冰剣の魔術師が統べるもの ~TVアニメの特性から見る『冰剣の魔術師が世界を統べる』の魅力~


この30分のために生きてる。

Webノベル原作のTVアニメ『冰剣ひょうけんの魔術師が世界を統べる』が後半戦を迎える。
10年代ラノベアニメを彷彿とさせるパキっとしたキービジュアル。枠は数々の奇作・名作を輩出してきたTBSモクヨル。今をときめく気鋭の会社・横浜アニメーションラボを制作統括に据え、同社から独立した作画スタジオ・クラウドハーツが制作を手掛ける。放送前から一部のコアなアニメファンをざわつかせていた本作だが、蓋を開けてみればまさに今期を……いや、20年代を統べるアニメーションだった。
果たして本作の何がここまでアニメ視聴者を魅了するのか。あまりの面白さに何度か観るうち、筆者はふとこう考えた。アニメを形作る様々な要素を「毎週放送の30分アニメ」に最適化できているのではないか、と。
アニメ界の伝説『聖剣使いの禁呪詠唱ワールドブレイク』に匹敵する威容を示す本作。この記事では30分アニメが持つ3つのアトリビュート*1――フォーマット・リソース・エピソードに着目し、それぞれの仕組みを把握することで『冰剣の魔術師』の本質に迫る。2023年時点の筆者のアニメ観が前面に出た内容のため、こういうヲタクもいるんだな~と生温かい目で見ていただければ幸いである。特に②のリソース論は結構鼻につく人が多いと思う。皮肉や嘲笑の意図は一切ない。
結論だけ知りたい人は目次から最下部へ。

 

① 頭からラストまで――30分アニメのフォーマットを活かした構成

アバンタイトル、OP、Aパート、Bパート、ED、次回予告。『鉄腕アトム』に端を発する日本のテレビアニメのフォーマットは、作品ごとに多少の差はあっても基本的には共通している。特にOPとEDはないアニメを探すほうが難しい。
本編の尺を縮めて作画枚数をおさえ(コストカットし)、タイアップで収益を確保する。OPとEDはビジネスモデルとしても優れているが、視聴者目線で見た場合もっとも特徴的なのは毎週繰り返される点にある。
繰り返しは受け手の中に「〇〇はこういうものなんだな」という図式を生む。漫才の天丼ネタがわかりやすい例なのだけど詳細は割愛。
思った通りに進む納得感、予想を裏切っていく意外感。『冰剣』のOPおよびEDの入りはこの図式を活用している。


ここで本作のOP曲『Dystopia』冒頭を聴いてみる。
美しくも前のめりに主張するくっきりしたピアノの主旋律。作曲家の俊龍氏の持ち味が大いに発揮されたイントロである。
本作はこの長尺のイントロをアバンタイトルに毎回被せている。要所で被せる作品はたまにあるが毎回というのはそう見ない。
ではわざわざ毎回被せてアバンで何してるのかと言えばトンチキ。だいたいはね。

劇伴とお話のミスマッチで生じる効果はずっと昔『ワルブレ』記事にも書いた。


劇伴とのズレによる笑いの増幅。超絶カッコいいOPのイントロに合わせて、ヒロインの着替えに鉢合わせした主人公が「うさぎ(の柄)が好きなのか…」と淡々とのたまうアニメ。愉快すぎる。歌い出しが終わると同時に画面へと吸いこまれるような映像が流れるのも『冰剣』視聴の時間に引きずりこまれていくかのようでたまらない。
イントロ芸とも呼ぶべき手法は手を変え品を変えて繰り出される。回を重ねるたびに煽られる期待に本作は必ず応える。毎週1回、それも冒頭でドカンと面白さを稼いでいく。『冰剣』はOPの時点で他のアニメ視聴とは一線を画している。
そして図式とは、捻りを加えた時にこそ最大の効果をあらわす。天丼ネタの〆には変化を入れるのがセオリーとなっているように。
本作のアバンは要所要所ではきちんとカッコいい内容になる
ドラマと曲が相乗効果を生み出す正道のクライマックスに、本来ありえないはずの型破りの気持ち良さまで与えられる。イントロどころかOP全体をアバンと一体化した5話は最たる例だろう。『冰剣』は5話まで見てほしいと巷で語られる理由のひとつがここにある。


このイントロ芸はBパート~EDの入りでも採用されている。一部の話数を除いてOPほどの破壊力はないが、代わりに(?)こちらはサビ入りの映像でヒロインズの下着姿のピンナップが流れてくる。トンチキだろうとシリアスだろうとサビで強制的に下着に替わる画面。笑えるというよりも笑顔になる。一枚絵だから本編より気合が入ってるのもね。
さらにED後はアウトロに被せてシームレスに次回予告が流れる。個性豊かなキャラが週替わりであらすじやそれ以外の戯言を喋り倒すパート。キャラへの愛着を深めてくれるし、テキスト自体も秀逸なことが多い。メタネタまで搭載した7話ED~次回予告はその極北だろう。

アバンや次回予告を設けないアニメも世の中にはたくさんある。また、漠然と設けているだけでやる意義が薄いアニメも稀に見る。一方で『冰剣』はいずれのパートもあって嬉しいと感じる地点まで昇華している。一見ふざけてるようで実のところ離れ技をやってのけている。
TVアニメのフォーマットを活かし、図式を生み、ときに破壊する構成。
アバンから次回予告まで、パート単位で毎週の楽しみがあるひととき。
今期アニメでは『神達に拾われた男2』のアイキャッチ芸も秀逸だが、『冰剣』のフォーマット芸は全体的に本編とシームレスにつながっており、アバンから次回予告までをひとつの作品としてパッケージングしたような趣がある。

監督が「頭からラストまで」と呟くのも納得の作りである。

……さて、フォーマットの有効活用については上につらつら書き記した。しかしこれはアトリビュートであって『冰剣の魔術師』の本質ではない。

②情報量を増やす設計図――有限のリソースで見応えを生む

本作が世間で取り沙汰されるのは主に作画の弱さについてである。アニメという媒体を語るうえでおそらくもっとも感覚的な、極論ちらっと見ただけで口出しできる*2要素なのでそうなるのも道理。しかしこの風潮に対して筆者は長年忸怩たる思いを抱えている。
たしかに『冰剣』の見た目は他の話題作と比べてリッチとは言いがたい。線の本数もそこそこな画作り、アニメらしいシンプルで平坦な塗り。顔のパーツの特徴を抑えた作画揺れに強いキャラデザインは、原作挿絵ともコミカライズ版とも方向性が異なっている。
だが、そもそも毎週放送のTVアニメの画面なんてどだいチープなもんである
今ほどアニメが大量生産されていなかった頃から変わらない。セル画からデジタル、フル3DCGと技術が進化していっても、アニメの画面が平均的にリッチだった時代は存在しない。社会的な話題作や劇場アニメは上澄み中の上澄みだ。
もちろん、しょっぱいのがデフォなんだから妥協していいという話ではない。予算も人員もスケジュールも足りない中でクリエイターはセンスを問われる。その中から唸るようなコンテワークや省力のテクニックが雨後の筍のごとく現れる。そうした工夫の日進月歩に驚嘆し、ときに爆笑するのも、毎クールTVアニメを視聴する醍醐味だと筆者は思う。行儀は悪いけどね。
昨年で言えば『処刑少女』第8話や『転生賢者』第7話。今期アニメで言えば『人間不信』のアニメ作りが傑出しているので、この記事を読んでいて未視聴の方がいたらぜひ観てほしい。面白いよ。

閑話休題
では『冰剣』はどのように映像面の魅力を確保しているのか。
そのポイントは情報量にある。ドラマパートでは感情の起伏、バトルシーンでは構図の多様さ。そして他の追随を許さないコメディの数とネジの外れっぷり。メリハリの効いた要素のリレーがリソース以上の見応えを生んでいる。
コメディシーンは③の論にも密接に関わってくるため、ここではまず前ふたつを解説していく。


怒る時は怒り、泣く時は泣く。安易に記号的な演出を用いずに正面から感情を描く。現代アニメシーンでは意外と希少な姿勢かも。いや、顔芸ではなく。
個人的な嗜好もあるが、こうしたドラマチックなシーンで大事なのは画自体の力だ。喜怒哀楽がしっかり伝わる映像になっているかが重要で、各種処理や演出はそれを達成するための手段に過ぎない。元絵のパワー=情報が充分にあれば優美さはなくてもいい。無論あってもいいのだけど。作風との相性や他のシーンとの兼ね合いも大事だし。
また、音付きの映像という意味ではキャストの熱演も大きな役割を果たしている。主人公・レイ=ホワイト役をつとめる榎木淳弥氏の落ち着いた演技*3が屋台骨となっているおかげか、他のキャラの情熱的な演技が上滑りすることもない。
表現すべき感情は過不足なく表現できており、きちんと胸を打つ。
こういう作風は安っぽいというより、飾りがないというべきだろう。


同様のことはバトルシーンにも言える。引きとアップで省略し、止め画とスライドで適度に間を保たせる。ここぞという時にぐりっと動かし、キメの画で強烈な印象をつける。TVアニメらしい簡略化がなされた緩急のある映像。視線誘導を意識したコンテと構図の決まった複数のカットが、間の動きを補っている。設計図の情報による区間の情報のカバー、ある意味漫画的かも。
割り切ったクレバーさと遊び心を兼ね揃えた本作の映像は、監督の他にシリーズ構成・音響監督・一部話数の脚本に絵コンテと幅広く――幅広くってレベルじゃねえ!――手掛けるたかたまさひろ氏と、氏を筆頭とする制作スタッフのセンスによる産物だろう。アバン周りの尺調整といい、抜けているようできっちりコントロールされている。インパクトのあるキャプやけったいなgifもある程度は狙って出しているはず。突然高fpsでぬるぬる動き出す教師なんかは計算でやっているとしたら未来的すぎると思うが……。

③で後述するネタの波状攻撃もあり、単位時間あたりの情報量で『冰剣』の映像に物足りなさを感じることはあまりない。場が動かないときでさえおかしな会話で絶妙に間を埋めてるし、ドラマが希薄な雑魚戦ではクラリスを担いで大騒ぎさせる。
アニメとは映像であり、情報を乗せて流れる時間そのものだ。
そして面白さとは情報を受け取る際に生じる快楽の量である。
この快楽を美麗な画や躍動感あるアニメーションで稼ぐ作品もある。しかし何も美しさで圧倒するだけがTVアニメの戦い方ではないだろう。

……とはいえ、リソースをセンスで補うスタイルは目標というより副産物に近い。これもまたアトリビュートであって『冰剣の魔術師』の本質ではない。

③トンチキコメディと骨太ドラマ――単話と総体への満足感

30分枠のTVアニメの尺は30分である。トートロジーかな?
嚙み砕くと、TVアニメは一般的に1~4クールを通してひとつの物語を描く。にも関わらずこの放送形態は30分で強制的に区切りをつける。そして次回を観るまでにぴったり1週間の間隔が空く。こら、延期すな。
漫画・小説の連載や連続テレビ作品全般に言えるが、強い作品はこの区切りごと、つまり1話単位で受け手を満足させている。逆に言えば1話単位で満足させられないなら連続形式である意味がない。「一気に見ないと面白くない」のは形式に話を最適化できていないからだ*4。各回持ち回りで特定のキャラにスポットを当てる構成――いわゆるお当番回形式が優れているのも、単話が短編として綺麗にまとまるからである。
翻って、たとえばTV放送用に再編集された劇場アニメなどを覗いてみると、単話の区切りをどのようにつけるか、どう満足させるか苦心するクリエイターの奮闘が垣間見えたりする。銀幕用に作られた既製品に手を入れるのだからゼロベースより大変だろう。『ベルセルク黄金時代篇 MEMORIAL EDITION』くんは頑張ってたよ。

『冰剣』は話の途中で次回にまたぐこともあるストーリーものである。単話の満足感を得るうえでベターなお当番回形式は採用していない。
では本作はこの満足感を何によって獲得しているのか。単純な構成(序破急)の巧さや視聴者の感情曲線のコントロールなど要因は多々挙げられるだろうが、もっとも大きいのはやはりギャグだろう。いやマジメに。


TVアニメである以上、エピソードの面白さは30分に収める必要がある。しかしシーンの面白さは数秒、長くても数分刻みであるため調整の必要がほぼない。話の合間にばらまいた分だけ即座に面白さが返ってくる。
そして手数において『冰剣』の右に出るアニメはそうそうない。退屈を誘う説明パートもちょっとした日常のワンシーンも、隙あらばすべてを笑いに転じる異常なウィットと飛躍力がある。なんかツインテがうにょうにょ自律可動してるだけで面白いし。例を挙げるとキリがない。
そんな本作が尺を取って本気でコメディパートをやり始めた時の勢いはすごい。シーン、カット、センテンス単位で押し寄せるキレ味抜群のトンチキラッシュ。肩肘張らない視聴感で作画への要求水準が下がるのもミソかも。
余談だが、シーン単位の魅力という意味では萌え・エロでも同じことが言える。萌えはあればあるだけ嬉しいしアニメはエロいに越したことはない。
……エモい会話やキマった画とかでもいい。

「つまりこのアニメのストーリーは飾りで、内実はギャグ一辺倒なの?」
そのスタイルもアリだと思うけど『冰剣』についてはそんなことはない。本作のギャグとストーリーは表裏一体の関係を成している。
『冰剣』は心に傷を負い戦場を去った主人公・レイが師の勧めで魔術学園に入学するところから物語が始まる。ジャンル的には学園異能ものであると同時に帰還兵・傷痍軍人ものでもあり、設定相応の重い話もある。すっとぼけたレイのキャラクターも彼のバックボーンに由来している。
しかし視聴者はご存じの通り、本作は学園コメディを基調として進む。1話からコテコテの筋肉ネタが飛んできて眩暈を覚えた人も多いだろう。
だが筋肉は努力の証であり、学園内外にはびこる血統主義へのアンチテーゼだ。筋肉ネタという古臭いギャグもその実テーマに組みこまれている。
話は筋肉だけに留まらない。本作が掲げる「才能・努力・環境」という3つの軸は様々な形でギャグシーンに織りこまれ、ストーリーに広がりを与えている。


6話で描かれるエインズワース式ブートキャンプはその好例だろう。幼なじみへの劣等感にとらわれるアメリアに突如課せられる狂ったノリの訓練。仮面を被ったレ……マスター・ホワイトといい思いっきりギャグの空気感なのだけど(画ヅラも台詞も相当キてる)、ここでアメリアと並行して5話で憑き物が落ちたアルバートが描かれる。
アメリアと同様に強さを求める彼に対し、レイはただ言葉をかけるだけ。ブートキャンプに誘ったりしない。さっきまで付けていた仮面も外している。
「君は気付かないうちに強くなっている」。レイはなぜそう言いきれるのか。それは、アルバートには既に才能と努力、そして環境――自分だけの大切な友人たち――の3つが備わっているからだ。
ここまで対比的に両者を描くことで、ギャグそのものだったブートキャンプとはレイがアメリアの環境=友人であろうとした結果の出力なのだと理解できる。
考えなしにバカをやっているわけではない。テーマに沿った理知的な脚本である。


それはそれとしてアメリアの淫夢とかは意味不明である。狂う。すべてを理屈付けするわけではない、堅苦しさを感じさせない作劇が素晴らしい。

ちなみに直近の8話ではこのような形でネタをシナリオに組みこんでいた。
貴族なのに虫好きなんて変と思いこんでいた過去のクラリスは、貴族として期待される自分を演じ続けたアメリアの似姿だ。レイとの出会いがありのままのクラリスを肯定した結果がこの寝巻きである。全体を通して浮いていた彼女が、ネタを媒介にアメリアとの対比に接続されている。タブンネ

畳みかけるようなトンチキで単話エピソードの満足感を保証しつつ、芯の通った長尺の総体ストーリーを連携して進め、クライマックスに至る。
言葉にしてみればオーソドックスで強度の高い構成である。連続形式の作品としては間違いなく理想形といえる。

……もっとも、こうした構成自体はいたって普遍的な代物だ。王道ならではの強さもアトリビュートであって『冰剣の魔術師』の本質ではない。

④アニメ『冰剣の魔術師』の本質とは?

本題に移ろう。
TVアニメ『冰剣の魔術師が世界を統べる』の本質とは何か?

それは…………





























わかりませんでした!





























いかがでしたか?






























や、いち視聴者の分際で本質とか言い切るのも気が引けるし……(突然の弱腰)。

でもまあ、そのうえで私見を述べるなら発想力エンタメ精神はデカいと思う。

この記事はTVアニメという「枠組み」から『冰剣』を分析した駄文だが、「ジャンル」という視点から本作を紐解いてもたぶん似たような結論になる。
説明シーンの妙。モブの名前遊び。水着回の超圧縮。シーン切り替え後も残るネタの跡。深夜アニメの、ある種ろくでもない文化に根差したアイデアは多く、それでいて何十本も観るようなヲタクが嬉しくなるポイントは的確に掬いあげる。
『冰剣』のお約束の運用と取捨選択は卓抜している。肉食った感ならぬアニメ観た感、視聴後の満足度が大きいのも、深夜/ラノベアニメというジャンルが築き上げた文法を踏まえていることに起因するのだろう。洗練と革新。

ともあれ『冰剣』の30分は徹底してエンタメを志向している。あの手この手で視聴者に楽しさ面白さを提供するスタンス。枚数をほとんど費やしていないシーンでさえその点は変わらない。
そも、フォーマット芸などはリソース面ではやらないほうが無難なわけで。そこに労力を割き、価値を創出できるだけの斬新な発想力こそが、映像・物語の魅力をも支える本作の柱なのだろう。と思うわけです。
視聴者が『冰剣』を観て覚える歓喜、驚愕、感動、そして笑顔。本質と呼べるものはおそらくその感情の理由を辿った先にある。

かくも窮屈なTVアニメというレギュレーションの中にあって、どこまでも面白おかしく、奔放自在に画面を駆けるエンターテインメント。
さながら無駄のないレシピによって作られた最高の大衆料理。
全話納品済みらしく、放送延期になるような心配もない。残り4話、リアルタイムでこの最新の伝説を見届けていきたい。

『冰剣の魔術師』が統べるもの。それは現代のTVアニメという先鋭化と氾濫が極まった娯楽およびこれを享受する人々――「時代」そのものなのかもしれない。

*1:ここでは特性、象徴の意とする。

*2:語れるとは言っていない。

*3:「冰剣の魔術師が世界を統べる」榎木淳弥インタビュー - アキバ総研

*4:単話の面白さを確保したうえで「一気に見るとより面白い」なら全然OK。