いつか届く、次のキミへの歌 ~TVアニメ「音楽少女(2018年版)」感想~

「ここにいる皆さん全員が私と同じような気持ちになる保証はありません。でも、なるかもしれない。そんな可能性が音楽少女にはあります」

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スタジオディーン×キングレコードの共同アニメーション作品『音楽少女』を観た。
ゆるい作画、すっとぼけたギャグ、単話完結ベースで面白いものの時たま判りづらく雰囲気で押し通しているような作劇。第一印象はいかにもなB級アニメ、実際終始そんな匂いを漂わせていた本作であるが、それら一切をも含めて胸に刺さる掛け値なしの傑作だった。
トンチキ要素とエモーショナル成分の稀有なレベルでの融合、それでしか織り成されることのない独特のドラマと鮮烈な絵面、反復と対比がゴリッゴリに効いた演出・展開と美点を挙げればキリがない。視聴するたびに発見があり、何周でもしたくなる魅力に溢れている。特に最終話は何度見ても滂沱する。ここ数年のアニメ作品でも五指に入るのは間違いないだろう。今年のアニメでは一番好き。
前置きが長くなった。以下、感想。


「素敵なキラキラオーラを放って、音楽の力でみんなをワクワクドキドキさせる無敵の女の子」。アイドルが何なのかつゆと知らず、そんな母の言葉だけを胸にその存在を頭の中で自由に思い描き憧れていた少女・山田木はなこは、数年ぶりの日本への帰郷時に売れないC級アイドルグループ『音楽少女』と出会う。彼女たちのミニライブに心動かされたはなこはその活動を応援したいとマネージャーに志願し、『音楽少女』の面々と自分自身を少しずつ変えていく。

「アイドル」という概念は今やその由来である偶像を越えて、文化に応じて様々に定義される単語と化しているが、本作では「想いを歌で届ける者」(表象としてのアイドル)そして「自分の何かに対して懸命な者」(内実としてのアイドル)としてのアイドルがフォーカスされる。
また、受け取る者の存在なくして何かを届けることが叶わないように、受け取る観客があってはじめてアイドルはアイドルとして成立するということも。
当記事ではこの基本骨子を軸にし、アニメ『音楽少女』について私見を交えて書き綴っていく。

・山田木はなこという少女について

本作の主人公である山田木はなこの最大の特徴として、上述した受け取る者としてのきわめて優れた資質が挙げられる。
はなこは1話で初めて『音楽少女』のライブを見た時点で、楽曲『ON STAGE LIFE』に籠められた強い想いを受け取っている。桐の振り付けのズレを的確に見取り、逆に美点を褒めそやしたりもする。
3話では絶対音感の才覚を、6話では聞き上手な側面を見せたりと、とかく周囲に対するアンテナが鋭敏な上に心配りも巧い。ある意味理想の受け手の具現化とも呼べる存在だろう。
その一方で、送り手としては非常に中途半端な存在である。
一目でダンスを完コピできるがコピー以上でも以下でもない。料理の腕前は羽織に劣り、メイクは髪のセットが精々。音痴ゆえに作曲にも携われない。歌については言わずもがなである。スタッフとしても責任と実績を有する池橋には権限の範囲で及ばない。
はなこにできることの多くはクリエイティブでプロ的なそれらの前段階にある。
そこに存在するのは、ただ「届けようとする熱意」そのものだ。2話で免許を持たない彼女がライブ衣装を走って届けた描写が示唆的だったりする。
こと歌においては、それは作中で「心で歌う」と呼ばれている。
そして、届けようともがけば、それが誰かに届く瞬間だってある。音痴の歌でもそれは変わらない。……相手が受け取ろうとする限りは。

この「届けようとする熱意」は言葉通りの懸命さを帯びている。
即ち、実のところ上記の内実としてのアイドル性と直結している。

はなこ母「あなたが自分から何かをやりたいと言い出したのは初めてね」(2話)

2話ではなこの母が言及した、はなこの人物造形について触れる台詞。
はなこがなぜ送り手としての資質に欠けるかを端的に示した言葉ともいえる。
彼女はたぶん、今までの人生で自分から一生懸命になった経験に乏しいのだ。だから特に序盤は加減がわからず、結果オーライの無遠慮な行動にも出てしまう。
自分の道を歩き出したばかりのはなこは応援する者としてもまだまだ未熟だが、はなこ同様『音楽少女』を支える者として在り続けたセンター・羽織の姿を通して、徐々に適切な言動やレシピのアレンジなどの技も身に付けていく。

「応援できるような存在になりたい」ではなく単なる「応援したい」なのもミソだと思うがここではさて置く。
ともあれ、『音楽少女』を応援しようとはなこが決意したとき、彼女は内実としてのアイドル性を既に獲得している。
(ただしアイドルとは呼べないだろう。自分自身に向けられない情熱や、既に持っている内実のアイドルの本分からズレた地点でのそれは言ってしまえば似姿に過ぎない。だからあくまでアイドル「性」とする。)

次項に進む前にはなこのキーアイテム・ドルドルにも軽く触れておきたい。
ドルドルは曰く「はなこの中のアイドル」であり、彼女を象徴するアイテムだ。ツギハギだらけの不恰好な人形は(帰国して新たに生じた『音楽少女』を応援したいという熱意を除く)はなこのアイドル性・送り手たるすべてを仮託されてできている。
ドルドルは両親の仕事の都合で転居続きだった幼いはなこの寂しさを紛らわしてきたという。恐らくはなこは自分自身を送り手=ドルドルと受け手=はなこに分割し、受け手としてドルドルから元気をもらう他に孤独を癒す術を知らなかったのだろう。
自分の中の「音楽の力でドキドキワクワクさせる無敵の女の子」をドルドルに託したはなこが音痴なのは、後述する最終話のライブを踏まえると納得感がある。

・交感する受け手/送り手の関係

作中での直接的な言及はないが、観客とアイドル・受け手と送り手の関係性は本作の中軸を担っている。『音楽少女』のスタッフであり同時にいちファンでもあるはなこや、他の登場人物たちを通じてこの関係はしばしばピックアップされる。
受け手はただ提供されたものを注がれるだけの器ではない。己が内に生じた熱を以って送り手に影響を返しうる存在なのだ。本作はその点に着目したドラマが再三描かれている。

作曲の3話。
期待されることのプレッシャーからひとりでの曲作りに行き詰った絵里は、受け手であった日陽たちとの作曲によってスランプから脱する。絵里に足りていなかった音、つまり空回りになっていた懸命さは、日陽の初めての作曲活動や『音楽少女』の面々のサポートに補完される。
作詞の6話。
キャリアを積むうちいつしか色を失っていた6話の夏輝先生の心は、未来のダンスと素人丸出しの作詞によって復活する。先生は初めて作詞した未来と同じように素人らしいダンス(キレッキレだが…)を踊り、かつて心の中にいた17歳の少女、内実としてのアイドルを再獲得する。
そして歌の8、11話。
H☆E☆S、羽織に対してのはなこの歌も、上のふたりと同様である。
受け手に芽生えた内実としてのアイドル性=原初的なひたむきさが送り手のそれを再生/再発見させる構図が、もっともわかりやすい6話に限らず幾度も繰り返されている。

はなこ「だから『音楽少女』のみんなが、仕事や家族のこと、過去や将来のこと、そして絶対に諦めたくない夢について、全力で一生懸命ぶつかっているのを見て、びっくりしました。そしてすごいと思いました。そんな『音楽少女』が生み出す音楽だから、ドキドキしたり、ワクワクしたり、キラキラするんだって」(12話)

最終話ではなこはこのように語る。
しかし『音楽少女』が挫け、迷ったとき、その背を後押しして再起に至るまでの情熱――内実のアイドルを再び導いたのは、他ならぬはなこ自身なのだ。

また、こうした構図を反転させたドラマも並立して描かれる。
「心で歌う」バル・あこちゃんの姿を見て、羽織が自身の内実としてのアイドルの喪失を突きつけられる10話である。

羽織「桐ちゃんの体、あったかくてほっとする。なのに、もう心で歌えなくなっちゃったよ。どうしよう」

ユニットを支える者という既存のアイデンティティに囚われ、自分がいなくても『音楽少女』の歌が届きうると知った羽織からは、内実のアイドルがすっぽりと抜け落ち、表象のアイドルとしてしか振舞うことができなくなっている。
園児の前では歌えていたのに後に「歌えない」とこぼすさまが印象的だ。今の彼女の歌に心はなく、ただの発声でしか歌っていない。そしてこのライブも9話と同様、他メンバーの歌によって観客の園児らに無事届いてしまっている。エンドロールで実際に羽織が歌えていたことを示す演出がニクい。
ちなみに、10話は純粋な受け手であったあこちゃんが送り手となり、自身に芽吹いた内実のアイドルによって「心で歌う」ことを周囲の園児に伝播させていくさまも描かれる。
これは最終話におけるはなこの願いにもつながっている。

ここで、はなこの音痴という設定についても書き記しておきたい。
私は、元々はなこは天性の音痴だったというわけではないと考えている。

はなこ「私はずっと、自分が何をしたいか、自分に何ができるか知らないで生きてきました。ううん、そんな難しいこと考えたこともなかったんです」(12話)

はなこの音痴とは、自分のやりたいこととできることへの無知である。
あるいは、やりたいこと・ひたむきさが自身の歌に向けられていない状態の発露である。到着したい行き先を持たない声音は1話での空港のはなこと同様、常に五線譜の上をゆらゆらとさ迷う羽目になる。
内実の喪失による声の不調和。羽織の喉の失調と同一線上に位置する現象である(はなこと違い、表象の力のみで表面上また歌えるようになってしまうのが羽織のプロたる所以というか……)。

しかし、かつてアイドルになどなりたくないと言い切っていたはなこは、最終話で涙ながらに『音楽少女』になりたいと強く叫ぶ。
他者の応援に向けられていたはなこの中の内実のアイドル性は、誰かのためだけではないひたむきさ――内実のアイドルに形を変える。
今度は11話までとは逆に、はなこのほうが『音楽少女』の姿から、ドルドルに仮託していた自身の内実のアイドルを再生された形だ。
仕事、家庭、過去、未来、夢……自分の何かに一生懸命な『音楽少女』の姿が、そうした熱を何も持たなかったはなこに届いたから、はなこもそんなふうに、彼女たちのようになりたいと希えたのだ。
『音楽少女』のアイドルとしてのひたむきさを間近に受け続けて、憧れではない、自分の中の新しい内実のアイドルを見つけたのだ。

そして、そうなりたいと懸命に希うはなこの姿は既に『音楽少女』のそれと重なる。
ゆえにはなこは『音楽少女』になれる。素敵なキラキラオーラを放って、音楽の力でみんなをワクワクドキドキさせる無敵の女の子になれる。
はなこが確立した内実のアイドルは、本来有していた表象のアイドルとしてのポテンシャルと噛み合い、もうその音が迷うことはない。

・外の世界へと届ける歌――輝ける最後の一片

はなこ「ここにいる皆さん全員が私と同じような気持ちになる保証はありません。でも、なるかもしれない。そんな可能性が『音楽少女』にはあります」(12話)

最終話、はなこの演説と歌は観衆の心には届かない。
会場には野次と罵声が飛び交い、嘲笑の声が止むことはない。
この時点のはなこは表象のアイドルをまったく扱えていないからである。歌で想いを届ける力を一切有していないからである。
アイドルという表象の力を伴わない心だけの言葉・歌は、傍にいる人やファンには届いても、山田木はなこという人間を知らない、いわば「外の世界」の人には届かない。
この点、最終話は過去の話数すべてへのカウンターパートであると言える。
これまで『音楽少女』に対して好意的な、言ってしまえばぬるい声しか描いてこなかった過去の描写も、この野外フェスにおいて強烈な対比として機能してくる。

そしてこの一幕は、アニメとして十分にリッチなビジュアルだったとは言えない本作『音楽少女』自体の性質ともオーバーラップする。
告白すると、嘲笑するファンではない観衆の姿に、私は1話放映時点の私を見た。

アイドルではないはなこの想いは外の世界には届かない。
しかしアイドルグループである『音楽少女』の歌も、当然、必ず届くとは限らない。

羽織「みんな何しにここに来てるの!? 音楽を聴きたいからでしょう!? 音楽を楽しみたいからでしょう!? だったら、『音楽少女』が最高の音楽を聴かせてあげるわよ!」(12話)

羽織の啖呵に湧いた観衆のすべてに、その想いが届いているかははっきりしない。
私にはなんとなく、その多くが雰囲気で歓声をあげているだけのように聞こえる。

誰かに歌が、そこに籠めた想いが届いたとき、彼女たちはアイドルとなる。
届いたという事実だけが、彼女たち12人を遡及してアイドルとなす。
だから彼女たちは歌うのだ。自分たちは特別だと信じて、想いよ届けと声を振り絞って。
ファンではない、無邪気な園児たちを『音楽少女』の虜にできたように。
今度は、大切な仲間を嘲り笑った世界を変えていくために。

最終話ラストライブに対する観客の反応は描かれない。

最後のピースは誰でもない キミだよ キミなんだよ(ED『シャイニング・ピース』歌詞より抜粋)

1,1,2,3,5,8,13 Let's Go!(同上)

EDではなこが、そして10話であこちゃんがそう歌われたように、アイドルグループ『音楽少女』を完成させる最後の一片の役目は受け手に委ねられる。
これは視聴者についても同じことが言える。はなこがユニットの一員となった今、受け手の役割は私たちにシフトしている。私たちが届けられた想いを受け取ったとき『音楽少女』というアニメは初めて完成する。
そのために彼女たちは、そして本作はこのラストライブで、その表象においても外の世界にまで通用する最高のパフォーマンスを見せた。

それを本当の意味で最高のライブに、そして『音楽少女』を最高のアイドル、最高の作品にできるのは、私たち受け手だけだ。
だから私たちは音楽に、アイドルに、あらゆる創作物について、舐めてかかってはならないのだ。

夏輝先生「みながダイヤの原石。それを磨くのは客だ。君たちだけが特別ということはない」
未来「お言葉を返すようですが。自分は特別だって思わないとアイドルはできないと思います。私はいつだって、私を見てくれるすべての人のハートを鷲掴みにするようなパフォーマンスを見せたいって思っています!」(6話)

受け手が舐めずにかかった上でそれでもなお籠められた想いが届かなかったことを、作り手は――少なくとも『音楽少女』は受け手の責任にはしないだろう。

はなこ「この日見た景色を、私はきっと、忘れない!」(12話)

私たちの目に映った作品は、総じて私たちの記憶となる。
ひとりひとりの視聴体験の中にそれぞれの『音楽少女』というパズルは存在する。同じ完成形はひとつとしてない。

・おわりに

楽しく、面白いアニメだった。深く心に突き刺さるアニメでもあった。あの日あの時リアルタイムでファンと笑いあいながら実況した、そんなことが代えがたい視聴体験となる、そんなアニメでもあった(後番組の『百錬の覇王』も込みで)。
私は山田木はなこではないし『音楽少女』にはなりたくてもなれない。彼女たちに影響を与え返すなど不可能だし、最後まで本作の受け手のままだ。
ただ、彼女たちのようにはありたいと思った。そう私の中の内実のアイドル性が訴えかけてきた。
だからたまらずこうして筆を執っている。今伝えたい感情は今伝えなきゃその価値やニュアンス変わってしまうと『永遠少年』にも書いてある。
届けというこのアニメの想いを受け取ったから私も届けたいと思った。現時点での私のパズルを、この楽しみ方を忘れてしまった遠い未来の自分に、もしくは本作を楽しみたいと思いたまたまこんな場所を目にした誰かに。

これほど誰かに見てほしい、届いてほしいと思ったアニメは久しぶりだった。
ただ、視聴済みの方向けの記事でこんなことを言うのもナンセンスだが。
いちファンとして本作を薦めるときに言えるのは、やはり同じくいちファン、いちスタッフだった頃のはなこが語った記事冒頭の台詞だけなのだろうとも思う。

想いよ届けと叫んだ本作が、より多くの「外の世界」の人々にも届いてほしい。
今はただそれだけを切に願って筆を置く。



――アニメ舐めんな!!!