそ音楽隊にふさわしくないと語り、一日マリアの看病に勤しむ。
一方ジニーたちは村の子どもたちと交流し、村民とも親睦を深める。

翌日、買い出しのために村に出たアイラと同伴するジニーの会話は印象深い。

ジニー「私、戦闘部隊には入れてもらえなくて音楽隊に入ることになりました」
アイラ「そうか。悔しくはないのか? ウィッチとして生まれたのに人の役に立てないなんて」

音楽隊って役立たずよね、という実感が思いっきり漏れちゃった一言だ。グレイスには聞かせられないよ~!

しかし村でアイラは村民に話しかけられ、昨日ジニーたちと一緒に歌った子どもたちに笑顔が戻った事実を知る。ネウロイから村を守り抜いたウィッチにはできなかったことだ、とも。
アイラは子どもたちに歌をせがまれ、しばし逡巡し、ほどなく告げる。

「ああ、私も歌うウィッチだ」

ここの一連のカット、数瞬の感情のうつろいを直に映す表情芝居こそがアニメという媒体の強さだと思う……顔の描写から逃げないアニメ。作中でも指折りに好きなシーン。

広場で『優しい明かり』を歌うアイラ。
初めに思い起こされる記憶は、エリーと共に大舞台に立って豪奢なシャンデリアを見上げる自分。
歌唱にジニーが加わってから浮かぶのは、故郷でオーロラを見上げる幼い日の自分。
記憶のアイラはどちらも笑顔だけど、前者は固く、後者は無邪気だ。
ミラーシャも加わりトリオでの合唱を終えたとき、夕暮れ空にマナたちぽんこつウィッチの不格好な編隊飛行の軌跡が描かれる。
マリアが発する魔法力の光*2を見て楽しそうに笑う子どもたちとジニー・ミラーシャ。

アイラ「楽しそうに笑うんだな、お前たちは」
ジニー「それ、アイラさんも一緒です!」

幼少期の笑顔≒ジニーたちの笑顔≒今の笑顔。クッションを挟んだ筆致がイイね。

オーロラ、シャンデリア、そしてぽんこつウィッチの編隊飛行という「戦場から離れた地の光」を並べ、それを捉えるアイラの心境の変遷を写し取る。
歌を届けた子どもたちの笑顔によって、自らも昔の笑顔――「光」を取り戻す。
『優しい明かり』という副題がとても合う、受け取り手(子どもたち)-届け手(アイラ)間の「光」の循環を描いた素晴らしいエピソード。
隊長に威厳がないのは困る~とグレイスの表情をたしなめるアイラも味わい深い。

また一夜明け、音楽隊は初のコンサートのための本格的な準備を始める。
班分けを通じて各々の得手不得手、各分野への興味関心が改めて描かれる。見習い期間のため担当を割り振られなかったジニーは、各班の見学に際して困ってる子たちにアドバイスを残していく。*3
相手の「光」を見出す/引き出す、受信者・ジニーのセンスが発揮される一幕。

ジニー「ミラーシャちゃんは誰に歌を届けたいの?」
ミラーシャ「ええ? そ、そりゃアイラ様とか、アイラ様とか、あとアイラ様とか!」
ジニー「届いたらどんな気持ちになってほしい?」
(ミラーシャといのり、村の人たちの笑顔を思い出す)
ミラーシャ「!……そっか、わかったかも」

本作では歌を受け取る側の存在が常に意識されている。
音楽隊が輝くということはすなわち客を照らすということ。受け取る側をどう照らしたいかから逆算し、どう光るべきかも見当がつく、みたいな。
また、コンサート前夜の宿舎ではグレイスたち3人のこんな会話も。

エリー「だって隊長が淹れてくれたこのコーヒー、すっごく美味しいですもん」
グレイス「はあ」
エリー「どこで誰と飲んだか、誰が淹れてくれたか、どんな形のカップだったか。そういうこと全部が素敵な体験になる。音楽もきっとそうじゃないですか?」
アイラ「このコーヒーの味はずっと忘れませんよ、隊長」

コーヒーを飲む=受け取る側の視点に立った、体験そのものの肯定。
届ける側の完成度がライブという体験のすべてではない。受け取る側の環境もまた音楽を形作る一部なのだ、と。このへん現地勢の皮膚感覚っぽいね。

コンサート当日、いつにない緊張を覚えるエリーとアイラが舞台の幕を開け、続けて村娘風の衣装を着たジニーたちが……萌え!

「連盟空軍第72統合戦闘飛行隊編隊支援中隊航空魔法音楽隊、です!」

衣装替えをした直後の9人の挨拶はバラバラで揃わない。なんならこうして打つのも大変。早口言葉っぽくもある(やってみよう! マジでむずいぞ)。よくわからんけどウィッチってこと? と首をかしげる村人のおばちゃんの気持ちもよくわかる。
一方、9人を間近に見続けてきた村の子どもたちは彼女たちが何者かを、ともすれば今の本人たちよりも正確に捉えている。
曰く「歌うウィッチ」。

四角い板に色とりどりの文字で書かれた名前と子どもたちの笑顔。隊の本質。

機材トラブルを乗り越えてストライカーで飛翔したジニーたちは、上空から子どもたちが掲げた『LUMINOUS』のプラカードを発見する。
演奏を終えてステージに降りてきた9人は、〆の挨拶で今一度名乗る。

「連盟空軍航空魔法音楽隊、ルミナスウィッチーズです!」

軍によって付けられた区分けのためだけの機械的な名称から、歌を受け取る側の目線を通して命名された輝く像へ。
「歌や音楽でみんなの笑顔を守る」という、隊全体で発する「光」の指向性がここに定まり、自己認識の確立と共に名乗りの声が揃う。エモーショナル。
……でも頭と尻尾だけ残してばっさり略してるのは正直ちょっと面白い。

余談だけど本作のタイトルも公募で決まったらしい。音楽隊ウィッチーズ(仮)→ルミナスウィッチーズとな。こういう現実のエピソードも作劇に反映されているのかもね。

雨上がりの夕空に描かれた五線譜と9つの輝く星。まんまルミナスのメタファーだろう。光が集い、音楽を奏でる。

5-6話 あなたがあなたらしく居られる場所

(シルヴィとジョー、そしてマリアがありのままの自分を隊内でさらけ出す。前2人はペルソナを含めて肯定され、マリアはマナの助力により開き直れるように)

ここからはワールドツアーが始まり、部隊は世界各地を巡ることになる。
最初の訪問国はシルヴィの故郷・ロマーニャ公国。しかし当のシルヴィは浮かない顔である。
飛行機に乗ったいのりはウィッチでも怖いものは怖い! と言って折り紙を折る。気を紛らわすためにめっちゃ折る。
隠し立てせず自分の弱みをさらす、この編の縮図みたいなシーン。

ステージに出たくない、ロマーニャだけでいいからとシルヴィはグレイスに頼む。
公室の血を引くシルヴィは実戦部隊では腫れ物扱いされていた。音楽隊に転属となり、慰問活動に励んでいる現状をロマーニャに住む父には知られたくないと言う。

グレイス「けど、知られたくないのは本当にお父様にだけ?」

隊の仲間に出自を知られたくないシルヴィの心境を見透かした台詞。
ここでシルヴィの嘆願を拒否せず「考えておくわ」と保留するグレイス少佐のじんわりと染みるような優しさがとても好きです。

ジニーたちの案内がてら首都ローマの街を訪れたシルヴィは、住民から亡くなった母・ローザと見間違われてとっさに走って逃げ出す。そうしてたまたま行きついた先は母が眠りに就いている墓地だった。
シルヴィはいのりが作った折り紙の花を真似て、チラシで青い桔梗――母が好きだった花――を折って供える。

シルヴィ「本当のわたくしを知られたら、また遠ざけられてしまうから。けれどそうやってみんなに嘘をつかなくてはならないことが今は苦しいんです。シルヴィ、シルヴァーナ、どちらが本当のわたくしなのでしょう」

弱音を吐くシルヴィは墓参りに来た父と偶然再会し、再度逃亡。
今度は教会に辿り着き、シルヴィを探していたジニー・ジョーと落ち合う。
天井に描かれたクーポラ*4の騙し絵をすごい、綺麗だと言うジニー。

シルヴィ「本物とは違うって裏切りじゃない? 騙されたのよ? それってすごいかな」
ジニー「でも綺麗だなって思ったのは本当だよ。これが絵なら私、この絵好きだな」
ジョー「うん、あたしも」

嘘でも本当でも、目に映る形は形で、綺麗なものは綺麗。
受け取る側のピュアな価値観はシルヴィの心をほぐす最初のとっかかり。

その夜、シルヴィは同じ寝室でダンスの練習をするジョーを目撃する。
片や家族を養うため、片や家名に縛られないために軍属となったふたりが、この部隊での仕事を楽しんでいることが語られる。

ジョー「部隊章を考えたときもシルヴィと一緒に衣装を考えたときもさ、おれ、すっごく楽しかった!」
シルヴィ「おれ?」
「あ、いや。あたし男兄弟ばっかだったもんで、気を抜くと家の感じが出ちゃうんだ。気いつけてたんだけど。恥ずかしい……」
「!……バカね。音楽隊は誰もそんなこと気にしないでしょう?」

おれ、という一人称が漏れてしまい照れるジョーにシルヴィは息を呑む。
家柄に由来する個性を隠そうとする今のジョーはシルヴィの写し鏡だ。
そんなのは杞憂だとジョーに告げることで、他ならぬシルヴィ自身もまた、この部隊はありのままの自分たちを受け容れてくれる場所なのだと理解する。
よく似た他人を認めることで自身をも肯定できるようになる。人に向けた優しさが跳ね返ってくる構図はこのアニメの十八番である。

鏡越しにシルヴィが、ガラス窓越しにジョーが視認して確かめたのは「他人から見た自分の姿」である。隠そうとしたシルヴィと直そうとしたジョーの対比。

より美しいダンスを客の目に映すべくジョーは努力している。
なら、当の自分は音楽隊の一員としてどんなことができるか。
嘘も本当も関係なく、大切なのは客に何を届けるか――決意を固めたシルヴィはジョーが考案した衣装である白いリボンを身に纏う。
幼い日の姿、シルヴァーナを名乗っていた頃の「光」を取り戻す。

ジョー「シルヴィがシルヴィだったら、シルヴァーナのお姫様でも、ルミナスウィッチーズのシルヴィでも、なーんも変わりゃしねえんだな!」

シルヴィ「喋り方がどうだってジョーはジョーでしょ?」

ライブ後、身分を告白したシルヴィと一人称:おれをまたもこぼしてしまったジョーがそれぞれ仲間たちに受け容れられることで隊の中での話は終わる。ジニーがシルヴィとジョーをそれぞれ「かわいい」「かっこいい」と表しているのがイイ。ヴァージニア・ロバートソン……やはり(他者の「光」を観測し受信する)天才か……。
以後、シルヴィはステージ上でのリボン着用が、ジョーはおれ口調がデフォに。嬉し~。

カリニャーノ公「この厳しい時代の中、彼女たちが何者かを問うのではなく、何を伝えようとしているのかに耳を傾けましょう。戦わないウィッチであっても、彼女たちの人々を想う心になんの変わりがあるでしょう」

そして、この回の評価をワンランク押し上げるシルヴィ父の〆の一言。
子どもたちが素の自分を認めあう物語の外側には、素がどうであれより良い自分を見せようとした努力こそを認めよう、と説く大人の優しさがある。それがひいては音楽隊を許容する社会の話にまで敷衍される。
たとえ偽物でも母に桔梗を贈ろうとシルヴィが折った想いの結晶、チラシの花を胸に挿したシルヴィ父の写真のアップで終わるのが素晴らしい。

5話は台詞がぎちぎちに詰まっておりやや性急な印象もあるが、脚本の完成度は決して他に見劣りしない回である。衣装・鏡・演技・作り物という様々なモチーフが「他者の視点から見えるもの」という要素を軸に美しく連動している。

さて、ロマーニャでのライブを皮切りにステージを重ねた音楽隊は、今度は休暇を兼ねたトランジットでギリシアに逗留することになる。
マリアはアクロバットを組みこんだ演目の刷新を提案するも、肝心の飛行訓練には乗り気ではない。生来虚弱で単独の長時間飛行を困難とするためだ。
同じく飛行が苦手ないのりはマリアに「頑張るから理想の演目にして」と伝える。しかしマリアは無関係な話ではぐらかす。
自分の個性から目を背けるさまは5話序盤のシルヴィに近い。

窓から射しこむ光は空へと続く扉や道のようでもある。今話は光と窓の演出が多用される。脚本・絵コンテ春藤佳奈。

自室で演目を再検討中、屋外に飛ばされそうになるメモの束。自分では演じるのが難しいはずのそれらにマリアは必死に手を伸ばす。
反射的にメモを守ってしまった事実からマリアは未練と悔しさを突きつけられ、今度は自らの手で窓の外に勢いよく投げ捨てる。空に続く窓を閉めて嗚咽する。煮え立つような感情表現、作中随一の鮮烈な描写である。

捨てられたメモを拾い集めたマナは宿舎でマリアにそれを手渡す。
マリアがメモに記した内容はマナがやりたかった動きと同じであった。

マリア「本当はもっと高みを目指したいのに、マリアは虚弱なので。難易度が上がるほどみんなに迷惑が……」

3話ではミラーシャが「頑張ったって無理なことはある」と擁護した虚弱体質。
マナはマリアの気持ちを受け止めた上で、でもよくわからんからとりま一緒に飛ぼう! とマリアを空に連行する。マジ? マジ。
天真爛漫で他人を嫌いになるということがよくわからない――美点も欠点もひっくるめて他人を好きでいられる――マナだからこそ、欠点を抱えたまま飛ばなければならないマリアの相棒にふさわしいのだろう。
5話後のジョーやシルヴィと違ってマリアはこの個性を(なるたけ)克服したいわけだしね。

マリア「ぎゅーんと飛んでぐるぐるぐるーなのです!」
マナ「わかった!」

理論派と感覚派、夜の住民と昼の住民の凹凸が、夕間暮れというシチュエーションにおいて抽象的な言語で噛み合う。
マリアがマナと上昇するためにつないだ手はほどなく離される。相手への信頼と自分への決意。互いが互いに託した光は、くっついたままでは決して描けない二条の軌跡を空に結ぶ。
気を失う~落っこちる~と夜間飛行の前に意気投合していた2話を思うと感慨深い。

マナ「マリアがへたっぴなのなんて知ってるよ。でもマナがいるから大丈夫だよ」

手を離した=強くあろうとしたマリアにマナがこう声がけるのが本当にな……………………。

影を共有し光に照らされる。髪、絡んでますね。伝統芸能だね。

後日の訓練では弱みを隠すことをやめ、開き直ったマリアが見られる。

マリア「なので、マリアをばっちりフォローしてもらうため、余裕で演目をこなせるようになってほしいのです!」

マリア「長時間は飛べません! マリアは虚弱なので!」

弱さと向きあい、強くなろうとし、必要なら弱さを支えてもらう。
ハンデを抱えたまま、高みにある理想の自分――「光」に近づこうとする。
音楽隊は、マナの隣は、マリアがそんなふうに居られる場所なのだ。
実は今この瞬間も頑張って起きてるはずのマリアの姿を、コメディっぽい筆致でくるんで描いているのが本当に好ましい。
ふたりの使い魔であるモモンガとキーウィ(飛ぶ哺乳類と飛べない鳥)が一緒に空を飛んでいく愛らしくも転倒したラクガキで〆。テクい。

……ところで波の気持ちってやっぱ光る棒振ってるヲタクの気持ちのこと?

7-8話 わたしの声は空に届いている

(503部隊を救おうとしたジニーが魔導波の発信に成功し、ボロージャの演奏がサーニャに届く。いのりたちが合奏する。ジニーと彼女のファンの西杉が出会う)

さらにいくつかの公演を経て、音楽隊は次の舞台へ向かう。
空路にて戦闘部隊・503部隊と軽く挨拶を交わした翌朝、一同は次の開催国であるオラーシャの疎開都市に降り立つ。
ジニーたちはひとまずその地に住む女性・アンナを訪ね、体調不良のモフィを診てもらうことに。
次の日には容態は快癒するのだけど、その診断内容が興味深い。

アンナ「使い魔はその土地の気を受けて育つから、居場所が変わると調子を崩すことがあるんだけど」

アンナ「まあ食べすぎってとこかしら。何かの原因で大地や空を循環する気の流れが妨げられて、身体の中に溜めこまれている感じ、かしら」

アンナ「そう。この子は自分自身が何者かもわかっていないのね」

色々と示唆に富んだ台詞で、ジニーと重ねて読むこともできる。
というかアンナさんモフィ視えてないんだよね。診断なのに祖母が遺したメモばかり見ているのも納得である。

都市の状況を鑑み、グレイスは場所を問わないラジオコンサートを企画する。
事のついでにジニーたちはアンナの夫・ボロージャに、娘の誕生日にピアノを弾いてラジオで流さないか、と交渉。
ピアニストの手ではなくなってしまった(=「光」を失った)と語るボロージャに3人は懸命に食い下がる。
特にジニーがここまで感情を露わにするのはとても珍しい。自分の声が届かない現実に深い諦観を覚えている分、余計にボロージャには簡単に諦めてほしくないのかもしれない。

ミラーシャ「いつものあんたらしくはないけど、まあ悪くない意味でよ」

何事でも受け容れるたちだけど誰かのことになると必死になる。
ジニーという少女の美徳はこの7話と10話で大きく発露する。

コンサート当日、ネウロイの襲来を上空の503部隊に知らせるべく、音楽隊は嵐の中を飛ぶ。
白鍵ひとつでは何も弾けなくとも揃えばピアノになるように。
街の人々の助力によってボロージャが演奏会を開けたように。
みんなと手をつなぐことでジニーも分厚い雷雲を切り抜けられる。
過酷な環境下でなお、自分が自分らしく光るための方法。

ここに至ってジニーが魔導波の発信にやっと成功したのは、モフィが最終話で語られる「成長する精霊」に該当するからだろうけど。*5
あえて心理面に着目するなら、溜めこんだ想いの爆発なのかも。
受信と諦めの日々の中でじっくりコトコト膨らんだ鬱屈が、他人のための叫びとなって4000km離れたブリタニアにまで届いた、みたいな。
503部隊にインカム越しにしか挨拶できなかった件も思うところがあったかもしれない。ワールドツアー中もそんな出来事はしょっちゅうなのかも?

503部隊によるネウロイの撃破で通信障害は回復し、ボロージャのピアノはヨーロッパに居る娘・サーニャにまで届く。

レジェンドライダー出演! クソデカい月もルミナスをイメージしているかのようだ。後付けだけど。

今話は『SW』1期6話『いっしょだよ』の裏側を描いたエピソードでもあるのだけど、単品でも完成度が高く、ジニーの物語の転換点となっているのが素晴らしい。サービス精神とクオリティの両立は優れた外伝の条件である。
どうでもいいけどサブタイ『太陽の理由』って『SW』6話で宮藤が太陽のタロットを引いた理由と、ジニーが太陽のように自ら発光(発信)できた理由のダブルミーニングなんじゃないかなー、なんて書いてみたり。

続く8話はいのりの故郷である扶桑皇国を訪れる回だが、話の中心となるのはミラーシャ・いのり・アイラの3人と多い。また、アイラとの対比を通してジニーの変化が示される回でもある。
神社へのお参りでみんながツアーの成功を祈願する中、ひとりモフィの帰還を願うジニー。悪かないけど自分へのお願いではないよね……。

実家に着いたいのりは幼い頃習っていた琴の演奏をジニーにせがまれる。しかしいまいち気乗りしない。琴自体が嫌いなわけではないのに。祖母ほど上手く弾けなかった悔しさに由来する苦手意識らしい。
一方、舞台での失敗を引きずるミラーシャはエリーに対抗心を燃やし、家事で全敗した挙句なぜかストライカーによる飛行勝負を申し込む(なんで?)。ミラーシャは辛くも勝利し……かけるもバードストライクを回避して海に落下。
夕方、いのりに薬を塗ってもらっている時、ミラーシャは巾着から割れたレコードを取り出す。いのりに聴きたいとせがまれ、ミラーシャはアカペラで曲を独唱する(すごい!)。

同刻、縁側でエリーが語るミラーシャ像には尊敬の念がにじみ出ている。

エリー「あたしもミラーシャもさ、ネウロイに故郷を追われたんだ。みんなそれぞれ理由があって音楽隊にいるけど、帰る場所がないのって結構つらいはずなんだ。でもミラーシャは何に対しても一生懸命で。そんな姿見てるとさ、あたしのほうも元気をもらえるんだよね」

負けん気が強く向上心があり、いのりの求めにも応じられる。ミラーシャは強くてカッコいい。光り輝いている少女である。
けどそんなミラーシャも常にひとりでに光っていられたわけではない。
今のミラーシャがいるのは、つらい日々に寄り添うアイラの歌があったからだ。

その夜、いのりはミラーシャにボーカルを頼んで琴を演奏する。

演奏を終える頃にはいのりの表情はすっと和らいでいる。1話でジニーが言った「歌う喜び」ならぬ「弾く喜び」を思い出せたのかもね。

かつてアイラが歌った『あの日々を忘れない』がミラーシャに「光」を与え。
ミラーシャの歌声が、失った「光」である琴と向き合ういのりの支えとなる。
ここには音楽を媒介とした、アイラ→ミラーシャ→いのりの「光」の連鎖がある。受け取る側が届ける側に立ち、また別の誰かに光を届ける。

アイラ「あの頃はまだ自分の歌が誰かに届くなんてことが信じられなくて。まして歌で誰かを救えるなんて」
ミラーシャ「私には届きました! 他にもそんな人はいるはずです、きっともっと!」

届くと信じて歌ったわけではないアイラは、入隊前のジニーと同じ。
決定的な差は、現実に誰かの耳に届いていたか否か。
では今のジニーの歌はどうなのか。みんなが寝静まった後にそれは描かれる。

レジェンドライ……? どこの作品が出典か調べちゃったじゃないかもー。

扶桑の新人ナイトウィッチ・西杉はジニーの大ファンだという。
彼女の存在は、ずっと受け取る側だったジニーが今では届ける側に立っている――昔のミラーシャにとってのアイラがそうだったように――ことの証明だ。
魔導波も出た。歌も届いていた。
もうジニーは受信専門ではない。

西杉「みなさんの音楽には人々を笑顔にする力があります」
ジニー「私も、歌うと笑っちゃうんだ。楽しくなって」
西杉「その気持ちがきっとみんなに伝わってるんです。私にも」

グレイスが信じる歌の力の本質がこの会話に凝縮されている。
スト2話へのストレートなパス。

空へと飛び立つ軍人を見送る構図の重ね合わせで〆。「その浴衣すごく似合ってますよ」といい、ジニーが軍属より民間人寄りのキャラであることの暗示のよう。

9-10話 故郷を離れた者たちの居場所

(ニューヨーク中の空に歌を届ける。ジョーとシルヴィが互いを姉妹のように思う。ガリアで生き延びていたエリーの元飼い猫に家族ができており、エリーは猫を拾わず置いていく。ジニーがモフィを仲間のもとへ送り出す)

ワールドツアーの終幕を飾る地はジョーの故郷・リベリオン合衆国。
未だネウロイの侵攻に遭わず興行を続けるブロードウェイ。ニューヨークは夜でもきらびやかな灯りと音楽に包まれている。

アイラ「この戦時下にこんなにも人の心を動かすエンターテインメントが溢れているなんて」

アンチ富裕層アニメに堕していないのが今話の立派なところ。
娯楽・芸術は人々の心に余裕をもたらし笑顔を生む。ブロードウェイも音楽隊の慰問もひとしく文化の光である。ネオンの灯はリスペクトの対象であり、ネウロイの被害を受けた各国が取り戻すべき景色でもある。
会場となる沿岸要塞・フォートジェイの説明を終えてグレイスは言う。

グレイス「コンサートには軍上層部や財界の要人も見に来ることになっているわ。いいステージにして今後の支援を取りつけましょう!」

軍の上層部にとって島でのショーは広報の一環に過ぎない。戦時国債の購入促進キャンペーン。生々しい字面だ……。
しかしスポンサーあってのルミナスウィッチーズであることもまた事実(KADOKAWAとブシロの提供でお送りしています)。資本の力は否定されない。新しい衣装がその結実だ。グラデがかった上物の布も、縫製工場の生産力も、布の使用を躊躇うジョーの背を押したシルヴィの価値観もまた、豊かさが育んだ産物である。
ノースリーブの4人えっちすぎる!

とはいえ今回のショーが労働者階級に手の届かない高嶺の花なのは変わらない。
街の人にも見せてあげたいジョーの話を聞いてアイラは考える。

アイラ「私たちは誰に向けて歌を届けたいのか」

後のステージを見れば自明である。貧しい人々へ、ではない。
ニューヨークに住むすべての人へ。
アイラは届け手としてショーと向き合い、みんなと演目を完成させる。

国旗を模したリベリオンの星と庶民に親しまれるドーナツの輪。富の象徴たる摩天楼の頭上、格差を越えた空に刻まれる。

ロンドンで権力者相手に歌い、腐っていた頃とは見違えるような変化。
現実を踏まえた上でやれることをやり理想を実現していく。グレイスとアイラのしたたかさは隊を引っ張っていくエネルギーだろう。さすが隊長とリーダー。

年長組と並べて描かれるのが最年少者・ジョーのドラマである。
年齢について言及されたのは今回が初ではないだろうか。ジョアンナ・エリザベス・スタッフォード12歳。本人は「もう」と言うけどまだ子どもよ。
ジョーを軍にいざなったのは家庭の困窮とウィッチの資質だけど、回想の表情を見る限りではやはり乗り気だったとは思えない。弟たちの誰とも似ていない荒っぽい言葉遣いといい、大人になるしかなかった子って感じ。

橋向こうから帰ってくる父を迎える此方側=故郷を旅立つジョー。直後の取り繕った笑顔を家族に向ける姿は健気すぎる……。

望むと望まざるとに関わらず身についたジョーの言葉遣い=自分らしさ。
家族向けのその口調を隊の中で発せるようになった5話から、音楽隊はジョーにとって第二の故郷になったのだろうと思う。
そのきっかけをくれたのは、他ならぬジョーが救ってみせたシルヴィで。

此方と彼方の境界である橋の空にふたりはドーナツを浮かべる。
家族との惜別の場で家族に立派な姿を見せたという意味でも素晴らしいし、格差社会の分断の象徴でおなじみのブルックリン橋*6を庶民の特等席に仕立てあげたという意味でも批評性が高い。
貴族と貧民という生まれの差を越えてつながったジョーとシルヴィが、上流・下流の隔てなくニューヨーク全土の民に歌を届ける。ふたりの関係を反映したようなクライマックス。話の組み立てが巧すぎる……。

ジョー「おれ、長女だからよくわかんねえけど。姉ちゃんがいたらシルヴィみたいな感じなのかな
シルヴィ「私だってひとりっ子だからよくわからないけど。妹がいたらこんな感じかなって」

家族のもとを離れたジョー/シルヴィに家族のような存在ができた。そこがふたつめの居場所になった。今話は社会を描きつつもそんなミクロな話で幕を閉じる。
よく考えると次話への前フリ。ジョーとシルヴィ≒エリーの元飼い猫と仔猫ってね。
またも余談だが、エリーが故郷を追われたのは13歳くらいの頃である。ほぼ今のジョーと同じ年頃。冒頭で3年前~と言及しているのは「幼くして」故郷を追われたエリーとジョーを重ねる意図もある。タブンネ

続く第10話『故郷の空』は全話通してもかなりの傑作で、この回を咀嚼するの私には無理では、野暮では、と思うのだけど、ここまで覚書を進めた手前、一応整理を試みてみる。
語らなさと間に詩情を宿して、画と音で雄弁に物語る。アニメの真髄みたいな回。

501部隊が達成したガリア奪還の報に沸きたつ人類。音楽隊も広報活動に追われ、凱旋記念式典への出演も検討されている。移動中の車内で「歌う仕事はないのかなあ」と呟くジニー、歌が好きなんだね~。
ガリア出身のエリーは取材や宣伝の矢面に立つはめに。シリーズの裏面とも言える本作が直球のプロパガンダを描くのは皮肉というか自己言及っぽい。『SW』本編はフェイク!『501部隊発進しますっ!』こそが世界の真実!(陰謀論)(発狂)

エリー「人々が故郷や家族と再会できるよう今後も戦っていきます」

今話の核心じみた台詞である。カンペ棒読みのエリーは冷めた目で感情の機微を読み取らせないが……。

エリー「今はこれがガリアのためにできることだと思うよ。あたしたち戦線で戦ったわけじゃないんだし、こうして役に立たないとさ」

魔法力の発現が人より遅く、前戦に立てなかったエリーはウィッチとしてある種の負い目を感じている。自分の手でガリアを守れなかった過去への悔恨。
エリーの胸に刺さっているのは以前のアイラと同質の棘だ。音楽隊にやりがいを覚えている今もなおそれが抜けないのは、疎開の際に置き去りにした――見殺しにした――飼い猫の一件があるからだろう。うまくやれてる今がやれなかった過去を帳消しにしてくれるわけではない。キツいぜ。
だいぶ上に記載した、3話の「さあね」という台詞も効いてくるというもの。

視察のためガリアへの同行を求められたエリーは及び腰な様子。
故郷が今どうなっているのか知りたくない。失われたものを確かめるのが怖い。
躊躇するエリーに、ジニーは帰れるなら帰ったほうがいい、と告げる。

ジニー「私ね、モフィがいたからみんなと飛べたんだ。(中略)でもそれは、選び取ったんじゃなくてそうするしかなかったっていうか。このまま私の傍に居て、モフィが自分の翼を手にできないとしたら」
エリー「そんなふうに思ってるの?」
ジニー「故郷の仲間と会ってモフィがもっとたくさんの未来を選べるようになるなら。今度は私がその力になりたいんだ」

自分が一番自分らしく居られる場所と、その選択について。
疎開野戦病院→音楽隊と居場所を転々とし、故郷を失った今の生活にも慣れてしまったと8話で語ったエリーと、群れからはぐれてなし崩しでジニーの傍に居るモフィが対比される。
こう並べてみると、今回はエリーが自分の居場所を選ぶ話でもあったのかも。

ジニーに背中を押されたエリーは一念発起してガリアに帰郷し、折れたエッフェル塔がそびえる廃墟と化した街を目撃する。
使い魔のリオに元飼い猫を幻視し、過去の思い出を呼び起こされる。変わってしまった景観の中で今のエリーは幼少期に戻っている。

灰色のポートレートと目にも鮮やかな幼い時分の記憶。自分らしさを殺す広報の日々と、自分らしくいられたかつての日々。

幼い頃のように歌を口ずさみながら空き家となった生家を訪ねるエリー。人工物は壊れたままだが、自然環境は回復しつつあった。

グレイス「よかった。エリーのガリアにちゃんと会えたわ」

ウィッチたちの活躍は動物たちの選択肢も取り戻している。再びガリアに住めるようになった水鳥たちの鳴き声が景色を満たしている。
劇伴控えめで環境音を強調した映像作り、強い。

エリー「あたしの仲間が、その羽根の子を故郷に帰してあげたいんだって」

エリーはモフィとジニーのために、川で会ったコクチョウの精霊を空へと送る。
故郷こそが居場所であり、帰ることが唯一絶対の幸せにつながる。そう信じて疑わない、純粋で視野が狭い、子どもの善性の発露。
故郷を離れた誰かが、行く先を第二の故郷とした可能性にも。
そこを去ることが新たなる別離を生む可能性にも思い至らず、エリーはただ清々しく笑う。

そして、生きていた飼い猫と再会するエリー。
上記の幼さに対するカウンター。差し伸べたエリーの手に猫は頬ずりするが、すぐに離れ、仔猫の毛づくろいを始める。
ボロボロのリボンが流れていった時間の長さを表している。

エリー「ここが、君の故郷なんだね」

エリーは再会した猫を拾わず、そのまま生家を後にする。
猫はエリーについていかず、陽だまりの中で仔猫たちの面倒を見る。
疎開時は共に居ることを選べず否応なく引き裂かれた両者が、今改めて自分の居場所を確認し、別れを選択している。

一同「おかえりなさい!」
エリー「ただいま」

宿舎に帰ってきたエリーたちを迎える一同と微笑むエリー。ここが今の自分の居場所なのだと実感しているようでもある。
ここ、エリーの頬に珍しく赤みが差しているのが本当に嬉しいんだよね……。

エリーのドラマにひと区切りついて、カメラは再びジニーとモフィへ。
エリーに渡されたコクチョウの羽根にモフィは強く反応する。羽根が指し示す先の川ではコクチョウの群れがモフィを待っていた。
人が住む陸と鳥が住む空、その境界となる川でジニーはモフィを手放す。

ジニー「モフィもモフィの空を見つけてね」

みにくいアヒルの子』を下敷きとした、叙情に満ちた妖精譚。ジニーを追って川に踏みこむいのりとミラーシャの姿が胸に沁みる。

モフィがモフィらしくいられる場所を探せるようジニーはモフィを空に帰し、当のジニーは自分が自分らしくいられる場所への切符――魔法力を喪失する。
シリーズを通して専ら悲劇として描かれてきた「(魔女としての)あがりを迎える」ことを、自らの決断をもって為す。なるほど外伝の主人公だ……。
まばたきの間に精霊が見えなくなるの、子どもの時間の終わり感ある。

9-10話はジョー・エリーとその元飼い猫が帰郷と離別を通して、自分の今の居場所がどこなのか改めて確かめる編だった。
ではモフィは果たしてどうだったのか? 他者の背を押し続けたジニー当人は?
その答えは次編までお預けとなる。

ジニー「だけど、今のままじゃモフィはきっと寂しいから」
ミラーシャ「あんまりそうは見えないけど」

……モフィに関しては1話でミラーシャが答え言ってたりする。ですよねー。

EDの一枚絵は荷解きする=ここに住むエリーと荷造りする=ここを出るジニー。ジニーの右腕はもういないモフィを抱きしめているようにも映る。

11-12話 わたしとみんなの歌

(歌いたいという自分の気持ちと向き合い、ジニーが音楽隊に復帰する。モフィがジニーの隣を居場所に選ぶ。音楽隊が世界中に歌を届ける)

ウィッチの力を失ったジニーは出立のための荷造りを始める。
一緒に歌いたくなくなったの? といういのりの問いにジニーは答えない。代わりに、ウィッチでもなくなった自分は正真正銘のぽんこつだからと朗らかに笑う。
面談の場では何らかの形で軍への残留も可能と伝えるグレイス。他ならぬグレイス自身がそうだしね。
しかしジニーの意志は曲がらない。

ジニー「私はやっぱり軍人にはなれないっていうか。使い魔と契約を交わさなくちゃならないことも知らなくて。生まれてすぐ私と会ったからモフィは仲間のもとに戻れなくて」

まず、自分は軍人ではないという自己認識。
次に、最初の契約自体が一方的で、モフィ側に選ぶ権利がなかった事実。

ジニー「私、最初からウィッチじゃなかったんだと思います。みんなと出会えて、モフィを仲間のところに帰すことができただけでも、ここに来られて良かったと思っています」

使い魔と相互に承認しあった契約の上にいない自分は、実は他のみんなと違ってウィッチですらなかったというロジック。

グレイス「忘れないでジニー。私はあなたの歌が好き。あなたがどこにいても、気持ちのままにいられるよう願ってるわ」

グレイスに言えることはこの程度しかないし、これ以上もないだろう。
気持ちのままにいられる場所。あなたがあなたらしく居られる場所。繰り返し描かれてきたテーマが、今度はジニーにスポットライトを当てる。

明け方にジニーは宿舎を出る。置き手紙冒頭の「私を受け容れてくれてありがとう」ってなんじゃい……他者の尊重と自己肯定感の低さがないまぜになってるよ~。
次のステージのための準備をジニー抜きで始める音楽隊。画面もゴリゴリ彩度を失う。回想シーンもかくやとばかり。
このタイミングでアイラが、ジニーに転属の命令が下っていた件を話す。
そも、音楽隊には前線で起用できないぽんこつ・わけありウィッチの掃きだめ的な側面がある/あった。成長してぽんこつを脱したら転属命令が下るのも自然なのだ。有能かつ希少で絶対数が不足しているナイトウィッチは特に。
モフィを仲間のもとに帰さずとも、ジニーは隊を去る運命だった。
どうにもならなかった現実を認識し、いのりは嗚咽する。

ミラーシャ「世の中の誰よりまず、ジニーに胸を張れるような曲を作るの! 私も頑張って詞を作るから! ね!」

作曲の手が止まっていたいのりをミラーシャはこう励ます。
4話の反復。受け取り手を意識すること。ジニーに教わった考え方。

マリア「ですが、9人いると思うとアイデアが自然と湧いてくるのです!」

振り付け班もジニーの存在を仮定することで手が動き始める。
このシーンで私は4話の〆、五線譜の空と星の音符を思い出していた。わざわざ音符をひとつ抜いた曲より原曲まんまのほうが弾きやすい、みたいな。

シルヴィ「作っちゃう?」
ジョー「なんかその方が調子出る気がするんだよな」

上に同じ。最終話で無から衣装が生えてきたらビックリしちゃうしな!

エリー「あたしは、何もかもうまくいくって思ったんだ」

ジニーが軍を抜けるきっかけを作ったことへの罪悪感に苛まれるエリー。
転属の件を知ってなおこう感じてしまうのがエリーの優しさだし、そういう角度からのフォローをせず「正しいことをした」とだけ伝えるアイラも優しい。外からではなく、エリーの視点に立って彼女を慮っている。

アイラ「ステージに立つために我々に必要なのは、まずは笑顔だ」

誰かを笑顔にするために、まずは自分自身が笑顔でいる。
3話で笑顔を取り戻したアイラがこれを言うの、堪らんね。

で、話を戻してジニーである。すべての描写が良い。とても静か。
ストライカーに貼られたモフィのステッカーを撫でながら目を見開いたり、仔牛に背をつつかれてモフィと勘違いしたり。空いた穴を生活の中で浮かびあがらせる。見せ方が巧い。
住み込みで働いていたブリタニアの家の温かさを描いているのも大変良かった。四葉のクローバー、マフラー、駅への送り迎え、何気ないやりとり。一時の止まり木に過ぎなくともその日々も確かに幸福だった。そういう大事なことをきちんと尺を割いて伝えてくる。つくづくいいアニメ。

けど、ジニーはあの家に戻ってから一度も歌を歌わなかったという。
なぜジニーは歌いたい気持ちに蓋をしたのか。推測するのも無粋だけどメモ。
歌えば音楽隊が恋しくなるから。
それほどまでにみんなと歌うのが楽しかったから。*7
より多くの人に自分の歌が届く喜びを知ってしまったから。
でも、自分は音楽隊にいる資格がないと考えているから。

アイラ「ですが、たとえ今は大切な人と離れていても、仲間や家族のことを想う心は私たちも皆さんと変わりません。大切な誰かに届くよう、皆さんも一緒に歌いましょう」

駅でラジオから流れてくる台詞は民衆にも、ジニーにも向けられている。
民衆の中にジニーも含まれている、と表現したほうが正しいか。

そして本作のクライマックスと言えるだろう、列車の中での一幕。
まずは幼い姉妹が、つられて同じ車両にいる乗客みんなが『歌を歌おう』を歌い始める。ルミナスウィッチーズが初めて作った曲。

ジニー「参ったなあ」

ここに至るまで、ジニーが人前で表情に陰りを見せることはなかった。
1話の台詞のリフレインと共に音楽隊でのライブが次々思い起こされる。

ジニー「気分が落ちこんだときは歌を歌うといいよ。落ちこんだときも、楽しいときも、なんでもないときも。歌を歌うと幸せな気持ちになれるから!」

夜の丘で魔導針が受信する歌を歌っていた頃に見つけた、自分の本当の想い――「光」を、今度は笑顔で歌う乗客の歌によって再発見する。
ジニーはなくした魔導針に手を当てるように両耳を押さえる。

音楽隊がジニーの存在を仮定することで隊らしさを取り戻したように 、ジニーはモフィがいると仮定して自分らしさを取り戻した。そんな見方もできるカット。

受け取り手が届け手を照らした3-4話、個性を肯定しあった5-6話、真に届け手となった7-8話、自分の居場所を確かめた9-10話。
これまで散りばめてきた諸要素やテーマが有機的に組み合わさり、主役の背中を押すという、本作の集大成のようなシーンである。
なくしかけた想いや個性――「光」を発見・肯定するというキャラ単位の話の軸と、歌の力で笑顔を生もうとするルミナスウィッチーズの話の軸。双方が「歌いたい気持ちに蓋をしていたジニーの物語」で見事に接続されている。
加えて、山場のトリガーを名もなき大衆へと預ける筆運びは、最終話の「みんな」を主体とした物語の先取りのようにも映る。

子ども「行き先間違えちゃったの?」
ジニー「うん、そうかも。けどやっとわかったの。わかった気がする。すごく簡単なことだけど、私にはすごく難しくて時間がかかっちゃったけど」

そうするしかなくて居場所を出たジニーが、再度その場所を選び取る。
ジニーは乗客に感謝を告げて一路Uターン、出発直前の基地へ。

ジニー「わかったの、私の一番の場所!」

ジニー「ウィッチでもウィッチじゃなくても、私、みんなと歌いたい! ずっと一緒に飛びたいの!」

屋根の上を走って跳び、いのりに抱きしめられた2話終盤の変奏。「私たち飛んでるよ」から「一緒に飛びたいの」へ。飛べなくても一緒に飛ぼうとする。当時は無自覚、今は自覚的。

魔法力を喪失し、ストライカーで飛べなくなったジニーが揃ってからの「ルミナスウィッチーズ、テイクオフ!」の掛け声で〆。痺れる。

ガリアに向かう航空機に乗ったジニーは一同に温かく迎えられるが、軍を除隊したのにステージに上れるのか? とアイラが不安をこぼす。

エリー「なんで! いいじゃん!」
アイラ「それは! 私だってそうなってほしいが、手続きというものが……」
グレイス「ジニーはまだ音楽隊の一員よ」
一同「えっ?」
神谷「いつ辻がサッカー部を辞めたんだよ」
秀人「でも俺、退部届を……」
神谷「ふっ」(内ポケットに挿したままの退部届を見せる)
一同「あ……あぁああ~~~~~~~~~~~~~~っ!!」




驚くジョーたちを前に微笑むグレイスはとっても大人らしい。

グレイス「ウィッチじゃなくなったからステージに立てないなんて、これまでの活動を否定することになるじゃない? 誰だって自分の人生を都合よく乗り換えることなんてできないんだから。他人からぽんこつ呼ばわりされたってそんなこといちいち気にしないで、図々しく生きてやればいいのよ!」

図々しく生きる。自分で自分の生き方を選び取るということ。
隊が世間に応援される口実・実績を少しずつ積み上げ、各所への筋も通してきたグレイスが子どもにはこう伝えるってのが良い。かっこいい大人像。

……この最終話はジニーの転属の件を蒸し返さないまま終わる。
けど、実質的にはこのグレイスの一言で片がついたのだと思う。
エピローグ時点では魔導波の発信がまたできなくなった*8とか、ナイトウィッチの資質を費やすほどの価値が音楽隊に認められたとか、色々と補完する余地はあるけれど。
大事なのは、当のジニーがようやく「音楽隊にいたい」と表明した事実だろう。
「ウィッチでもウィッチじゃなくても」。この言い回しには「たとえナイトウィッチでも」も含まれる(曲解すればね)。
軍人か否か、使い魔がいるか、魔導針の有無、そんなのは他人の物差しである。ぽんこつだろうが有能だろうが、居たい場所を希望する権利はある。
人から掛けられた言葉ではなく、自分の言葉でジニーが再起したのはそういう意味でも重要だろう。
根回しはフェリシアさんやグレイス隊長がなんとかしてくれるよ(ぶん投げ)。子どもを尊重する大人たちが住む世界なのは1話から描いてきてるし。

ガリア着。式典の演説をおやつ片手に聞き流しながらエリーは呟く。

エリー「だって、ここに居た人たちは今もどこかで暮らしが元に戻るのを願ってるよ。みんながそう願ってるんならどんなに大変なことだって、いつかは叶うと思うんだよね」

改めて強調される「みんな」。復興を願う人々について。
音楽隊はあくまで一時の癒しと笑顔を与えるだけである。ガリアに限らず、街の復興を果たす主役は名もなき民衆だ。

日が暮れた会場に客の姿はない。いるのは欧州各国の要人と軍の上層部のみ。
遠く離れた空にも届くよう、音楽隊は高らかに歌う。

自分だけで生きていくこと そうあるべきだと思い目指してた
助けを求めることは弱さじゃない 生きるという本気の強さ

みんなみんな戦ってるんだ自分を賭けて今未来へと みんなの世界は続いてく

『みんなの世界』より。2番から歌詞持ってきてるんだなこのシーン……。
6話のマリアや他の話、というか手をつないで飛ぶルミナス全員に当てはまる。
作中、ひとりで何かを成し遂げた人間なんてほとんどいない。周囲の助力で演奏会に漕ぎつけたボロージャは最たる例だろう。その点では音楽隊も名無しのモブもなんら変わりはしないのだ。
本作は特別な力に選ばれた者の英雄譚ではない。
ひとりでは何者にも満たない子たちが自分の居たい場所を選び、そこで合わさって大きな力を生む、そんな普遍的な成長譚である。*9
ジニーたちの歩みは世界中の人々に敷衍できるモデルケースだ。
……こう言葉にすると正しくアイドルアニメですね。

そして遠い夜空から姿を変えたモフィがステージにやって来る。
大切な誰かに届いたね、歌。ジニーが歌わなかったらモフィもジニーがどこにいるのかわからず、彼女の隣を選べなかったと考えるとなかなか厳しいものがある。
自身が何者かを知り、居場所を選んだモフィの魔導針は、以前のヘッドフォン型からアンテナを象った形状へと変化する。
ジニーたちの歌は魔導波に乗って世界各地のナイトウィッチに届き、それぞれを中継することでさらに世界中へと広がっていく。

地球を股にかけるドーナツ、折れたエッフェル塔を甦らせる光の航跡。9話のスケールを大きくしたようなライブは人類の結束を予感させる。

最終的には音楽隊と聴衆が互いの姿を身近に投影する奇跡が起こる。これはジニーの固有魔法*10っぽい。距離をなくす魔法、ジニーらしいな。

MCを頼まれて壇上に立ったグレイスは流れで『永久の寄す処』を歌う。完全にアメイジング・グレイスになってる(?)。
魔法力を再度手に入れたジニーの後にこれを描くのが偉い。「ウィッチじゃなくなったからステージに立てないなんて、これまでの活動を否定することになる」のなら、まずは他ならぬグレイスが先陣を切る。その姿が世界中の人々へのメッセージにもなる。
グレイスの歌は非ウィッチでも音楽隊でいられることの証明であり、誰もが音楽隊のように歌を歌って周りを笑顔にできる可能性の提示だ。
1話のフェリシアが言った、後続への希望の光にもなっただろう。

サブタイトルの上3コの星もその文脈だよね、という指摘に目から鱗が落ちて失明した。ナイトウィッチだと数合わないものね。

ジニー「お~いみんな~。私たちの声聞こえますか~?」

は~い。映像を映すのがジニーの魔法なので第四の壁もちょっと越えた。
ここ、さらっとミラーシャにファンがいる描写を挟んでるのが抜群に良かった。8話の台詞「他にもそんな人はいるはずです、きっともっと!」×「いつかアイラ様を越えてみせます!」=ミラーシャについた固定ファン。天才の方程式だ。
でも客席がキャラの呼びかけに応えてパーソナルカラーで光るのは草。やっぱりヲタク棒じゃないか💢

ジニー「不思議。私たち、みんなを応援してるつもりだったのに、私たちのほうが応援されてるみたい」

音楽隊の歌が客を照らし、客の応援が音楽隊を照らし返す。
4話・11話と同じ構図。隊の活動の総括でもある。

〆のライブは回想と共に世界中の人々を映し出す。
輝ける音楽隊ではなく、その光を受け取った人たちに重きを置く。彼女たちが何を為してきたかを人々の笑顔が雄弁に語る。

ここで名前テロップが表示される。毎話の名前テロップ自体は同監督の『アサルトリリィBOUQUET』を踏襲した技法だが、本作のそれは「芸名」「ルミナスウィッチーズでの名称」的な側面もある。アクターとしての彼女たちを強調し、讃えるような演出。

『歌を歌おう』はタイトル通り、歌を歌おうと呼びかける歌。
これはルミナスと、ルミナスの活動をきっかけに自分たちの「光」を取り戻した人々によって紡がれる、世界を光で満たす物語である。

後日、元の木阿弥。

いのり「私はまんまるのモフィも可愛くて好きだな」

みにくいアヒルの子モチーフのモフィが元に戻ってその姿を肯定される。現代的というか、監督の作家性を感じる帰結である。
そいでもって終わり間際にはろくでもないシーンで畳みかけてくる。使い魔どものケンカ、通信障害オチ、写り込み、萌え萌えミラーシャ。感動的な最終話なのに最後のほうは表情筋ゆるゆるだったね。あとグレイス隊長の衣装案、耳と尻尾が小道具なの言われてから気付いた。すべてのアニメは耳と尻尾を付けろ党*11の私もこれには笑顔である。
ラストシーンは1周年記念ライブ、始まりのステージでの挨拶。
言うことなし。いい最終回だった!

おわりに

きれいごとが過ぎる、という気持ちがまったくないかと言えば嘘になる。

本作では「歌で笑顔になれなかった存在」は一切描かれない。疑いを挟む余地すら残していない、と言ったほうが正確かもしれない。
ジニーにとっては真実のあの台詞。歌えば必ずハッピーになるか? んなこたない。なんなら沈んだ気持ちと紐づけられて曲が苦手になるまである(実体験)。聴衆にも同じことが言えるだろう。歌で救えない現実はある。
「みんなで協力できない状況・集団」「協力してもダメだった挑戦」も(現在の時系列では)描かれない。1話でグレイスを認めなかった軍上層部も最終話では満足顔。ボロージャの街の住民は切羽詰まっててもなお協力的だ。音楽隊のワールドツアーは(8話のミラーシャのような細かい失敗はあれど)どの公演も成功を収める。
「光を持たない人間」「居場所のない人間」なんかも登場しない。マリアの虚弱なども、解消こそされないが致命的に足を引っ張ることはない。エリーが音楽隊を居場所としたのは先に書いた通りである。
過酷な戦時下、破壊と貧困を背景に漂わせながらも、テーマにまつわる今と未来への描写は一貫してポジティブな基調が保たれる。1話アバンのような絶対的敗北がルミナスを襲うことはない。
それは作品をエンタメとして成立させるための刺抜きだし、尺の都合もあるかもしれない。はたまたフェリシアやグレイスが裏で奔走しているのかも。
本作は基本、砂糖菓子のように甘くて美しい理想を描いている。

でも、フィクションの存在意義ってそういうところに宿るんじゃないの。

歌の力の限界を描かないのは、限界なんてないと信じる強さの裏返しで。
頑張ればみんな手を取りあえるし、そうすれば絶対に成功するし。
いいトコなしな奴なんていなくて、居場所だってきっといつか見つかる。
だから、
歌を歌って元気を出す。
みんなで力を合わせてやってみる。
傍にいる人のいいところを見つける。
自分の居場所は自分で決める。
そんな言葉にしちゃえばありふれた、道徳の教科書みたいな話を、本作はこの上ない熱量と繊細さ・力強さをもって描き出してみせた。
見終えた後に感じる希望は一時の錯覚かもしれないけど、なんとも気持ちのいい錯覚だ。そのまま信じてみたくなるような、上を向いて歩きたくなるような、見る者の心を明るくする「光」だ。
他人を照らすためにまず自分が輝く。本作はこの哲学を体現している。

誰かが歌う。それを聞いた誰かも歌う。幸せな気持ちが伝播していく。
みんながみんなのいいところを見つけあって、認めあって、輝きあう。
笑顔が別の人の笑顔を生み、共振し、世界を満たしていく。
太陽が月を照らし、月が夜の地球を照らすように、地上の星々ひとびとの間で「光」がどこまでも広がるというおとぎ話。
メインキャラの内に留まらず、モブ・ウィッチ・格差・国境といった垣根を飛び越えて、視聴者をも巻きこんでいく広大無辺な夢物語。
その眩しさを私は支持する。
理想を描き切った物語は尊い

良いアニメだった。子どもにも見せたい~なんて押しつけがましい言葉を使う気はないけど、長く後世まで残ってほしい。そう願わずにいられない、正しくて善いアニメだった。
私に視えた本作の「光」は前項までであらかた記載したが、きっとまだ発見できていない魅力が星の数ほどあると思う。焦点も極端にジュブナイルに偏ってるし。歴史・文化・ミリタリー的視点からはろくに拾えてない自覚がある。
乱暴な見立てをしてしまった箇所も多いし、終盤の幻覚度はヤバイ。数年後になんだこれって笑いたいね。まあこのブログそんな記事ばっかだけど。。。

あれこれこねくり回してたらなんだか私も歌いたくなってきたぞ。
路上で歌ったら職質されるし久しぶりにカラオケにでも行くか。おれがジョアンナ・エリザベス・スタッフォードだ。12歳。ちっちゃなムネのトキメキ。
『歌を歌おう』はマストでしょう。列車の乗客ごっこしたいし。ジョー的には『星と共に』『まっしろリボン』あたりも当然捨てがたい。曲としては『太陽の理由』『Flying Skyhigh』もかなり好みなんだよな。

はい。
前期アニメなんだから曲が揃ってるわけない、それはそう。










……










……










……『Flying Skyhigh』(2020)は入っててもよくない?










……










……










なんでこんなことになっちちまうんだよぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!!!!!!!!!










……










『わたしとみんなのうた』、完全神曲……。

おわり

*1:ただし軍人ではなく歌手。主に慰問に関わった方を選んでるっぽい。

*2:ゲロじゃないよ!

*3:衣装班だけスルーされたのはシルヴィとジョーの能力が充分だったからだろうか。

*4:いわゆる丸天井のこと。モデルとなった聖イグナチオ教会では資金不足等の理由で半球形を建設できず、代わりにこのような騙し絵が用いられた。

*5:いろんな土地を渡ることで魔法力を貯めて変身する精霊。変身前には体調を崩し、変身後は元に戻ると推測される。ちなみにモフィは10話でも同様の体調不良を起こしている。

*6:労働者の街であるブルックリンと高層ビルが立ち並ぶマンハッタンを結ぶ吊り橋のため。『サタデー・ナイト・フィーバー(1977)』が有名。

*7:ジニー「みんなで歌えたらきっと楽しいね!」(3話終盤より)

*8:ラストカットではモフィと同様、魔導針もヘッドフォン型に戻っている。

*9:この筆致がガリアを取り戻した英雄・501部隊の戦いの価値を毀損するわけではない、というのはもちろんとしてね。

*10:

「ワールドウィッチーズ発進しますっ!」山川美千子のワールドウィッチーズ講座⑨ - YouTube

*11:SHOW BY ROCK!! ましゅまいれっしゅ!!』以後結成された真実を謳う党。党員1名。