今、このときを帰る場所と決めて ~TVアニメ「SHOW BY ROCK!!ましゅまいれっしゅ!!」読解・感想~

奇跡、出会えたかも!? これは夢と希望と音楽と、奇跡の物語。

サンリオ原作・キネマシトラス制作のアニメ『SHOW BY ROCK!!ましゅまいれっしゅ!!』を観た。
SHOW BY ROCK!!』シリーズのアニメとしては(ショートアニメを除くと)実にこれで3作目となる。主役バンドに前2作と異なる新バンド『Mashumairesh!!』を据え、アニメとしての制作体制もほぼ一新して作られた本作だが、20年代の始まりを告げるに相応しいビビッドな傑作に仕上がっていた。
音楽を媒介に、方向性の異なる3バンドを足場にして描かれる物語は、初めのうちこそとりとめもなく映るが次第にその軸が可視化されていく。
なぜバンドなのか、自分たちは何者なのか、そしてどのように在りたいのか。質感を伴った細やかな描写と話数を跨いだ反復、そしてバンド・キャラ間の対比は各々の成長とアイデンティティをくっきりと浮かびあがらせる。
本作は他者との交流の中で『Mashumairesh!!』のメンバー4人が、ちょっとだけ変わったり変われない自己の一部を認めたりしながら、全員でひとつの答えに至るまでの輝ける青春の1ページである。あと百合と野郎。
以下、例によって文字起こしにも近い雑感を書き連ねていく。誤読や曲解、牽強付会も多々散見されると思うが、当座の記録ということでひとつ。

・才への期待と個性への愛

本作では実に多くのキャラが他者から期待を注がれている(あるいは、いた)。
ほわん、ヒメコ、デルミン、ヤス、そしてレイジンの面々……それぞれが自分にかけられた期待に対してどのように応じたか、またどのような在り方を選択したか。その様がときに淡々と、ときに凄烈な筆致で描かれる。
象徴的なのが1話Aパートだ。本作の主人公・ほわんはえいやっと村の人々から無邪気で過剰な期待を寄せられている。胸が温かくなる一方で初見時はこんクソ田舎…と呟きたくもなる一幕だが、ほわんはすっかり慣れたことのようにしなやかに期待を受け止めている。

これと対照的なのがもうひとりの主人公・マシマヒメコである。
ヒメコはかつてその優れた音楽的資質を買われてバンドを組んでいた。しかし、バンドメンバーから寄せられる過度の期待に応えきれず、身勝手な幻滅を繰り返し受け続けるうちに拗れていった人物でもある。
誰もが才能目当てで近寄ってくる。才能だけしか見てくれない。そんなバンドという場にヒメコは強い憂いを抱いている。
(3話でマスターからどこゆびのチケットを受け取り「でも曲は良かったから」と語るほわんを見て立ち止まるヒメコの姿は印象的。自分のバンド練を見学しに来たのもチケットをもらった理由(=音楽的能力のみに対する期待)と同列の感情なのか? このシーンは5-6話でヒメコが「ほわんも結局自分の能力に惹かれているだけなのかも」と勘違いする最初のトリガーとなっている)

物語前半部のヒメコには、ヒメコとバンドを組みたがる人間からの「すごい」は禁句である。
「すごい」は能力への賛辞である。たとえその中に好意が含まれているとしても、すごくなくなったら、期待に応えられなくなったらそこで好意も終わり。芸能の世界さながら、才の切れ目が縁の切れ目となる。
10話での作曲風景を見る限りそれなりにスランプも起こすタチなのだろう。実際そんなふうに離れていく人をヒメコは多く見てきたらしい。
6話でヒメコがほわんのバンドの話をたびたび打ち切るのはこのためだ。
バンドを組んだらほわんもいずれ自分に期待を寄せるかもしれない。そうなったらまた幻滅される。今のようなただの友達でさえいられなくなる。それだけは嫌だと。

一方、ほわんがバンドを組みたい理由は別のところにある。

「みんなと一緒に音楽を、音楽を……えーっと、わからないけど、とにかく一緒にやればきらきらできるって」

6話Aパート、バーガーショップでの台詞。ここでほわんが言い淀むのは音楽をことさら特別視はせず、単に好きなもののひとつとしてヒメコたちと共有したいからだ。好きなものについて話した2話、秘密を言いあった4話の延長。この台詞の力点は音楽(≒ヒメコの才能)ではなく、一緒に何かをやることにある。
音楽じゃなくていいわけではない、けど音楽だけがすべてでもない。この手段であり目的でもあるという題材への距離感は絶妙なもの。

6話の話を続ける。
カラオケで「うまい」「ダントツですごい」と言われ、トラウマを刺激されて苛立つヒメコ。「特別」に惹かれるルフユが評しているのがまた一貫性があり……というのは一旦脇に置いといて。
カラオケボックスを出たヒメコとほわんはレコードショップの前で足を止める。

「このバンド好きなの?」
「うん。いい曲書くんだよ。海がテーマのやつで、ぐっとくるんだ」
「ほわ~。聴きたい!」
「うちにあるから後で貸してあげ……」
「ヒメコちゃん?」
「なんでもない」

CDを貸し借りしようとする上のくだりは2話のリフレインだが、2話と違いヒメコはほわんにCDを貸すのを止めてしまう。
音楽でほわんとつながることを、さらに帰宅後は旅行という音楽と無関係の遊びすらも拒絶する。ヒメコはいよいよほわんを遠ざける。裏切られるのが怖いから。たぶん捨てられるより、自分から捨てる方が多少は楽だろうから。
ヒメコはひとりになるよう努めてきた1話時点の彼女に逆戻りしようとしている。

夜の海辺で、ヒメコの痛切な心情を聞いたほわんは海に向かって叫ぶ。

「うちの、バカ――――――――――――!!」

ほわんはバンドを組みたい自分の気持ちばかり優先して考えていたと懺悔し、自分がヒメコにしてもらったこと、ヒメコを好きになった根拠を並べていく。
そこから続く「ヒメコちゃんはすごく優しいしカッコいい」という台詞は、ヒメコの過去とも才能とも関係のない、今のヒメコの人格に向けた言葉だ。

そしてほわんは、今までヒメコが一番欲しかっただろう言葉を口にする。

「でも、うちはずっと一緒にいたいの」
「なんで」
「決まってるよ。ヒメコちゃん、だから」

ただ、その人がその人であるから。
これは本作全体を貫く、存在そのものが有するアイデンティティへの力強い肯定だ。

「ねえ歌って!」
「唐突」
「うちヒメコちゃんの歌大好き!」
「やだ」
「えー」
「一緒なら、いいよ」

ほわんはヒメコの歌を「すごい」でも「うまい」でもなく「好き」だと語る。
評価ではなく嗜好。口に合うと言い換えてもいいのかもしれない。5話・8話でレイジンの力量を認めながらもましゅましゅを選んだように、ほわんはヒメコの作る歌こそが他のどんな歌よりも好きなのだ。
ほわんはヒメコの音楽的才能を、人格的な優しさやカッコよさと同一線上に並べられる個性のひとつとして好きだと言う。
優れているからではなく、ヒメコだから。
その才能もまた、ヒメコという存在の愛おしい一部だから。
どれだけヒメコが悩んで怒っても「優しくてカッコいい」と評したように、たとえ作曲で躓いても「歌が好き」だってきっと変わらない――そういう好意を向けられたことでヒメコの心はとうとうほぐれる。
また、そんなほわんが相手だからバンドの結成にも前向きになる。ほわんの主目的はヒメコの才能ではなく純粋な「好きの共有」なのだと、心からそう信じられるようになる。
浜辺でポテトを食べる、という自分だけの秘密を打ち明けながら。ほわんと好きを共有しながら。

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(6話の1週間後に発売された『ましゅましゅ!!がカラオケ歌ってみたCD』のジャケット。6話から一転、ほわんたち3人の前で何の憂いもなく楽しそうに歌える、音楽の才能をふるえるようになったヒメコが本当に眩しい)

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(人格への愛といえば2話A・最終話Aのデルミンもいい。デビルミント鬼龍族内での期待に応えられず出奔したのに、外では一族というだけで特別扱いされて過度な期待を寄せられる。そう4話でこぼしたデルミンだが、アンダーノースザワの住民は一族の才覚とは無関係にデルミンを愛している。デルミン当人は街の人気者である事実を自覚していないが、ここにもほわん→ヒメコ、あるいは5話以降のルフユ→デルミンのような「鬼龍族だからではなくデルミンだから」という種類の好意を発見できる)

・バンドの方向性となりたい自分たち(どこゆびの場合)

本作6話までのお話はほわんたち個々の掘り下げおよび1対1の関係の進展に焦点を当ててきた。
そしてバンドを結成した7話以後は、上記に加えて物語の縦軸に「バンドの方向性・バンドとしてのアイデンティティ」が取り入れられる。

「そもそも、君たちはどうなりたいんだい?」

8話で対バンに完勝したララリン様からましゅましゅへの問いかけ。
ましゅましゅとどこゆびの方向性の問題は7話で提起されるが、現時点でそれを確認できていない両バンドは先輩バンドであるレイジン・シンガンに敗北を喫する。
目指すべき方向性を全員が自認し、バンドとしてまとまること。それが両バンドの今後の課題となる。(いやどこゆびが負けたのはクソカーリングだが……)

DO根性北学園という外部からの手出しもあり、先に一歩踏み出すのはどこゆび。

『君たちの音楽で人々の心を豊かにすること』
「悪くねーんだけどな。けど、あいつら……」

学園卒業の手段としてバンドを組んでいたどこゆびだが、ライブを繰り返すうちにヤス(と他の3人)は他人の心を満たせる音楽という媒体そのものに惹かれていく。
一見やる気がなさそうなどこゆびの3人を見て煩悶するヤス。彼の前に仁刃笛に扮した校長が現れ、ソロデビューの誘いを持ちかける。

「なあ、母ちゃん。おれがテレビ出たりして売れたら嬉しいか?」
「そりゃもちろん。そんな日が来たらねー」

迷ったヤスは母と会話し、母から期待の言葉を引き出す。
ヤスはその期待に応えるために仁刃笛の提案に従い、ヤンキーらしいキャラを捨て、自身のアイデンティティを切り崩していく。

「やりたいことは売れてからやればいい」

……校長のこの台詞に、レイジンの幻影を見てしまうのは単なる感傷だろうか。

なぜバンドを組むのか? なぜ音楽をやるのか?
仁刃笛のプロデュースはヤスの動機を容赦なく解体していく。ヤスは方向性を見失い、その姿を3人に目撃される。
しかし音楽を本気でやるのも、音楽で誰かの心を満たすのも、実はどこゆびのままで大丈夫なのだ。ヤスはアイデンティティを捨てなくていい。そんな新曲『カバンには鉄板です』を、彼らはもう作っている。
素直になった3人との会話でヤスはその現実に気が付く。ヤスに花束を贈ったファンが既に後者を証明しているのがニクい……。

「売れなさい。私がびっくりするくらいにね」

あとは思いっきり売れて、ヤスの母の期待に応えるだけだ。

どこゆびの方向性とは気楽に喧嘩できるメンバー間の仲の良さであり(ほわん曰く「音の仲が良い」)、また9話で再確認した本気で音楽に打ちこむ姿勢である。彼らの言葉で表現するなら「仲間」の一言に尽きるのだろう。
9話はハッチンからの食事の誘いを再三断り続けたヤスが、実家のコロッケを持ってきて自分からどこゆびに踏みこむ形で終わる。どこゆびの4人はコロッケを囲み、さらに少し仲良くなる。
ましゅましゅのポテトとどこゆびのコロッケ。つまりおいしいやつです(?)。

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(アイドルになるのも悪くない、とさらっと描かれているのも実にいい。どこゆびのメンバーはその変化を芸風の振れ幅、なりたい自己像として許容する。ギャグだが、この描写は未来のましゅましゅ、ひいてはレイジンの映し鏡にもなっている。……ホントになってるか?)

・バンドの方向性となりたい自分たち(ましゅましゅの場合)

新曲ができたどこゆびとは逆にヒメコはすっかりスランプ気味。表現したいテーマが定まらず、ゆえに作曲作業も捗らない。ましゅましゅ一同はヒメコの気晴らしのためにほわんの実家があるえいやっと村へ。
言うまでもなくこの行為の裏にはヒメコの才能への期待がある。しかし同時に少しでもヒメコの役に立ちたい想いの表れでもある。行きの電車内でプレッシャーを感じさせるぎこちない笑顔を浮かべつつも、ほわんの家族からの温かい歓待を通してヒメコの態度は軟化する。

「ところで、何か思いついた?」
「んー……温泉湧いてもフレーズは湧いてこないね」

温泉に入っている最中にほわんと交わす何気ない会話だが、ここにはヒメコの6話以降の変化がぎゅっと凝縮されている。
温泉を出てほわんの部屋に移ってからの会話も大変いい。

「あのさー、そういうことならもっと曲のアイデア出しとか手伝ってよ」
「うちたちも一緒にしていいの?」
「当たり前じゃん。あたしたちの曲だよ」
「やるー!」

温泉でのしょうもない冗談も、曲作りの協力要請も、過去の彼女からすれば「期待を裏切るような言動」のはずなのだ。
こんなことを言えるのは相手が他ならぬほわんたちだからである。ほわんたちがヒメコに抱く期待は、ヒメコという存在への愛を大前提とした期待だからである。
仮に期待に応えられずともほわんたちは自分に幻滅なんかしない、自分から離れてなんかいかない、自分への愛は消えない――今のヒメコには、ましゅましゅに対するこのような強固な信頼がある。
消えない愛が前提の期待。この構図はえいやっと村→ほわん、ヤスの母親→ヤスと相似形だったりする。ほわんの育った村の環境がほわんの人格形成に強い説得力を与えている……。

作曲中、自分たちの中から出てくるものが曲になったらいいな、とこぼすほわん。
ほわんの言葉を皮切りに4人はましゅましゅでの思い出を辿っていく。

「そんな思い出が曲になったらいいね」
「思い出かあ……」

そして夜が更けた頃、ほわんとヒメコは星がよく観える丘に散歩に出かける。
ほわんにとって1話で「なんかいいことありそう」な兆しに見えたオーロラは、ヒメコとふたりで観たとき、同じ風景でもかけがえのない「奇跡」になる。
(完全に余談だが、星の意匠は1話から最終話に至るまで形を変えて様々な物・事柄に組みこまれている。Mashumairesh!!のロゴも円陣も、ライブ中のエフェクトもEDも……いや単にヒメコのトレードマークでもあるんだけども。「一緒にやればきらきらできる」のきらきらって✧のことですよね?)

「ほわんに出会って、あたしちょっと変われたかも」
「え? ヒメコちゃんはずっとヒメコちゃんだよ?」

この変化に対する認識の相違もましゅましゅの肝。後述。

「うち、今最高に楽しいって気持ちを、ずっと覚えていたい。ヒメコちゃんも忘れないでね」
「忘れないよ」
「じゃあ約束しよう」

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これが最終話で歌となって結実する、ましゅましゅの方向性である。

・心と力、変わるものと変わらないもの――アイデンティティへの祝福

11話、新曲を完成させたヒメコをましゅましゅは全員で賞賛する。

「やっぱヒメコは天才だねー!」
「はあ!?」
「そうですね。アンダーノースザワの宝です」
「ほわ~」
「言い過ぎだし。それに、あたしだけじゃなくって、みんなで作った曲、でしょ?」

上述した通り今のヒメコにはましゅましゅとの関係への信頼があり、またましゅましゅも今のヒメコなら褒めても大丈夫だと確信している。ヒメコはましゅましゅという場で自身の才能を素直に受け容れ、また十全に発揮できるようになっている。
こうした能力への賛辞はデルミンの家に遊びに来たルフユにもなされる。

「すごいです。ルフユさんマメです。見た目と違って意外です」
「えっと、ありがとう……?」
「そのうち本でも書けそうですね」

ヒメコの天賦の才ともデルミンの出生とも異なる等身大の「すごさ」だが、デルミンに褒められたルフユはこの上ないほどに喜ぶ。
ルフユはましゅましゅの中で唯一の特別になりたい(=すごい力を持ちたい、みんなに褒め称えられたい)少女である。ヒメコやデルミン、ほわんとは異なる願望を持つ彼女の存在が、力に惹かれる気持ち自体は否定しない作風を成立させる。相手の人格を顧みずに力だけ見るのが問題なのである。

6話・10話に続いてこの話数でも再度出る「ヒメコはヒメコ」。
その含意を確認するほわんとヒメコの破壊的に甘いピロートーク会話を経て、翌日ましゅましゅ4人は全員揃って寝坊する。マジか。
冗談みたいな最終話の幕開けだが、ましゅましゅの方向性がプロ意識の弱さと裏表なのだと捉えると納得はいく(言い方が悪いな……)。ほわん曰くプロみたいなヒメコも実際にはプロではなく、ゆえにたまにはこういうポカもする。監督も4人はまだまだ未熟な所があるって言ってるしね……(最終話後のTwitterコメントより)。

間違ってトラックで運ばれたギターを追って街中で迷子になるほわん。チケットを落としてひとり途方に暮れた1話のリフレインである。
違うのは、思い起こす人が故郷の人々からましゅましゅに変わっている点と『ネオンテトラの空』がエールのように響き渡っている点。「そんな奇跡があるんだって(あなたが教えてくれました)」という歌詞にましゅましゅが重なるの好き……。

デルミンのビームを目印にほわんはどうにかフェス会場に辿り着く。
デルミンにとってビームはデビルミント鬼龍族としてのアイデンティティである。この特別な才能もまた、ステージに上るための大事なピースとなる。

ライブ前、ステージ裏で交わされる会話にはましゅましゅの4人それぞれの変化が詰まっている。

「バンドを組んで対バンしてフェスまで出て! 毎日が特別でいっぱい!」
「そういうルフユもすごいけどね」
「えっ」
「うん。ルフユちゃんは面白くて、ドラムが上手で、みんなを引っ張ってくれて」
「強引なことも多いですが、全然普通じゃないです。特別な友達です」

普通がいいと語ったデルミンが、特別な関係に喜びを見出して。
特別に憧れたルフユが、ありふれた、けれどたしかな特別を得る。

「だってミディロックだよ? ここに自分が立つなんて。……しかもバンドで出るんだなって。その、なんていうか、嬉しい。ちょっとヤバイかも。だってあたしひとりじゃ絶対に出られなかった。悔しかったり悩んだりもしたし、自分が嫌にもなったけど。今は、うん。割と好きかも」

「あのさ、あたしたちが出会えたのって奇跡だと思うんだ」

言葉で表現することに奥手なヒメコが雄弁に想いを語り、バンドで出られて嬉しい、この出会いは奇跡だとましゅましゅに伝える。ほわんのように。

「胸がいっぱいでうまく言えない。だから歌で伝える。聴いてね、うち、頑張る!」

今までたくさんの言葉で想いを伝えてきたほわんが、胸に詰まったその感情を全力で歌に籠める。ヒメコのように。

4人で今をめいっぱい楽しむ。方向性が一致したましゅましゅの円陣はぴったりと噛みあう。グーをぶつけあう4人の笑い声で私は毎回泣きそうになってしまう。本当に楽しそうで、嬉しそうで、幸せを煮詰めたようなひととき。

ましゅましゅはフェスのステージに立ち、新曲『プラットホーム』を歌い奏でる。

1話冒頭のほわんの鼻唄が形になったのが『プラットホーム』である。
ひとりで口ずさむだけだったそのメロディを曲として完成させられたのは、4人の尽力、そしてヒメコの音楽の才能のおかげである。
最終話は物語前半の「才能だけではなく人格も見るのが大事」という語り口から一歩進んで「才能も人格もその人を形作る大切なファクター」だと改めて強調する。
心と力のどちらが欠けても、その人はその人足りえない。
自分が自分だったから、みんながみんなだったから。だからましゅましゅはフェスのステージで、このライブを実現できるのだ。

そこにはこの全12話を通して少しずつ変わったましゅましゅの4人も、変わらない4人――歌が好きなほわん、才能豊かなヒメコ、特別に焦がれるルフユ、鬼龍族のデルミン――も含まれている。

さよならはまだ言わない
またこの場所で待ち合わせ 指切りしよう
忘れないでねえ いつか
帰ってくるよ必ずまた 会えるように

曲名の『プラットホーム』とはなんだろう? 帰る場所とはどこを指すのだろう?
私見だが、私は「今のましゅましゅ」そのものを指しているのだと思う。一番最高で楽しい今の4人を、重ねた日々を忘れない。そう誓った今のましゅましゅこそが、常に帰るべき場所であるのだと。
君たちは未来でどうなりたいのか? というレイジンの問いかけに対して、過去の様々なシーンを彷彿とさせる歌詞に曲を乗せて「さよならはまだ言わない」「この場所に帰ってくる」と、すなわち今のバンドの方向性・バンドのアイデンティティを貫くと答える。
信じる道を進むために過去の方向性=しんGOずとさよならしたレイジンへの真っ向からのアンサーである。

また、この曲は決して未来にかけての変化を否定しているわけではない。
今がどんなに愛おしくても彼女たちは列車に乗りこむのだ。1話から今までの日々が休みない変化の連続だったように、どうあれ同じままではいられない未来に向かって進んでいくのだ。流れる時間に背中を押されて、今との離別に涙を堪えて。
しかし彼女たちは今を忘れないと、帰ってくると約束する。だから本当のさよならにはならない。
ヒメコがこれから変わっていっても、変わらずヒメコであるように。
『プラットホーム』で帰るべきアイデンティティを確立したましゅましゅも、これからどんなに変わっていっても変わらずましゅましゅのままだから。
その人がその人であり続ける限り、ヒメコのミクロな視点では変わってもほわんのマクロな視点では変わらない。10話で描かれたこの変化の概念がバンドにも拡張される。
『プラットホーム』は今のましゅましゅと未来のましゅましゅを同時に肯定する。
変わった自分も、変わらない自分も、これから変わっていく自分すらも。

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(BD・DVDのジャケットがカメラのフレームを模しているのも象徴的。否応なく時間は流れていく。止まってほしいと希うほどに愛おしい今もすぐ過去になる。そんなすべての瞬間をこれからもずっと忘れないための記録。その一枚一枚がましゅましゅというバンドを形作っていく。ルフユのノートも11話の写真も最終話ED映像も同じ文脈だろう。記録しようって言い出すの絶対ルフユなんだよな……ルフユ……)

「うちたち、『Mashumairesh!!』でした!」

ひとりでは認められない自身の個性も、4人でなら認めあっていける。
互いの個性の全部を使って楽しい日々を生み出していける。
『Mashumairesh!!』はこれまでも、これからもそういう時間を重ねていく。

物語はフェスが終わった1週間後、『ヒロメネス』のストリートライブで幕を閉じる。
『プラットホーム』が帰る場所の歌なら『ヒロメネス』は行く場所の歌である。フェスが終わっても4人のバンド人生は、変わっていく日々は続く。

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見上げればその道行きには、1話のように幸運を告げる星が光っている。

・総感

大好きな、そしてすごいアニメだった。まさしくルナティックアニメーション。
楽曲と脚本は言わずもがな、作画・演出・キャストも申し分なし。アイデンティティを巡る物語としても、青春音楽百合アニメとしても。その道におけるひとつの極致を垣間見たような心地である。
1話はぼんやりと視聴していた。2話でなんかいいな~と感じた。4話でおっと舌を巻き、5話、6話で百合アニメとして爆発した。
心情描写の丁寧さに気付いたのは話も後半の頃で、反復・対比の巧みさに唸るのは2周目の視聴からである。私がアニメの内容を割とすぐ忘れるタイプのダメ視聴者なのもあり、こうした構造の作品は何度見ても発見が尽きない。
上でちょくちょく立ち寄った小ネタ以外にも語りたい事柄はあまりにも多い(手足や耳、そして尻尾を用いた非常に豊かな感情表現とか)(1話であだ名を拒否してたデルミンが11話でルフユをルナティックさん呼びとか)(2話で仲良くなると共に接近してるほわヒメのギターとか)(4話のアーク溶接の比喩とか)(互いの部屋で互いのベッド使ってるほわヒメとか)(序盤・終盤で同じ台詞に別のニュアンスを籠めてるのとか)(随所に出てくる境界線演出とか)(ミド&バンジー望郷編、本質過ぎるだろ……とか)(方向性を変えたレイジンとて過去を忘れてなんかいない、アイデンティティを失ってはいないとか。バンド名……5話序盤のしんGOず時代からのファン……)(サントラのジャケとか)(削れて音が変わってもデルミンの祖父は祖父のままだとか(?))(4話でカレーの味で揉めたどこゆびが同じ激辛鍋を囲むとか)(バンドヤバイ!とか)(互いが互いのヒーロー性を与えあうから『ヒロメネス』なのだとか)(各楽曲の作詞・作曲・編曲の表記だとか)(ほわひめキャラソンでお互いへの愛を歌うな💢💢💢とか)。だらっとした雑談や生活の描写が作品全体の質感を底上げしていたのも間違いないだろう。ポップなケモ耳キャラでありながら吐息にはたしかな温度がある。上に長ったらしく書き記した骨子となっているテーマ部分以上に、この肉付け部分こそが本作最大の魅力だったのかもしれない。
携わった全スタッフに深い感謝の意があるのは勿論だが、監督・孫承希さんとシリーズ構成・田沢大典さんの名前は特に深く記憶に刻まれた。どちらもその役職に就くのは初めてというのだから驚きである。アドバイザーの小島正幸さんの存在も大きいのかも。

楽しくてきらきらしたアニメだった。慈愛に満ちたアニメでもあった。価値観の異なる多くの人物を多層的に扱いながら、その誰をも否定せずにただ優しく彼ら彼女らの背中を押す。変わっていくものと変われないもの、そのいずれをもそっと抱きしめる。そんなふうにどこまでも温かい、血の通った手触りの作品だった。
これからのましゅましゅ、どこゆび、レイジンの日々がますます幸多きものに……もとい「ヤバく」なるように。今はただそう願ってやまない。

続編のSTARS!!に望むことはどこゆびのヒットとレイジンの掘り下げですかね……。