話数単位で選ぶ、2023年TVアニメ10選

今年観たアニメの中で特に心に残った回を振り返った。
選出は毎年していたけど企画に参加するのは7年ぶり。集計は例年通りaninadoさんが行ってくださるようです。ありがとうございます。

■「話数単位で選ぶ、2023年TVアニメ10選」ルール
・2023年1月1日~12月31日までに放送されたTVアニメ(再放送を除く)から選定。
・1作品につき上限1話。
・順位は付けない。

どこをどう読んでどう感じたかを記録するための覚書なのであらすじの書き起こしが無駄に多い。いつものことだししょうがないね。
それではさっそくやっていきましょう。好きなものを好きなだけ好きと言おう!


オタク


①お兄ちゃんはおしまい! 第3話「まひろと未知との遭遇

ある日突然、男の子から女の子に!? “女の子の生活”は苦難の連続…!?

無職転生』で鳴らしたスタジオバインドが送るTSコメディ。監督は『ぱすてるメモリーズ』のED映像で世界を沸かせた藤井慎吾氏。原作のさらっとした絵柄から色々な意味で盛ったキャラデザについては賛否が分かれていたけどおれはとってもイイと思ったよ。動画・色彩・美術・撮影が噛み合ったハイクオリティーなアニメとなっていた。アニメはエロいに越したことはない。
本作の主題はTSの他に、兄と妹のロールの反転がある。一服盛られてみはりより年下の少女(妹)に変身したまひろと、女性として先輩(姉)のみはりがきょうだいの関係を再構築する。
はじめてだらけの女子の生活に日々困惑しきりのまひろだけど、兄のロールから解放されて生きるのが楽になったようでもある。では代わりに姉になったみはりは? みはりだって未熟な少女だけど?
今話は子どものきょうだいの、年長者側の負担に焦点を当てる。
この回ではみはりの中学時代からの友人・かえでが登場する。家庭的で面倒見がよく、遊び慣れたギャルでもあるかえで。料理にメイクに外出にとまひろの面倒を見てきたみはりだが、こと姉役としてはかえでのほうが数段上手のように映る。

グルメアニメ顔負けの調理動画もキャラ表現に一役買っている。

まひろはみはりに対して「かえでを見習うように~」とふざけて言う。Bパートのお姉ちゃんご飯まだ~発言といい、妹が板についてきた……というより、妹の立場に甘えているのが端々から見て取れる。
その後、みはりは映画館で薄着だったせいか風邪をひいてしまう。妹を連れ出して遊ぶという慣れない姉ムーブで風邪をひいたと言ってもいい。みはりはさほど遊び慣れていない。水着を着るのも数年ぶりだし。かえでは映画館でちゃんと上着を羽織ったりと描写が細かい。
後述のクッキーといい、みはりの姉ムーブは友人のかえでをお手本にした模倣・背伸びだったのかも。

まひろ「何がお姉ちゃんだ。みはりはお前の妹だろう!」

かつてまひろを潰した兄のロールが今度はまひろを奮起させる。ロールは時に重荷となるが、時には背中を押す力にもなる。7年前『アンジュ・ヴィエルジュ』を観てからこういうドラマに弱くなってしまった……。
まひろ謹製のお粥を前に号泣するみはりにもグッときた。姉としてまひろの成長が嬉しく、妹としてまひろの思いやりが嬉しい。入り混じった複雑な感情を表現するきゃりさんの演技が光る。
みはりは病み上がりにかえでから教わった――かえでが実妹に作ってあげていた――レシピでクッキーを焼く。妹役からまた姉役へ。けどそこには何の憂いもない。
みはりにとっても年長者役をこなすのは背伸びなのかもしれない。しかし当のみはりは、決してその役目を嫌がってはいないのだ。
まひろと仲良しに戻れた今が、世話を焼くこのひとときが愛しいから。

みはり「きょうだいの立場は逆だけど、できるならもうしばらく、このまま」

兄妹という関係の形が姉妹に変わった今となっても、なお変わらないもの、取り戻したものを髪留めのカットに籠めて〆。
みはりが髪を整える冒頭に回帰していて収まりが良い。化粧するようになった今も、中心にはまひろにもらった髪留めがある。女体化/高校デビューで姿が一変したまひろ/かえでとの対比。あるいはふたりとみはりの間の変わらない関係性の強調。
別個の原作エピソードを合わせてひとつのテーマの話とする。『ごちうさBLOOM』を彷彿とさせる再配置には舌を巻いた。当初の目的であったまひろの社会復帰云々よりも、現状の居心地の良さを重視した改変も一貫性がある(原作の〆は「社会復帰はまだ先かなあ……」と前者を強調する)。いささかウェットな雰囲気なのは好みが分かれるか。このへんもBLOOMっぽい。

TSという題材の醍醐味と言える身体と心の変化をリッチな画と繊細な脚本が受け止め、活写した名作だった。学校に通い始めてまひろの世界が広がっていった後も、みはりとの時間を蔑ろにせず都度フォーカスする構成も偉い。
変わったまひろと学内で広がっていく交友関係を描いてから、家でかえでたちと3人で遊んで終わる11話も好き。JKのかえで、飛び級したみはり、中身がお兄のまひろという、境遇も性格も異なる少女たちのメイク遊びを通して、立場に依らない純粋な「着飾る楽しさ」を抽出できていた。


②老後に備えて異世界で8万枚の金貨を貯めます 第3話「ミツハ、演じる!」

どうにかこうにかやりくりしなくちゃいけない日々に 乾杯を……

『のうきん』に始まり『ポーション』に至るFUNAニメ―ション*1三部作の第二走者。妙に思想の強い作風と口が達者な女主人公、そして彼女らを取り巻く人々の温かみが魅力の三作だが、本作は楽しさとエグみのバランスがちょうどいい塩梅に仕上がっていた。9話までは……。
そんなファンキーで愉快な本作、今話は主人公のミツハ殿が貴族の乗っている馬車を爆竹で足止めするところから始まる。ガチの危険行為やめーや。つーかお前の家族も事故で亡くなっただろ忘れたんか!!
自分たちの馬車がミツハ殿を轢いてしまったと思い謝る伯爵一家。一方でミツハ殿は彼らを善良そうな人たちだと見極め、取り入るために口から出任せをペラペラペラペラペラペラとのたまう。成功するたびにいちいち任天堂っぽいSEが鳴って楽しい。徳は低い。
次回以降ミツハ殿は王都に出て雑貨屋を営むのだけれど、そうなる前の序盤の彼女にはある種の危うさ・捨て鉢さがある。

ミツハ「今からこの国で平民として暮らす健気な少女・ミツハを演じる! いや、なりきる!」

伯爵家と食卓を囲んだ後、素性について訊かれるミツハ殿。相も変わらず後継者問題だの母の形見だのと嘘を並べ、一家から援助を受けるためにお涙ちょうだいの一幕を演じる。伯爵夫人は亡くなった母に似ていると言ったのも演技だ。この時点では。
ミツハ殿への追及がひと段落し、話はただの茶飲み話に。一家の人々も貴族らしからぬひょうきんな一面を見せ始め、ミツハ殿からもだんだん態度の固さや演技っぽさが取れていく。ごく自然にゆるい雰囲気に移行しているのが地味ながらも巧み。

ミツハ「やだ~お父さんもお母さんも~。……あ」

この台詞には本当にやられた。緩急の効いた不意打ちだった。
そもそも彼女は家族を失い、受験に落ち、崖から落ちた少女だ。事あるごとに兄の言葉を思い出す寂しい女の子でもある。1話から続く無法なムーブで忘れかけていたミツハ殿の傷口が、嘘八百の中の真実として改めて強調される。

ただのコメディだった兄貴パートがこの局面で大きな意味を持つ。

伯爵家との交流で生まれた楽しい時間も涙も本物で。そういう意味ではただ騙して取り入った形とも言いきれない。後の話では伯爵がミツハ殿の嘘を察するシーンもある。彼女は大人の優しさの下で楽しく生きる子どものように映る。金貨8万枚というどこか漠然とした目標設定も、子どもならではの視野の狭さの表れじゃないかなとおれは思う。本当に欲しいもの――人とのつながりを既に得ていることに気付くのはあと少し先のお話だ。これから出会う人々が順繰りに流れるOP映像が好きすぎる。
したたかなくせに計算が甘く足元をすくわれそうになったり、底なしの邪悪かと思えば少女らしいか弱い一面を見せたり。ロクでもなさとかわいげが入り混じった憎みきれないキャラ造形。奔放でツッコミどころ満載のおちゃらけたストーリーもさながら、それを牽引するミツハ殿のタレント性が本作最大の魅力だった。

……いや、冗談抜きにこれは円盤買おうかな~と思ってたんですよ。9話で〆ていたら『冰剣』『江戸前エルフ』に比肩するトップアニメだった。10話で姫巫女が出陣してから全部おかしくなっちゃったんだ。なまじ一貫性のある話だから目を背けるわけにもいかんし。
みんなで飯食って騒いで生きることが何より大事だと理解できたから、その危機とあらば身を挺するし財も手放すし、殺しにも……うん、頭ではわかるよ? わかるけどね?
まあ『ポーション』以後に見返すとかわいいもんです。ベルはやりますよ。


③冰剣の魔術師が世界を統べる 第7話「世界最強の魔術師である少女は、魔術学院に潜入する」

違うよ、最強は冰剣だ。

今年を統べた監督・たかたまさひろ氏が手がけた学園異能バトルアニメ。ラノベアニメというジャンルが生み落とした最新の伝説からは、アニメならではの遊び心ある仕掛けが光った7話を選出。
お約束を踏襲しつつひねるアイデア性が持ち味の本作、今回は女体化した主人公・リリィーとアリアーヌの出会いから始まる。釘宮理恵さんのボイスも相まって尊く麗しいリリィー。数秒後に見た目そのままに声だけ榎木くんに戻るのはズルだろ。
そんなトリッキーな導入や自称妹の登場はさて置き、今話の軸に据えられているのは仲間の存在の大きさである。貴族の在り方と劣等感に囚われているアメリアを引き合いに、ひと足先にその地点を通過したアルバートの成長が描かれる。

レイ「君が求めている答えは自分で見つけるしかない」(5話)

リディア「もし君が変わりたいと願うのならば友人を頼れ。あいつを頼ってやってくれ」(今話)

リディアがアメリアにかけた言葉は、レイからアルバートへの言葉の続きだ。
6話でブートキャンプへの参加を促されなかったアルバート。彼が特訓を課されなかったのは、彼には彼の友人が――自分を強くしてくれる仲間がいるからで。

一見取り巻きのような子たちもアルバートの大切な友人で。
捨てキャラを出さない作風が物語の魅力にもつながっている。

アメリアとアリアーヌの応援団をコメディっぽく描いてから、その流れで手に汗握って応援するアルバートの友人たちを写し取る。メリハリの効いた戦闘シーンやサンシャイン池崎もいいけどこの客席の描写こそが試合を通して抜群に良かった。こういう地味なシーンがあることがアニメでは一番大事なんです。
敗北したアルバートが見上げる何のしがらみもない青い空は、次の回でアメリアが勝利した先で辿り着く青空でもある。心のままに最後まで食い下がったアルバートの健闘に涙……したもつかの間、キャロルがステージに上がってEDを歌い始める。
衝撃と興奮が冷めやらぬうちに映像は水着のシーンへ。尺の都合でカットされたと思われた水着回がED中に始まる。ウソだろ?

放送時の監督のツイート。リアルタイムで情報戦を繰り広げるんじゃないよ。
普段からサビで下着が流れているから水着も不自然ではない。悪魔的な発想である。アホなポロリもあるし非の打ちどころなし!
水着回って要はヒロインの水着のお披露目が目的なわけで、尺の圧縮も兼ねてEDに挿入しちゃうのはクレバーな一手なんよね。思いついても実践する人はそういないと思うけど、やってしまうのが天才アニメーション。
シームレス次回予告のラウドでヘイラーなドライブ感も堪らなかった。深夜2時前の数分間に泣いたり笑ったり叫んだりしたおかげで神経系がバグって半醒半睡で冰剣の夢見た。

作品全体の構造と魅力は放送中↑に書いた通り。


④お隣の天使様にいつの間にか駄目人間にされていた件 第7話「天使様との約束」

俺と天使様の、奇妙なお隣付き合いが始まった。
アマネクンアマネクンアマネクンアマネクン
はあ…真昼に駄目人間にされてる。
アマネクンの…ばかっ。

同棲もの大好き制作会社・project No.9が放つ限界ラブコメディ。中盤以降はひたすらアァオ!!!!!アァオ!!!!!叫びながら視聴していたね。名実ともに納得のこのラノ5冠受賞&2期決定だ。調子こいたNo.9くんはこの冬無事に滅びたわけですが。
ここ10年観た中でもっとも糖度の高いラブコメアニメからは、CM回収のカタルシスが気持ち良すぎた7話を選出。
今話のテーマはありのままの姿の肯定とそういられる場の存在。親と揉めて周の住むマンションに家出してきた赤澤は好例だろう。家庭以外の居場所があるAパートでの彼の姿を前振りに、今の真昼の在りようと居場所についてBパートで踏みこんでいく。
いくら努力しても両親に顧みられなかった家庭環境と、“天使様”という外面にしか興味を持たれない学校生活。少なくとも後者は自分で仕向けた結果だとも真昼は語る。
誰かに自分を見てほしい。けど、こんな自分を見てほしくはない。
孤独感と卑屈さの板挟みで苦しんでいる真昼に対し、周はどこまでも丁寧で優しい。台詞や声色はもちろん、所作ひとつにも気が配られているのがわかる。ここは自分から行く、ここは待つといった状況判断が的確すぎる。ウブなくせに変なところで気遣いが巧いんだよなこの萌えボーイ……。
周から向けられた“天使様”ではない素の自分への肯定を受け取り、真昼は周の胸にもたれかかる。
本心を吐露して甘えられる、強がらずに涙を流せる場所を発見する。

真昼「全身でつかまえておいてください」

ンンッ・・・。天使様の顔だけは絶対に崩れないんだよねこのアニメ。

で、少し経ったら真昼が恥ずかしがっているのがこれまたイイんですよ。親しい人に心を許して無防備になれた証でもあるので。ぬいぐるみを抱いて寝てるのがバレたAパートの反復でもある。
ラストは桜並木の道を手をつないで歩くふたりの会話で〆。家か学校にいることがほとんどな本作では珍しいシチュ。人の目に触れる場所ではあるけど人間関係のしがらみはない、家以上学校未満の空間で真昼は周を背後から抱きしめる。こんなの、好きにならないほうがおかしいだろ・・・。
ここぞとばかりに特殊ED『愛唄』が流れてきたのにも痺れた。次の回ですぐ『小さな恋のうた』に戻ったのは残念だったけど、最終話でも結ばれていないことを思うと納得感はある。今話は序盤の山場にして、ゴールまでの中間地点なのだろう。
しかしCMで散々聞かされた「全身で~」と「こんなの~」がここまで高火力とは思わなんだ。それも同時に出すとは恐れ入った。もう全身でつかまえておいてくださいってなんだよwとか笑えないからね。

思えば今年は何かとCMの力を実感する1年だった。お付き合いのネタバレに始まり結婚報告&ラブコメ坊主*2に至る『おとなりに銀河』、早く風邪のせいにしろ!と言い続けた末に最終話ラストシーンで叶う『彼女が公爵邸に行った理由』。雨続きだったバンドリ!天気予報が10話でやっと晴れた『MyGO!!!!!』もアツかった。
CMも視聴体験の一部なのだ。早くイニャミニャミラーシカ*3でぶちアガりたいね。


異世界召喚は二度目です 第3話「イカを揚げるのは二度目です」

その剣、その魔力、そしてイカリング

『ろうきん』に続きANiMAZiNG!!!枠から2本目の選出となる。平均打点はかなり高いけど何かしら尖った個性があって万人受けしづらいアニメが集う枠と化しているANiMAZiNG!!!。本作も例に漏れず終盤の展開は好き嫌いが分かれる。おれは最後まで大好きだったよ。
3話は主人公であるセツの昔の仲間・リヴァイアがメインの回。ゴジラの声で鳴く海神との再会を祝い、セツはイカを揚げる。開始3分でサブタイ回収してこれから何するの? とヘラヘラしてたらこの後もずっとイカリングで話回してて参っちゃったね。
クラーケンを討伐したセツたちは地元の漁村で歓迎される……けど、もてなされるのは主にリヴァイア。セツは屋台でイカリング揚げてる。
人間と味覚の異なるリヴァイアはほぼ常に生食を好む。さっき食べたイカリングはもちろん、供された寿司もいまいちな様子(当たり前のように和食を出す異世界ファンタジー、素晴らしい……)。
宴の後に生魚を食べてご満悦なリヴァイアがかわいい。

視線や顔・手の動きといった細かいしぐさに血が通っていて。
所謂リッチな画とは違うけどセンスの良い映像になっている。

セツとの約束を守ろうとする魔王に自身を重ねたリヴァイアは、魔王が政略結婚に巻きこまれるのを阻止するべくセツと城に向かう。
ここ、時系列的には
①出陣前の状況確認(魔王を取り巻く問題をメンバーで共有)
②出陣前の作戦会議(城までセツの魔力を温存したい)
③出陣(リヴァイアがセツの前に出る)
④戦闘(リヴァイアのバトルシーン)
となるはずのシーンを、①→③→②→④に順序を入れ替え、出陣を前倒ししていたのが良かった。説明の間延びを防いでテンポを上げ、劇伴もすっと切り替える。直後のひと息ついての会話も襲い来る魔物を倒して打ち切る。
爽快な視聴感を生む工夫が短い尺の中に詰まっている。

リヴァイア「あんたのイカフライ、生より美味しいわよ!」

セツと過ごしてから初めてこの海の、世界の美しさに気付いた。
セツとの約束を守るためではなく、今は自分の意志で世界を守りたい。
リヴァイアの変化の象徴としてイカリングを持ち出す脚本、天才すぎる。実際のところ、イカリングが彼女の口に合ったとは考えづらい。それでも彼女は美味しいと伝えたのだ。セツがくれた食べ物を。陸に上がらなければ知る由もなかった、平和な世界が生んだ味を。
林道を駆ける勢いのある映像に合わせて語るのも◎。しかししっとりしたシーンでもいちいちゴジラの声を挟むのはやめてほしい。

冗談みたいなサブタイの回が最高だったときの敗北感なんだよな。
馬車というロケーションを活かした6話もユニークで魅力的だった。一方で、他の話数はこれらに比べてややフックに欠けていた。異世界召喚という題材に対して良くも悪くも真剣すぎた。
人を道具のように扱う(異世界人を召喚し手駒とする・非人道的な人体実験を繰り返す)シビアな異世界情勢をベースに、敵陣営にも一分の大義を持たせる手つきは好ましかった。改造人間の悲哀も沁みたしメルアとアリゼの悲劇はずーんときた。おネエと獣人はたぶんマイノリティーの生き方の話をしていた。誇りを持って生きること、大事に想える人がいることの喜び。


⑥転生貴族の異世界冒険録〜自重を知らない神々の使徒〜 第9話「修行」

僕、自分のことをついついやりすぎちゃう転生貴族だと思っていたけど、僕のやりすぎなんてまだまだだったのかもしれません……。

Q.今年一番ヤバすぎるスピードで走り続けてたアニメは?
A.

1話の時点で格の違いを見せつけていた転生ものコメディ。監督は2022夏クールの奇跡『シュート!Goal to the Future』の中村憲由氏。過剰演出と天丼ギャグと異常なまでのハイテンポを武器に1クールノンストップで暴れる春の嵐のようなアニメだった。テンプレアバンからの貴族走りOP、脳のギアが上がるぜ。内田彩さんがOPを歌うアニメは名作らしいね。
そんな“根性”キマってる本作からは修行回の9話を選出。みんなを守るために戦う主人公・カインもまた守られていることを描く。
カインの前世を知る創造神・ユウヤに邪神を倒す使命を押しつけられ、カインはレベリングのため孤島(精神と時の部屋機能付き!)にひとり置き去りにされる。アニメが始まって以来初の苦戦を実に数ヶ月も強いられ、憔悴した彼は道に倒れている仔フェンリルを手にかけようとし、止まる。

カイン「僕には、守るべきものがある!」

誰かを守りたいという想いをカインは転生前から持っている。前世で彼は見知らぬ他人を庇って亡くなり、転生したのだ。後にユウヤから告げられる両親の死の真実、そして自身のルーツを通して、押しつけられた使命は能動的な意志に変化する。
一方、カインの帰りを信じて待つことを決めたテレスとシルクは、彼の好物であるクッキーの作り方をシルヴィアから教わる。カインがみんなのために修行するように、ふたりも彼のために修行する。シンプルな二文字サブタイ「修行」がダブルミーニングでハマっている。

ドラン「しかし、俺たちよりも強くなる気がするんだ」
ユウヤ「そりゃ当たり前だ。あいつは俺たちより守ってるものがデカいからな。そして、みんなに守られているからな」

カインは邪神を倒す力をつけ、テレスたちを守ろうとしている。
テレスたちはカインが帰ってきたとき温かく迎えられるように、自分なりにできることを探して、彼の心を守ろうとしている。
規模も手段も違うけどやっていることは実質的におんなじだ。両者は互いが守られ、心安らげる居場所――「家」であろうとしている。

ユウヤの家で飲んだ転生前の世界の飲み物であるコーヒー。ドランの家でご馳走になった久方ぶりのきちんとした料理。そして自分の家でテレスたちが焼いた不揃いな手作りクッキー。今話では食を通じてカインの心情を浮かびあがらせている。

修行を終えて屋敷に帰還したカインはクッキーを泣きながら食べる。今この世界で、近しい人が自分を想って作ったクッキーだ。ダバダバでモグモグなのもしゃーない。「おかえり」「ただいま」もじんとくる。家だからこその挨拶。
からのCパートでいつもの正座丸ワイプオチ、神。カインの主観で5年が過ぎても元の関係でいられる証左のよう。ひとりだけ世代が上がっちゃうのはやっぱり少しだけ寂しいからさ。

デフォルトで倍速じみている壮絶なスピード感を誇る1話、テレスとシルクが萌え萌えでダブル婚約な3話も捨てがたかった。本作の持ち味が十全に発揮されたのは左記の話数だろう。けど、この9話で本筋もビシっと引き締まったと感じられたので。力不足に前世に両親の死、と物語に奥行きが出た。この直後に漣蒼士もクッキー食ってオワったのも思い出深い。
邪神アーロンを勢いで倒しきれた最終話は拍子抜けだけど、その分Bパートでヤバすぎる平常運転ができたのでヨシ!


江戸前エルフ 第12話「これが私のご祭神」

東京都中央区、月島。江戸時代より400年以上の歴史を刻む高耳神社。祀られたるその御神体は、異世界から召喚され、すっかりひきこもったエルフでした。

東京は月島を舞台にした日常系ゆったり下町コメディ。あれこれ盛られた多様な要素が無駄なく端正にまとまっており、今年のアニメの中でもトップクラスの完成度を誇っていた。終わりが26時を越えるキンヨルの先のご褒美でもあった。バディゴルマジデス江戸前エルフのアニメリレー、最高だったよな?
さて、本作の魅力は相反する要素のコントラストにあると以前↓書いた。

この最終話で対置されている要素は非日常(ハレ)と日常(ケ)である。前者はAパートに、後者はBパートにそれぞれ割り振られている。特にBパには唸らされるものがあったけどまずAの話から。
弓射の結果によってその年の豊漁を占う神事・弓耳祭。街の期待を一身に背負い、小糸はエルダの持つ的に弓を射る。ピリっとした船上の空気に主演ふたりの演技が馴染んでいる。根本的に出来が良いんよなこのアニメ。締めるべきところを締められている。
エルダは小糸が外した矢を追いかけて川へと落下してしまう。溺れかけている彼女の手には強引に的中させた矢と的が。努力で占いを成功させたふたりは氏子に祝福される。ここで描かれたのは天運に依らない、人の営みに宿る幸せだ。
そしてBパートは、ハレとケを裏返したうえで同じテーマを語る。
日が変わってなんでもない平日、エルダは不運に見舞われ続ける。エルダが挙げる不運の中にただの不注意が混じってて可笑しい。『式守さん』の和泉くんを思い出すね。
エルダは縁起物の鯛中鯛を求め、夕食に鯛をリクエストする。一方で小柚子は鯛は時期がよくないと答え、代わりに鯵を提案。意外にもエルダはこれを快諾する。

小糸「鯵中の鯵だよね……」
小柚子「お姉ちゃん!」

古くより日本では鯛はハレの日の、鯵はケの日の食事である。
鯵中鯵でも嬉しそうなエルダは運試しにおみくじを引く。しっかり凶を引き当てたエルダは小糸たちからラッキーアイテム(?)を借り、二回もおみくじを引き直し、とうとう最後に大吉を当てる。

浮かれポンチ。

特筆すべきはBパートの状況の日常性の高さだろう。
1クールアニメはしばしば非日常のイベントに話数を費やす。正月、バレンタイン、水着、お泊り、ハロウィン、学校行事etc……本筋とイベントをこなすだけで尺が埋まることも珍しくない。
しかしこのBパはそうした非日常性(「〇〇回」と呼べる要素)を完全に排除している。季節イベもなければ神事もない。他のエルフたちも遊びに来ない。ただ、ちょっとツイてないな~とエルダが感じてるだけのなんでもない日。たぶん実際には運気だって良くも悪くもないのだと思う。

なんにも特別ではないケの日にわちゃわちゃ騒いで浮かれポンチになる。そんな3人を写すこのBは、日常における幸福のありかを非常に的確に示している。
祭りが終わった後も小糸たちの楽しい日常は続いていく。日常系と呼ばれるジャンルにおいてベストに近い〆方だろう。


⑧英雄教室 第4話「ローズウッド学園の訓練」

ねえ、待ってよ トモダチになろう 握手だ Another Self...

川口敬一郎監督には今年も大変お世話になりました。
同氏の『スパイ教室』と双璧をなす今年の2大教室アニメ。主要なキャラたちが背負う重い設定としっかり向き合いながらも、終始明るいタッチで学園生活を描いた快作だった。キレのいいバトルと気の抜けたコメディ、魅力あるキャラに徳の高いシナリオと、エンタメアニメに欲しい要素も完備している。あと萌えとえっちな。
そんなゴキゲンな本作からはみんなで友達になれる喜びと、彼ら彼女らの幼さを大事に扱っていた4話を選出。
学園にやってきたベビードラゴン・クーは寂しがりの甘えんぼ。しかし竜種の特性上、強者しか友達と認められない。自分ひとりではクーの孤独を癒すに足りないと知ったブレイドは、学園生徒100名がクーを倒すための戦いの場を設ける。
というわけでAパートは丸々クーちゃんとのバトルが描かれる。陣形を組んで時間を稼ぎ、落とし穴を掘って動きを封じる。個人の力ではなく、全員の闘気を束ねた一撃で仕留める。徹底して頭数を活かした集団戦を描いていて良い。

ブレイド「クー、見ろ。これが人の力だ」

ここで言う人の力とは、他者と関係を結び、群になる力だ。
それはそのまま、クーとも関係を結べる――友達になれる理由でもある。作中の障害の突破口がテーマと重なるきれいな組み立て。
そも、この決闘の舞台自体、ブレイドひとりでは作れないわけで。彼に頼まれた生徒たちの協力という「人の力」で成り立っている。状況設定から一貫した軸がドラマの強度を上げている。
そしてBパートは感動的なAパートとは打って変わってギャグ。女児アニメ特有(?)のヒロインの激太り/ダイエット回である。テンポ良くお約束の展開をするコメディパートで笑顔になる。

画ヅラもすっかりゆるゆるに戻る。アーネストは太っても萌えだよ。
CV:山田美鈴さんのもったりとした太り演技も必聴。

みんなの力を借りてダイエットに励むも成果がないアーネスト。最後は魔剣の力で脂肪を燃やして痩せ、リバウンドオチで〆。みんなの力もへったくれもねー。Aパと真逆の内容でワロタ!
でもこのBって3話でひと肌脱いだアーネストのポジション調整よね。
アーネストのお菓子好きと自制の効かなさ・小狡さを前に出すことで、彼女の立ち位置を年長者からただのガキンチョに引き戻している。クーちゃんと同レベルの幼さをアーネスト(と彼女の心の機微がわからないブレイド)も有しているという話でもある。
アーネストたちの子どもっぽさを尊重するような手つきが好ましい。

みんなで強くなる・いろんな子と仲良くなる・いつでも楽しくやる。こうした芯が最後までブレない教室アニメの理想形だった。捨てキャラがいなかったり深刻な場面でもコメディが挟まったりね。ラノベ原作でありながら児童書めいた雰囲気を帯びているのは作風の美徳ゆえか、単にブレイドが実質五歳児だからか。
しかし国王は邪悪すぎんだろ。学園ものの大人ポジですよね? 全体的な印象のゆるさに寄与しているといえばそれはそう。


⑨レベル1だけどユニークスキルで最強です 第6話「美人さん登場なのです」

ブラック企業で働くサラリーマンだった俺が転生してきたのは、あらゆるものがダンジョンでドロップされるという奇妙な世界。レベル1だが、ドロップ率オールSというユニークスキルをひっさげ、新たな人生が始まった! そんな俺は今回……免許取得に再びゴリラ!? そして火炎魔法を使う謎の美女と出会って!? いったいどうなる!?

今週のあらすじパート大好き。チラ見せ映像の時点で狂ってるんよな。
監督は現代アニメシーンの立役者・MAHO FILMの柳瀬雄之氏。『イセスマ』1期や『リアデイル』『達男』で見せたフィルムのキレは健在だ。外国の方にジャパニメーションについて訊かれたら氏を挙げますよぼかあ。
ちょっと懐かしいコミカルなノリで視聴者を楽しませた本作からは、頭から尻尾まで様子がおかしかった6話を選出した。
ダンジョン深層部に潜るため、免許センターに向かうリョータたち。カスみたいな態度の試験官の熱い手のひら返しには笑う。「ここで十年以上働いてるが一番感動した!」わざとらしい台詞良すぎる。
試験でアイデアを閃いたリョータは数日後、荒野のど真ん中にマグロを置く。シュール極まる光景を見守ってるとマグロがゴリラに変身。文字に起こすと意味不明だけど実際そうなるんだから仕方ない。どういう頭してたらこんなすっとんきょうな設定思いつくんだ……?
ゴリラを倒してドロップした銃を拾い、二梃持ちとなったリョータに、エミリーは恐れおののいて言う。

エミリー「け、拳銃二丁……ヨーダさん、どうか闇堕ちしないでくださいです~!」

は?
二丁拳銃の運用を研究するくだりもたいがいおかしい。回復弾がふたつ融合すると睡眠弾になるの、意味不明すぎる。「へえ~、癒しの力倍増ってわけだ!」「そうだ!」そうか? 冷凍弾+火炎弾=消滅弾はわかる。メドローア

監督十八番のアイキャッチ芸もキレている。「もうアイキャッチしたくないですうー!」ボイコットすな。本編の外にメタネタを挟むスタイルも昔の作品っぽい。

後日、リョータはダンジョン長に呼び出され、新ダンジョン調査の依頼を受ける。
突然角砂糖をわし掴みでドカ食いし始めるダンジョン長、コワすぎる。完全に死んでいた目が急につぶらな瞳になるのもオモロい。「この人、糖尿病が怖くないのか……!?」ツッコミどころがズレてるよ~!
新ダンジョンへ向かう旅の道中、地面にもやしさん(??)を描き始めるエミリー。その場で思いついた感あふれる絵描き歌もセットで萌えだ。自分たちの後に道を通る人に元気を与えたいとのこと。ひと気のない場所には看板どころかゴミひとつ置いていけない(モンスター化してしまう)世界だから、地面に描いた絵くらいしか残せるものがなかったりする。しかしこの地上絵、独特すぎる。旅人さん困惑するだろこれ。
無人の荒野での一幕と夜のキャンプで出たゴミの処理によって、リョータは街に着く前にゴミを燃やす仕事の重要性を知る。エミリーの四次元リュックはともかく、このあたりは理性的な筋書き。
隣街に着いたリョータたちはゴミの焼却屋・セレストと出会う。「あれは月100時間を超える残業をしてた人たちの顔だ!」からの過労で倒れるセレストで〆。サブタイの話、最後の3分だけやんけ。

飾り気のないさりげない優しさが沁みるセレストさん回の8話、「絵コンテ・演出・作画監督・原画/柳瀬雄之」の最終話も超良かったけど、今回は福緒さんの今後の活躍に期待する意味で6話を選んだ。
6話および9話の脚本は声優の福緒唯さんが執筆している。『イセスマ』からたびたび監督のアニメに出演したご縁だろうか。元々舞台の脚本で活躍されているとはいえ初のアニメ脚本、実にめでたいけどまあハードル下げとくか(何様?)と予防線を張っていたら夏アニメでも屈指のヤバ回が出てきて狂っちゃったね。
おれはアニメを観てるとき「このシーンはこういう意図で~」とこじつけるタイプだけど、だからこそ本作のような素朴な味にはほっとする。何も考えず素直に目の前のものを受け取っていけるというか。
あったかくて楽しくてトンチキな、よき転生ものアニメであった。定期的に監督のアニメが放送される世界であってほしい。


⑩でこぼこ魔女の親子事情 第6話「薔薇園のおしりあい事情」

世界は愛で回って行くの Around 'n' around 渡して受け取るだけバラバラ
表現は違うからこんがらがっちゃって大変! ジュワッとLove is in the air...

どちらかというと愛じゃなくてへんないきもので回っとらんか? と視聴中は思っていたけど振り返ってみれば割と愛で回ってた。
『冰剣』のたかたまさひろ監督が送るマジカルドタバタコメディ。子育てや親子のあるあるネタを魔法で誇張したコメディを軸に、バリエーション豊かなへんないきものが登場しては暴れ回る。矢継ぎ早に繰り出される無軌道でフリーダムなアッパー系ギャグと、その裏に織りこまれた人と人との関係が光るアニメだった。魔法や種族の設定がきちんとしたハイファンタジーでありながら、ふわっと夢のある雰囲気なのが往年のキッズアニメっぽくて良い。必ず次回予告を用意しているのも朝のアニメ感がある。童話劇場や絵描き歌のようなネタも作風とマッチしていた。
ギャグアニメらしく15分×2本立てが基本の本作からは、最終話以外で唯一の長尺回だった6話を選出。人と妖精の叙情に満ちた勝負回らしい仕上がりになっていた。画面には常時ケツが浮いてますが……。
アンナ嬢の庭園の妖精・ヒップ(ローズヒップの精だからヒップ)からの相談を受け、アリッサたちはヒップの兄・ケッツ(シモツケの精だからケッツ)を説得しにアンナ嬢の屋敷に行く。「どこでお知りになったのですか?」「血肉の争い」などといった恐ろしくしょーもない言葉遊びが随所に挟まっていて楽しい。
咲かなくなった庭園の薔薇が気になってお嫁に行けないアンナ嬢。原因であるケッツはさながら娘を嫁がせたくない父のよう。発狂したケッツがいちいち乱舞するせいで画も音もうるさい……!
ふたつ違うのは、ケッツはアンナの父ではなく、また人でもない点。
アンナに妖精の姿は視えない。当然ケッツの存在も知らない。ケッツは一方的にアンナに想い入れ、寂しさを覚えているだけだ。婿が善人であることを知ったケッツは寂しさを飲もうとするが、アリッサは妖精を可視化する手段に触れ、話すチャンスを与えようとする。しかし。

アンナ「誰かが傍で見守ってくれているような気がして。だから私、ずっと思ってたんです。お父様が今もお庭にいるんじゃないかって!(中略)その『もしかしたら』にずっと救われていました」

アンナの夢を守るには、見守っていたケッツは姿を現せない。ストレートに切ないドラマなのに尻フェチ云々言い出すから困る。「父の想いが籠った庭園」にフェティシズムが説得力を与えてるのなんなんだ。下ネタと泣きが表裏一体ですごい。

ケッツ「私は父親になりたかったわけじゃない。感謝や愛情が欲しかったわけでもない。ただ――」

ケッツはアンナが父を失って泣いていた幼い頃のように、彼女とトリーノの頭に薔薇を落とし、庭園を一斉に咲かせる。
そこに一抹の寂しさはあれど、未来への不安や悲しみはない。少しの助言とアンナの笑顔がケッツの心を救うお話。人と妖精の関係を保ったまま、魔法抜きで解決する。好き。『おジャ魔女どれみ』をオールタイムベストのひとつに数えるヲタクなので。

盛り上がるドラマに映像も応える。コンテから撮影処理までグッド。

ビオラ「まだ時間はたくさんあるよ! 今回はお話できなかったけど、これからもチャンスはあるよ! 突然アンナさんに妖精が見えるようになるかもしれないし」

未来に希望を残した前向きな〆も大変素晴らしかった。すべてが良いほうに転びそうな温かい空気が本作にはある。

今話はアリッサとビオラの寿命差についても軽く触れているけど、しっとりしたムードはすぐに終わって上記のビオラの台詞が入る。以降も直接的には掘り下げずに最終話の〆へと至る。へんないきものたちがテーマを支えていたことには驚かされた。
長命種と短命種の交わりを核に据えた作品は多いが、ここまで明るく爽やかな語り口の作品はかなり新鮮だ。不死鳥のフェニックスをペットの位置に置いちゃうのが巧みなんだよな。血縁の有無も寿命の長短も「生命」という単位でくるんじゃってる。『江戸前エルフ』はわびさびで『でこぼこ魔女』は祝福なんです。タブンネ


⑪おわりに

冬4・春3・夏2・秋1と偏った選出になってしまった。
惜しくも選外となった話数は下記の通り。なんか11コある。

■The Legend of Heroes 閃の軌跡 Northern War 第1話
顔なき兵士、勇気ある民、英雄と作品のテーマが凝縮されている。緊張と弛緩のバランスも良い。
■人間不信の冒険者たちが世界を救うようです 第12話
個の世界を救い続けた先に大きな世界の救済がある。人が持つ負の感情を認めたうえで広大な理想を掲げていた。作品の哲学を支える演出とコンテワークも圧巻。
■解雇された暗黒兵士(30代)のスローなセカンドライフ 第6話
サウナで湯気に包まれたと思ったら結婚して出産していた。
■事情を知らない転校生がグイグイくる。 第8話
今という幸福を積み重ねて未来に行こうと伝える子どもと、未来に来て過去の不幸を笑い話にしちゃおうと伝える大人。事故に見舞われた子どもの今と未来を祝福する名エピソード。
■BIRDIE WING -Golf Girls' Story- 第18話
ケレン味満点の演出にハイテンションな台詞がバシバシ乗る。畳みかけるようなスピード感で迎えるED、かっこよすぎる。
■Opus.COLORs 第12話
変な設定と長い溜めへの不満が一発で解消された。今年随一のクライマックス。
■ライザのアトリエ ~常闇の女王と秘密の隠れ家~ 第5話
サービスカットの見せ方が創意工夫に満ちていて楽しかった。ライザたちの連携も見応えがある。
BanG Dream! It's MyGO!!!!! 第10話
視聴者にすら背を向けたライブにうっかり心打たれてしまった。
■AYAKA -あやか- 第11話
人並みに弱い人間がそれでも強くあろうとするさまに弱い。「なるべく未練が残らないよう、他人から期待されない生き方をしてきた」。他人の期待が未練になりうるのは応えたい自分がいるからで、そういう性根って自分勝手な奴とは対極なんだよジンギさん。
■川越ボーイズ・シング 第9話
フィルムから迸るセンスに圧倒された。絵コンテ・演出・作画監督・原画/武内宣之。8~10話が連続したシナリオになっているのも尋常ではない。
るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-(2023年版) 第17話
今回のリメイクで一番得したのは雷十太先生だと思う。

『僕ヤバ』『好きめが』『MFゴースト』あたりは全話良くて選びづらい。『吸死2』最終話Bパートは純粋なコントでは今年イチ笑った。『16bitセンセーション』8話の想像力の話は印象深い。『攻略うぉんてっど!』最終話の作中ゲームクリアしたエンヤァおる?

今年のアニメも極上でした。本数多すぎる&面白すぎる!
以下、どうでもいいなんやかや。

クール単位でアニメを追い始めて今期でちょうど10年になる。
往時に比べてずいぶんと偏屈で弱いヲタクになってしまった。その瞬間の愉快さや不快感のなさを過度に重視している……無理に矯正する気もないけど、最低限の自覚は持っときたい。
あれこれケチをつけつつもアニメは毎クール最高に楽しめている。今年は居場所や自分らしさを巡る作品との出会いが多かった。ネットの居場所が壊れまくってるから余計目に留まったのかも。
Twitterへの投稿もいつまで続けられるか知れたもんじゃない。とはいえ終わるまでは終わらないしそれまで足場を移す気もない。昔のおれからすれば見るに堪えない不誠実な言葉であっても、せめて自分の気持ちには誠実に思うままを書き記しておく。今のおれが未来<いま>を生きるおれにしてやれることはそれくらいだろう。

ありがとう

来年も無理のない範囲で楽しくアニメを視聴していきましょう。
2024年のアニメ始めは三が日からの『友崎くん』2期。昨日1期観た。いいアニメだった。がんばって♡がんばって♡No.9くんの時代だ♡

日々を彩る世界のコントラスト ~TVアニメ『江戸前エルフ』の眩しさについて~

・はじめに

風薫る5月、2023春クールも4話を越える頃となりました。
話題作からマイナーどころまで今期もアニメは大豊作です。2クール目を迎えていよいよ世界の苛烈さが浮き彫りになった機動戦士ガンダム 水星の魔女』、劇場アニメと見紛うばかりのレース表現から目が離せないウマ娘RTTT』、ふたりの柱をレギュラーに据えて上弦の鬼と激突する『鬼滅の刃 刀鍛冶の里編』。世間的な注目度はこのあたりがスリートップでしょうか。半天狗マジでクソボス過ぎる。
親子二代に渡る運命が少女たちを翻弄する『BIRDIE WING』、デフォルトが倍速・ヤバすぎるスピードで視聴者を圧倒する『転生貴族』もヲタク界隈では大人気です。『イセスマ』『いせレベ』『いせにど』と揃った今期3大伊勢アニメも、それぞれ尖った個性で視聴者のアニメライフを充実させていることでしょう。

さて、そんな群雄割拠の春クールにおいて、シンプルながら異彩を放つタイトルのアニメが江戸前エルフ』です。

OTAKU ELF。これ、英題でもあるんだぜ……。

放送時間は今期の中でもとりわけ深いキンヨル26:23~アニメイズム。翌日が土曜とはいえリアルタイムの視聴は厳しい枠です。加えて内容をイメージしづらい一見イロモノめいたタイトルは、ネット配信でアニメを観る層をも遠ざけてしまっている可能性があ……いや配信サイトでのランキング割と高いな。もっと伸びな。
じわじわと広がる人気に違わず、本作、ことのほか面白いのです。日常、萌え、ご当地、歴史、グルメ、異種族百合(広義)にSF(すこしふしぎ)。ふんだんに盛りこまれた諸要素がとっ散らからずに調和しており、非常に幅広い層にリーチしうるポテンシャルを秘めています。
この記事では現時点で筆者が感じている本作の魅力について、未視聴の方への紹介文チックにつらつらと書き綴りたいと思います。ちなみにですます調で書くのは今回が初めてです。普段はもっとクッソ偉そうにしています。1コ前の記事とか見ちゃダメよ。

・土地と歴史と現人神と――設定と描写が織り成す実在感

本作は江戸時代に異世界から日本に召喚され、以後ご神体として神社で祀られ続けているひきこもりのヲタクエルフ・エルダ(621歳/不老不死)と、彼女に仕える新米巫女・小糸(16歳/女子高生)が主役のゆったり下町コメディです。改めて見るとすごい設定だな。
その舞台は東京、中央区は月島という実在する町となっています。仲通り商店街や隅田川沿いのウォーターフロントのような観光スポットから、近年とみに増えた高層住宅になんてことない通学路の景色まで。古さと新しさ・華やかさと素朴さが入り混じる背景美術は、それ単体で匂い立つような空気をまとっておりとても魅力的。眺めているとつい足を伸ばして聖地巡礼に赴きたくなってきます。

セピア色の路地裏ときらびやかな夜景。町の二面性はそれ自体が神秘的に映る。

この月島の背景は物語的にも大きな役割を果たしています。
ひとつは現実感。「金髪長耳のエルフが400年以上祀られている神社」という本作最大のファンタジー要素は、舞台となる月島のリアリティを足場として確立されています。
月島のとある神社にエルフが居て、町民に祀られ、親しまれている。中心に据えられたフィクション全開の設定が浮わつかずに成立するのは、ひとえに現実を現実として写し取る筆致の緻密さゆえでしょう。地域に生きる人々の吐息にはたしかな温度が宿っており、写実的な舞台はその上で描かれる表象の下支えとなっています。
創作において現実感は必ずしも要るわけではありませんが、本作に関しては間違いなく功を奏していると言えるでしょう。

人工物で雑多な街の中、適宜挟まれるロングショット。
周囲の様子ごと被写体を捉える構図がキャラの実在感を引き上げる。

もうひとつは現代らしさ。あるいは江戸に対しての月島というか。
エルダは江戸ができた当初から町を見守ってきた存在です。生き証人たる彼女がたびたび語る江戸の豆知識は興味深く、雑学番組めいた面白さは視聴者を退屈させません。エルダ本人の当時の所感や挙動、現代知識とのズレが描かれるのも好ポイント。単なる知識の引用に留まらず、キャラの掘り下げやコメディに昇華されています。
そしてかつて江戸がどのような町で、どのような営みがあったかが語られる時、そこから変わった/変わらない今の姿もおのずと浮かびあがってきます。

江戸より明るい月島の夜、巡回は同心ではなく警察官。夜ふかしする子どもの姿も。

現代の街の景観はそうした変化と不変の到着地点です。ヲタクグッズやグルメ、現代文明の利便性をフィーチャーする作風の延長線上にあります(というか、屋台骨として舞台も現代っぽさを大事にしているというのが正しい)。
そこには大河ドラマさながらの雄大なスケール感と、今この時代・この瞬間を生きる人たちへの優しいまなざしが同居しています。
時とともに変わりゆく街並み、世代を重ねて過ぎ行く人々。流れる時間の中でエルダはときに順応し、ときに拒否感を示しながらも、当代の巫女である小糸と現代の生活を謳歌します。

「もし土着神が肉体を持って遠い昔から町に住んでいたら?」――そんな突拍子もない仮定に時間的・空間的な広がり(歴史と町)を与えることで、アミニズムSFとしての血肉を通わせ、暮らしの質感を底上げする作り。
月島で繰り広げられる彼女たちのおかしな日常劇がひときわ眩しく映るのも、本作の芯に現実の舞台への深い造詣と真摯さがあるからでしょう。題材をネタとして消費するのではなく、題材とともに独自の設定・キャラが在る。いわゆるご当地アニメとしても徳が高く、優れた作品だと思います。

実写の美術の上でLive2D的に一枚絵を動かす独特のED映像*1も、虚構と現実のあわいを往く本作の在り様を示しているのかもしれません。

・感情の波に視聴者を乗せる――美少女アニメとしてのルックの良さ








ランドセルの色は何色ですか?😊😊😊
さて、ひときわ眩しい日常にはひときわ眩しい画がついてこなきゃウソです。そして本作は見ての通り今期有数の美少女アニメ美麗な作画にコメディならではのポップでキュートな演出も加わり、筆者のような萌人もえんちゅも大満足のビジュアルに仕上がっています。本作と同じくC2C制作・安斎剛文監督が手掛けた『ひとりぼっちの〇〇生活』を彷彿とさせるクオリティ。ついでに書いとくとこれも超名作です。

光る!鳴る!デフォルメされる!デラックスなかわいさがここにあ……溶けすぎだろ。

現代の日々を満喫するぐうたらのエルダとしっかり者の小糸。ふたりのかけあいを主軸とした日常は喜怒哀楽に満ちあふれており、観ているこちらも彼女たちのテンションに引きずられて楽しくなってきます。小清水亜美さんが演じるエルダの引きこもりらしい(?)ふにゃっとした喋りと、尾崎由香さんが演じる小糸の柔らかくもまっすぐ通った声も素晴らしい。アニメっぽさと身体性を両立しており、耳に心地いいキャッチボールとなっています。
そんな嬉しい萌えアニメでもある本作ですが、中でも特に注力されているのがご飯と食べたときのリアクション。俗に言う飯テロシーンが多く、出てくる料理もバリエーション豊かです。夜中に観るには目に毒かもしれない画が隙あらば飛んできます。ちなみにここでも実在するグルメを頻繁に登場させていたり。

もんじゃみたいな月島グルメだけではなく、お取り寄せや土産物も出てくる。自由。

そしてそんなグルメの数々を口にした瞬間の小糸ちゃんたちが…………ムォ!!

神は「光あれ」と言われた。すると萌があった。ゃ、漏れは小柚子チャソ派でつが……ノ。

「全身で喜びを表現する」なんて言い回しがありますが、本作はまさに画面全体でハッピーを演出しています。なんなら食べ物も光っています。✨←これで。なんもかんもピッカピカです。カメラを通して小糸たちの高揚感を分けてもらっているわけですね。彩度高めの画作りなのも明るい印象に寄与しているのかもしれません。
食べ物の見た目、食べ物の由来、食べた人たちのリアクション。この三要素によって美味しさという中心の空白を表現するのがグルメものですが、そのあたり本作はかなりやれています。いやグルメものではないんだ……話が逸れました。
先に挙げたエルダのプラモデルや小糸のブランドバッグも同様です。すてきなものは光って見えます。光はこちらの心も照らします。本作の日常パートで筆者は幸せのおすそ分けをされている気分になります。1週間労を頑張ったご褒美かな? 金曜夜の身体に沁みる……。

また、こうしたルックの良さはまじめなシーンでも形を変えて発揮されています。
たまに忘れそうになりますが本作は巫女ものとしての一面も備えており、祝詞の奏上や継承の儀といった神事も時おり描かれます。ぴりっとした神事の空気感は月島のリアルな風合いともマッチしており、非日常の荘厳さを帯びています。デフォルメや漫画的表現を多用する平時の作風も鳴りを潜め…………たかと思えばガクッとギャグで崩してオトしたりするのも本作の味。コメディだからね。
俗っぽさと神聖さ、弛緩と緊張の間で小糸たちはさまざまな顔を覗かせます。映し出されるのは記号的な嘘ではなく、真に迫った感情の機微です。だからこそ上述したコミカルな表現やキャラ萌えも上滑りしないのだと思います。同じ人間が浮かべる地続きの顔のひとつとして受け取っていけるというか。「こいつ萌えついてるな」と「萌え!」の違いです。お分かりいただけるでしょうか(は?)。

神事をこなしてほっとひと息。3話〆の情景は本作のカラーを端的に表している。

身近な喜びを扱う作劇にかわいい画と演出・芝居が相まって、視覚的・聴覚的な幸福度がとても高いアニメ映像。それでいて要所では雰囲気を引き締め、キャラと世界観の魅力をいっそう引き出している。
硬軟合わせ持ち、緩急も利いた隙のない設計と言えます。萌えはあればあるだけ嬉しいしアニメはエロいに越したことはないけど、ペタっと要素を貼り付けるだけでは決して届き得ない"高み"があります。本作の萌えはその領域に到達しているでしょう。ワザマエですよ。
でもCVくぎゅの褐色ロリエルフが関西弁喋るのとかはズルだと思う。盛りすぎだろ、属性をよ。

・少女とエルフ、諫めて見守られて――今ここにある対等な関係

関ヶ原

自堕落な生活を送るご神体のエルダを新米巫女の小糸がぷりぷり注意する。主役のふたりによるこのコントは本作における定番ネタです。
本フォーマットの魅力は「成熟しているはずの年長者が年少者に叱られる可笑しさ」にあります。実際、普段のエルダは欲望のままにふるまうダメなやつ(※小糸評)です。常にコタツでだらけ、通販で無駄遣いし、神事さえも面倒くさがる。ダメ人間ならぬダメエルフ、はたまたまだ小さい子どものよう。傍から見ていると小糸のほうがお姉さんかお母さんみたく映ります。*2
しかしそんな小糸もまだ16歳。背伸びして買ったブランドもののバッグも似合いません。ケンカで泣いて家を飛び出したり、悪ノリしてお菓子を食べすぎたり。そういった年齢相応の幼い一面も当然持ち合わせています。
対するエルダもまた、定命の人の子を見届けてきたエルフらしい成熟した顔を有しています。

小糸に在りし日の先代巫女を重ねて慈しみを湛えるエルダ。

小糸が幼い顔を見せる時、エルダが成熟した顔を見せる時。両者の立場はいつもと入れ替わり、年齢通りの子どもと大人の関係にシフトします。こうした瞬間に感じられる平時とのギャップもこのコンビの大きな魅力です。
また、片方が子ども役の時はもう片方は大人役、と決まっているわけでもありません。時にはふたりとも子どもに立ち返って一緒にはしゃいだりもします。小糸もエルダと同じように欲望に従ってしまう日もあって、むやみに叱ってばかりではない。培ったテンプレから外しつつ関係の在り方を拡げるイイ筆運び。

後のことなど考えず豪遊。最終的に年下の小柚子ちゃんに叱られるのがまた可笑しい。

保護者と子どものような関係でありながら気の置けない友人でもある。そんな主役ふたりの姿に筆者はドラえもんを想起します。どちらが大人役を担っていても親ほどの存在にはなりきれず、世話焼き止まりなのもそれっぽい。余談ですが1話で奉納されるあばら屋のどら焼きも元ネタはたぶんドラえもん*3
本作はこの基本構造に年齢の勾配と役柄の逆転を取り入れ、より対等な関係を描き出すことに成功しています。どちらのほうが姉・母/妹・娘らしいと一概には言いきれません。エルフと女子高生のコンビというのも絶妙な設定です。寿命のくびきから解き放たれているエルダと、子どもから大人への過渡期にいる小糸。それぞれに成熟した強い面と未熟で弱い面があるのも自然と飲みこめます。

育つ小糸と変わらないエルダ。人とエルフが生きる時間の差を意識させられるOP。

小糸が大人になったらエルダとの今の関係は変化するのか。
それともエルダにとっての小糸は慈しむべき人の子のままなのか。
稀有なレベルでバランスの取れた仲良しのふたりを見ていると、筆者は「今」という瞬間の貴重さをふと意識してしまいます。江戸ー月島という舞台と同様の侘び・寂びを感じてしまったり。変わる前と変わった後で輝かしいことに違いはなくともね。そもそも変わらないかもだけどね。

寄りかかったり寄りかかられたり、たまに一緒になってバカやったり。大人と子どもという枠組みを越えたふたりの距離感の近さと、その関係が今という時間の上に成り立っていることのかけがえのなさ。
ドタバタコメディに一滴垂らされた異種族もののほのかな切なさは、表立ってはいませんがたしかに作品世界に浸透しています。小糸の母である先代巫女の話も気になるところです。過度に泣きに振らない柔らかな作風もグッド。ワビサビですよ。

・まとめ

虚構と現実、昔と今、俗さと厳かさ、庇護と対等。作品が持つ多彩な色が響きあっていっそう鮮やかに映える。本作の魅力を支えているのは相反する要素のコントラストなのだと思います。ベースのコメディだけを切り取っても折り紙つきの面白さだけれど、こうした対照の妙が個々のネタやキャラの動きに立体感を与えています。どの設定にも無駄がなく、有機的につながっていると感じられる。日常を活写した作品とはこのようなものを指すのでしょう(盛りすぎかな……?)。
この記事では深く触れていませんが単話の完成度もきわめてハイレベルです。一見贅肉のように思えるネタをその回のテーマに絡めて、1本芯の通ったお話に仕上げる手腕にはいつも唸らされます。さくっと観られる肩肘張らない視聴感と、つい咀嚼したくなる味わい深さ。これもまた本作が有する二面性のひとつなのかもしれません。

個性豊かな新キャラも増えてお話に広がりを見せている本作。ゴールデンウィーク中お暇な方、とにかく面白いアニメを視聴したい方、この長文にお付き合いいただいた中で何かティン!とくるポイントがあった方。今期のお供にいかがでしょうか。
1話の配信URLはコチラ!(リンク先ABEMA)

ふたりの世界を大事にしながらもそこで閉じない、開けた作品が好き。

*1:https://twitter.com/mukai_jumpei/status/1646943480982413312

*2:年長者のほうが年下っぽいという構図はヨルデーエルダ、小糸ー小柚子間にも見られる。対比的な意図なのか癖《ヘキ》なのか……。

*3:藤子・F・不二雄ドラえもん,14巻(1977)3話「かがみでコマーシャル」に同名の和菓子屋と菓子が登場する。

冰剣の魔術師が統べるもの ~TVアニメの特性から見る『冰剣の魔術師が世界を統べる』の魅力~


この30分のために生きてる。

Webノベル原作のTVアニメ『冰剣ひょうけんの魔術師が世界を統べる』が後半戦を迎える。
10年代ラノベアニメを彷彿とさせるパキっとしたキービジュアル。枠は数々の奇作・名作を輩出してきたTBSモクヨル。今をときめく気鋭の会社・横浜アニメーションラボを制作統括に据え、同社から独立した作画スタジオ・クラウドハーツが制作を手掛ける。放送前から一部のコアなアニメファンをざわつかせていた本作だが、蓋を開けてみればまさに今期を……いや、20年代を統べるアニメーションだった。
果たして本作の何がここまでアニメ視聴者を魅了するのか。あまりの面白さに何度か観るうち、筆者はふとこう考えた。アニメを形作る様々な要素を「毎週放送の30分アニメ」に最適化できているのではないか、と。
アニメ界の伝説『聖剣使いの禁呪詠唱ワールドブレイク』に匹敵する威容を示す本作。この記事では30分アニメが持つ3つのアトリビュート*1――フォーマット・リソース・エピソードに着目し、それぞれの仕組みを把握することで『冰剣の魔術師』の本質に迫る。2023年時点の筆者のアニメ観が前面に出た内容のため、こういうヲタクもいるんだな~と生温かい目で見ていただければ幸いである。特に②のリソース論は結構鼻につく人が多いと思う。皮肉や嘲笑の意図は一切ない。
結論だけ知りたい人は目次から最下部へ。

 

① 頭からラストまで――30分アニメのフォーマットを活かした構成

アバンタイトル、OP、Aパート、Bパート、ED、次回予告。『鉄腕アトム』に端を発する日本のテレビアニメのフォーマットは、作品ごとに多少の差はあっても基本的には共通している。特にOPとEDはないアニメを探すほうが難しい。
本編の尺を縮めて作画枚数をおさえ(コストカットし)、タイアップで収益を確保する。OPとEDはビジネスモデルとしても優れているが、視聴者目線で見た場合もっとも特徴的なのは毎週繰り返される点にある。
繰り返しは受け手の中に「〇〇はこういうものなんだな」という図式を生む。漫才の天丼ネタがわかりやすい例なのだけど詳細は割愛。
思った通りに進む納得感、予想を裏切っていく意外感。『冰剣』のOPおよびEDの入りはこの図式を活用している。


ここで本作のOP曲『Dystopia』冒頭を聴いてみる。
美しくも前のめりに主張するくっきりしたピアノの主旋律。作曲家の俊龍氏の持ち味が大いに発揮されたイントロである。
本作はこの長尺のイントロをアバンタイトルに毎回被せている。要所で被せる作品はたまにあるが毎回というのはそう見ない。
ではわざわざ毎回被せてアバンで何してるのかと言えばトンチキ。だいたいはね。

劇伴とお話のミスマッチで生じる効果はずっと昔『ワルブレ』記事にも書いた。


劇伴とのズレによる笑いの増幅。超絶カッコいいOPのイントロに合わせて、ヒロインの着替えに鉢合わせした主人公が「うさぎ(の柄)が好きなのか…」と淡々とのたまうアニメ。愉快すぎる。歌い出しが終わると同時に画面へと吸いこまれるような映像が流れるのも『冰剣』視聴の時間に引きずりこまれていくかのようでたまらない。
イントロ芸とも呼ぶべき手法は手を変え品を変えて繰り出される。回を重ねるたびに煽られる期待に本作は必ず応える。毎週1回、それも冒頭でドカンと面白さを稼いでいく。『冰剣』はOPの時点で他のアニメ視聴とは一線を画している。
そして図式とは、捻りを加えた時にこそ最大の効果をあらわす。天丼ネタの〆には変化を入れるのがセオリーとなっているように。
本作のアバンは要所要所ではきちんとカッコいい内容になる
ドラマと曲が相乗効果を生み出す正道のクライマックスに、本来ありえないはずの型破りの気持ち良さまで与えられる。イントロどころかOP全体をアバンと一体化した5話は最たる例だろう。『冰剣』は5話まで見てほしいと巷で語られる理由のひとつがここにある。


このイントロ芸はBパート~EDの入りでも採用されている。一部の話数を除いてOPほどの破壊力はないが、代わりに(?)こちらはサビ入りの映像でヒロインズの下着姿のピンナップが流れてくる。トンチキだろうとシリアスだろうとサビで強制的に下着に替わる画面。笑えるというよりも笑顔になる。一枚絵だから本編より気合が入ってるのもね。
さらにED後はアウトロに被せてシームレスに次回予告が流れる。個性豊かなキャラが週替わりであらすじやそれ以外の戯言を喋り倒すパート。キャラへの愛着を深めてくれるし、テキスト自体も秀逸なことが多い。メタネタまで搭載した7話ED~次回予告はその極北だろう。

アバンや次回予告を設けないアニメも世の中にはたくさんある。また、漠然と設けているだけでやる意義が薄いアニメも稀に見る。一方で『冰剣』はいずれのパートもあって嬉しいと感じる地点まで昇華している。一見ふざけてるようで実のところ離れ技をやってのけている。
TVアニメのフォーマットを活かし、図式を生み、ときに破壊する構成。
アバンから次回予告まで、パート単位で毎週の楽しみがあるひととき。
今期アニメでは『神達に拾われた男2』のアイキャッチ芸も秀逸だが、『冰剣』のフォーマット芸は全体的に本編とシームレスにつながっており、アバンから次回予告までをひとつの作品としてパッケージングしたような趣がある。

監督が「頭からラストまで」と呟くのも納得の作りである。

……さて、フォーマットの有効活用については上につらつら書き記した。しかしこれはアトリビュートであって『冰剣の魔術師』の本質ではない。

②情報量を増やす設計図――有限のリソースで見応えを生む

本作が世間で取り沙汰されるのは主に作画の弱さについてである。アニメという媒体を語るうえでおそらくもっとも感覚的な、極論ちらっと見ただけで口出しできる*2要素なのでそうなるのも道理。しかしこの風潮に対して筆者は長年忸怩たる思いを抱えている。
たしかに『冰剣』の見た目は他の話題作と比べてリッチとは言いがたい。線の本数もそこそこな画作り、アニメらしいシンプルで平坦な塗り。顔のパーツの特徴を抑えた作画揺れに強いキャラデザインは、原作挿絵ともコミカライズ版とも方向性が異なっている。
だが、そもそも毎週放送のTVアニメの画面なんてどだいチープなもんである
今ほどアニメが大量生産されていなかった頃から変わらない。セル画からデジタル、フル3DCGと技術が進化していっても、アニメの画面が平均的にリッチだった時代は存在しない。社会的な話題作や劇場アニメは上澄み中の上澄みだ。
もちろん、しょっぱいのがデフォなんだから妥協していいという話ではない。予算も人員もスケジュールも足りない中でクリエイターはセンスを問われる。その中から唸るようなコンテワークや省力のテクニックが雨後の筍のごとく現れる。そうした工夫の日進月歩に驚嘆し、ときに爆笑するのも、毎クールTVアニメを視聴する醍醐味だと筆者は思う。行儀は悪いけどね。
昨年で言えば『処刑少女』第8話や『転生賢者』第7話。今期アニメで言えば『人間不信』のアニメ作りが傑出しているので、この記事を読んでいて未視聴の方がいたらぜひ観てほしい。面白いよ。

閑話休題
では『冰剣』はどのように映像面の魅力を確保しているのか。
そのポイントは情報量にある。ドラマパートでは感情の起伏、バトルシーンでは構図の多様さ。そして他の追随を許さないコメディの数とネジの外れっぷり。メリハリの効いた要素のリレーがリソース以上の見応えを生んでいる。
コメディシーンは③の論にも密接に関わってくるため、ここではまず前ふたつを解説していく。


怒る時は怒り、泣く時は泣く。安易に記号的な演出を用いずに正面から感情を描く。現代アニメシーンでは意外と希少な姿勢かも。いや、顔芸ではなく。
個人的な嗜好もあるが、こうしたドラマチックなシーンで大事なのは画自体の力だ。喜怒哀楽がしっかり伝わる映像になっているかが重要で、各種処理や演出はそれを達成するための手段に過ぎない。元絵のパワー=情報が充分にあれば優美さはなくてもいい。無論あってもいいのだけど。作風との相性や他のシーンとの兼ね合いも大事だし。
また、音付きの映像という意味ではキャストの熱演も大きな役割を果たしている。主人公・レイ=ホワイト役をつとめる榎木淳弥氏の落ち着いた演技*3が屋台骨となっているおかげか、他のキャラの情熱的な演技が上滑りすることもない。
表現すべき感情は過不足なく表現できており、きちんと胸を打つ。
こういう作風は安っぽいというより、飾りがないというべきだろう。


同様のことはバトルシーンにも言える。引きとアップで省略し、止め画とスライドで適度に間を保たせる。ここぞという時にぐりっと動かし、キメの画で強烈な印象をつける。TVアニメらしい簡略化がなされた緩急のある映像。視線誘導を意識したコンテと構図の決まった複数のカットが、間の動きを補っている。設計図の情報による区間の情報のカバー、ある意味漫画的かも。
割り切ったクレバーさと遊び心を兼ね揃えた本作の映像は、監督の他にシリーズ構成・音響監督・一部話数の脚本に絵コンテと幅広く――幅広くってレベルじゃねえ!――手掛けるたかたまさひろ氏と、氏を筆頭とする制作スタッフのセンスによる産物だろう。アバン周りの尺調整といい、抜けているようできっちりコントロールされている。インパクトのあるキャプやけったいなgifもある程度は狙って出しているはず。突然高fpsでぬるぬる動き出す教師なんかは計算でやっているとしたら未来的すぎると思うが……。

③で後述するネタの波状攻撃もあり、単位時間あたりの情報量で『冰剣』の映像に物足りなさを感じることはあまりない。場が動かないときでさえおかしな会話で絶妙に間を埋めてるし、ドラマが希薄な雑魚戦ではクラリスを担いで大騒ぎさせる。
アニメとは映像であり、情報を乗せて流れる時間そのものだ。
そして面白さとは情報を受け取る際に生じる快楽の量である。
この快楽を美麗な画や躍動感あるアニメーションで稼ぐ作品もある。しかし何も美しさで圧倒するだけがTVアニメの戦い方ではないだろう。

……とはいえ、リソースをセンスで補うスタイルは目標というより副産物に近い。これもまたアトリビュートであって『冰剣の魔術師』の本質ではない。

③トンチキコメディと骨太ドラマ――単話と総体への満足感

30分枠のTVアニメの尺は30分である。トートロジーかな?
嚙み砕くと、TVアニメは一般的に1~4クールを通してひとつの物語を描く。にも関わらずこの放送形態は30分で強制的に区切りをつける。そして次回を観るまでにぴったり1週間の間隔が空く。こら、延期すな。
漫画・小説の連載や連続テレビ作品全般に言えるが、強い作品はこの区切りごと、つまり1話単位で受け手を満足させている。逆に言えば1話単位で満足させられないなら連続形式である意味がない。「一気に見ないと面白くない」のは形式に話を最適化できていないからだ*4。各回持ち回りで特定のキャラにスポットを当てる構成――いわゆるお当番回形式が優れているのも、単話が短編として綺麗にまとまるからである。
翻って、たとえばTV放送用に再編集された劇場アニメなどを覗いてみると、単話の区切りをどのようにつけるか、どう満足させるか苦心するクリエイターの奮闘が垣間見えたりする。銀幕用に作られた既製品に手を入れるのだからゼロベースより大変だろう。『ベルセルク黄金時代篇 MEMORIAL EDITION』くんは頑張ってたよ。

『冰剣』は話の途中で次回にまたぐこともあるストーリーものである。単話の満足感を得るうえでベターなお当番回形式は採用していない。
では本作はこの満足感を何によって獲得しているのか。単純な構成(序破急)の巧さや視聴者の感情曲線のコントロールなど要因は多々挙げられるだろうが、もっとも大きいのはやはりギャグだろう。いやマジメに。


TVアニメである以上、エピソードの面白さは30分に収める必要がある。しかしシーンの面白さは数秒、長くても数分刻みであるため調整の必要がほぼない。話の合間にばらまいた分だけ即座に面白さが返ってくる。
そして手数において『冰剣』の右に出るアニメはそうそうない。退屈を誘う説明パートもちょっとした日常のワンシーンも、隙あらばすべてを笑いに転じる異常なウィットと飛躍力がある。なんかツインテがうにょうにょ自律可動してるだけで面白いし。例を挙げるとキリがない。
そんな本作が尺を取って本気でコメディパートをやり始めた時の勢いはすごい。シーン、カット、センテンス単位で押し寄せるキレ味抜群のトンチキラッシュ。肩肘張らない視聴感で作画への要求水準が下がるのもミソかも。
余談だが、シーン単位の魅力という意味では萌え・エロでも同じことが言える。萌えはあればあるだけ嬉しいしアニメはエロいに越したことはない。
……エモい会話やキマった画とかでもいい。

「つまりこのアニメのストーリーは飾りで、内実はギャグ一辺倒なの?」
そのスタイルもアリだと思うけど『冰剣』についてはそんなことはない。本作のギャグとストーリーは表裏一体の関係を成している。
『冰剣』は心に傷を負い戦場を去った主人公・レイが師の勧めで魔術学園に入学するところから物語が始まる。ジャンル的には学園異能ものであると同時に帰還兵・傷痍軍人ものでもあり、設定相応の重い話もある。すっとぼけたレイのキャラクターも彼のバックボーンに由来している。
しかし視聴者はご存じの通り、本作は学園コメディを基調として進む。1話からコテコテの筋肉ネタが飛んできて眩暈を覚えた人も多いだろう。
だが筋肉は努力の証であり、学園内外にはびこる血統主義へのアンチテーゼだ。筋肉ネタという古臭いギャグもその実テーマに組みこまれている。
話は筋肉だけに留まらない。本作が掲げる「才能・努力・環境」という3つの軸は様々な形でギャグシーンに織りこまれ、ストーリーに広がりを与えている。


6話で描かれるエインズワース式ブートキャンプはその好例だろう。幼なじみへの劣等感にとらわれるアメリアに突如課せられる狂ったノリの訓練。仮面を被ったレ……マスター・ホワイトといい思いっきりギャグの空気感なのだけど(画ヅラも台詞も相当キてる)、ここでアメリアと並行して5話で憑き物が落ちたアルバートが描かれる。
アメリアと同様に強さを求める彼に対し、レイはただ言葉をかけるだけ。ブートキャンプに誘ったりしない。さっきまで付けていた仮面も外している。
「君は気付かないうちに強くなっている」。レイはなぜそう言いきれるのか。それは、アルバートには既に才能と努力、そして環境――自分だけの大切な友人たち――の3つが備わっているからだ。
ここまで対比的に両者を描くことで、ギャグそのものだったブートキャンプとはレイがアメリアの環境=友人であろうとした結果の出力なのだと理解できる。
考えなしにバカをやっているわけではない。テーマに沿った理知的な脚本である。


それはそれとしてアメリアの淫夢とかは意味不明である。狂う。すべてを理屈付けするわけではない、堅苦しさを感じさせない作劇が素晴らしい。

ちなみに直近の8話ではこのような形でネタをシナリオに組みこんでいた。
貴族なのに虫好きなんて変と思いこんでいた過去のクラリスは、貴族として期待される自分を演じ続けたアメリアの似姿だ。レイとの出会いがありのままのクラリスを肯定した結果がこの寝巻きである。全体を通して浮いていた彼女が、ネタを媒介にアメリアとの対比に接続されている。タブンネ

畳みかけるようなトンチキで単話エピソードの満足感を保証しつつ、芯の通った長尺の総体ストーリーを連携して進め、クライマックスに至る。
言葉にしてみればオーソドックスで強度の高い構成である。連続形式の作品としては間違いなく理想形といえる。

……もっとも、こうした構成自体はいたって普遍的な代物だ。王道ならではの強さもアトリビュートであって『冰剣の魔術師』の本質ではない。

④アニメ『冰剣の魔術師』の本質とは?

本題に移ろう。
TVアニメ『冰剣の魔術師が世界を統べる』の本質とは何か?

それは…………





























わかりませんでした!





























いかがでしたか?






























や、いち視聴者の分際で本質とか言い切るのも気が引けるし……(突然の弱腰)。

でもまあ、そのうえで私見を述べるなら発想力エンタメ精神はデカいと思う。

この記事はTVアニメという「枠組み」から『冰剣』を分析した駄文だが、「ジャンル」という視点から本作を紐解いてもたぶん似たような結論になる。
説明シーンの妙。モブの名前遊び。水着回の超圧縮。シーン切り替え後も残るネタの跡。深夜アニメの、ある種ろくでもない文化に根差したアイデアは多く、それでいて何十本も観るようなヲタクが嬉しくなるポイントは的確に掬いあげる。
『冰剣』のお約束の運用と取捨選択は卓抜している。肉食った感ならぬアニメ観た感、視聴後の満足度が大きいのも、深夜/ラノベアニメというジャンルが築き上げた文法を踏まえていることに起因するのだろう。洗練と革新。

ともあれ『冰剣』の30分は徹底してエンタメを志向している。あの手この手で視聴者に楽しさ面白さを提供するスタンス。枚数をほとんど費やしていないシーンでさえその点は変わらない。
そも、フォーマット芸などはリソース面ではやらないほうが無難なわけで。そこに労力を割き、価値を創出できるだけの斬新な発想力こそが、映像・物語の魅力をも支える本作の柱なのだろう。と思うわけです。
視聴者が『冰剣』を観て覚える歓喜、驚愕、感動、そして笑顔。本質と呼べるものはおそらくその感情の理由を辿った先にある。

かくも窮屈なTVアニメというレギュレーションの中にあって、どこまでも面白おかしく、奔放自在に画面を駆けるエンターテインメント。
さながら無駄のないレシピによって作られた最高の大衆料理。
全話納品済みらしく、放送延期になるような心配もない。残り4話、リアルタイムでこの最新の伝説を見届けていきたい。

『冰剣の魔術師』が統べるもの。それは現代のTVアニメという先鋭化と氾濫が極まった娯楽およびこれを享受する人々――「時代」そのものなのかもしれない。

*1:ここでは特性、象徴の意とする。

*2:語れるとは言っていない。

*3:「冰剣の魔術師が世界を統べる」榎木淳弥インタビュー - アキバ総研

*4:単話の面白さを確保したうえで「一気に見るとより面白い」なら全然OK。

地上に瞬く星々への歌 ~TVアニメ「連盟空軍航空魔法音楽隊ルミナスウィッチーズ」覚書~

戦ってみんなを守る統合戦闘航空団のウィッチ達とは真逆の航空団、戦わないウィッチである彼女たちは、“歌や音楽”でみんなの笑顔を守る!それが彼女たち「連盟空軍航空魔法音楽隊ルミナスウィッチーズ」なのです。(公式サイトより抜粋)

TVアニメ『連盟空軍航空魔法音楽隊ルミナスウィッチーズ』を観た。

ストライクウィッチーズ』(以下『SW』)を基とする架空戦記プロジェクト『ワールドウィッチーズシリーズ』の10周年記念作品であり「戦わないウィッチ」を標榜する外伝的作品。シリーズの特徴となる、キャラのモデルと類推できる歴史上の人物は存在する*1が、もうひとつの特徴である過度な露出は鳴りを潜めている。令和だしね。
監督はシリーズの根幹を成す天才アニメよろず屋・佐伯昭志氏。スタッフには同監督が手掛けたアニメ『放課後のプレアデス』『アサルトリリィBOUQUET』の流れを汲む面々を揃え、企画発表から足掛け4年、紆余曲折あり今夏放映された。
20年代に刻まれる名作なのは論を待たないところ。

この記事は独自解釈を交えつつ全話の流れを追うことで、自分で理解したつもりになるための個人的な備忘録である。数年後に読み返した時「リアタイ時はこんなふうに見てたな~」とか笑うための記録。
リーダビリティとか期待しないでね。ぶっちゃけ書きながら考えてるし。まずは形から入るってアイラ様も言ってたし。勢いは大事だし。
ざくざく進めるべく、2話単位でテーマをまとめて書き出している。8割は筋書きで感想らしい感想は「萌え」「えっち」くらいしかない。
長くて行ったり来たりが大変なのでたまには目次もつけておく。またの名をスキップ機能。全部目通すの自分でもしんどいしな……。

 

1-2話 人の光を見つける物語

(ジニーの歌を聴いたグレイス少佐が新しい歌唱部隊員を募る。ぽんこつ・わけありのウィッチが集い、新しい音楽隊が発足する)

舞台の幕明け前の下準備、最序盤となる2話まででは各キャラの紹介と彼女たちを加えた新しい音楽隊の設立が描かれる。
物語開始前の時点で音楽隊はすでに存在するが、少なくとも軍上層部からはその価値をほぼ認められていない。隊員であるアイラとエリーもやりがいを感じてないように見える。
2年前に魔法力を完全に失って前線を退き、今は音楽隊を指揮している隊長・グレイスは老女・フェリシアの激励を受ける。

グレイス「翼を失ったウィッチにはなかなか居場所がなくて」
フェリシア「今のウィッチには未来の姿よ。もっと輝いてお見せなさい」

フェリシア「あなたのしていることは小さな光かもしれないけど、集まればもっと美しく輝くでしょう」
グレイス「光を集める……」

タイトルも冠する「光」。作中では主に比喩として用いられる。見る者の心を明るくするような物事・人といったニュアンスか。
活き活きとした姿、頑張る姿、その人らしい姿、そして笑顔。
輝く人の姿は見る人を照らし、憧れや希望を与える。照らされた側が触発されて輝き始めることもあるだろう。
逆に言うと、他人を元気づけるにはまずは自分が輝く必要がある。

本作はウィッチたちが自分の「光」を見つけたり取り戻したりする話でもある。
自分でも気付かなかった・目を逸らしてきた・失いかけた想いや個性。それらが他者との交流を通じて鮮やかに輝くさまが幾度も描かれる。他人の視点を通して見れば、と表現してもいいかもしれない。
ある意味、観測者の存在によって光っている/可視化されているとも言えるだろう。ウィッチにしか視えない精霊のように……というとこじつけが過ぎるか。

閑話休題
要は魔法力を失ったグレイスがそれでも軍で活き活きとしていれば、やがて同じように力を失う後続ウィッチの道標になるよって話。
ウィッチとして戦力にならないルミナスのメンバーにかかっているようでも、終盤におけるジニーの物語を見据えているようでもある。

自分たちをぽんこつだと自嘲するミラーシャといのりを見て、ジニーはひとり立ち上がり、こう告げて、歌う。

ジニー「気分が落ちこんだときは歌を歌うといいよ。落ちこんだときも、楽しいときも、なんでもないときも。歌を歌うと幸せな気持ちになれるから!」

アルバート記念碑の前で心から楽しそうに歌うジニー。きっと誰の目からも太陽のように輝いて見えただろう、そう思わせる美しい歌声である。
歌を耳にしたいのりは目を見開き、グレイスは隊の増員を思い立つ。ジニーの歌という「光」を浴びたことによるふたりの発光、そしてその連環のはじまり。

グレイス「地上の星を見つけなきゃ……もっとたくさん……」

日は変わり、隊員を募集するグレイスの前にミラーシャたちぽんこつが集っていく。
一方でいのりだけは自分は志願せずにジニーを推薦し、夜にはジニーを探索するべく一同と共に空へと向かう。
名を呼んでも返事はなく、代わりにいのりはジニーが歌っていた曲を歌い出す。
モフィの魔導針が歌を受信し、ようやくジニーは呼びかけに気付くが、肝心の返答はいのりたちに届かない。

ジニー「やっぱり私の声はどこにも届かないんだ」

こぼれた言葉からは長年重ねた失意と諦念が垣間見える。
受信専門のナイトウィッチ。世界中の声が聴こえるのに自分の声だけが世界に届かない。
ジニーが膝に顔を埋めると、魔導針が煌々と輝き出す。

太陽の光で輝く月も誰かを照らす光源たりうる。月は広がっていく光の象徴であり、本作の基本構造。受信することで発光する魔導針も月の似姿っぽい。

宙に身を投げたジニーを受け止めるべくひとりで空を飛んだ(飛べるようになった!)いのりはさっそく隊にジニーを勧誘し、ジニーはそれをノータイムで快諾。

いのり「ジニーちゃんが歌ったら、きっと絶対すっごく素敵だから!」
ジニー「でも、いのりちゃんだって歌いたいよね。いのりちゃんの歌も素敵だったよ」

いのり「だって、歌えばきっと見つけてくれると思って」
ジニー「うん、見つけたよ! いのりちゃんも私を見つけてくれた!」

ここには両者の相互的な発光と発見の循環がある。
記念碑前でのジニーの歌と、夜空でのいのりの歌を通して。
いのりはジニーの、ジニーはいのりの、歌いたい気持ちと声の素敵さを。
物理的な意味だけではなく、互いの「光」――想いと個性を見つけあった。

元々志願していなかったふたりはこの後揃って音楽隊に加入する。
ジニーは他に配属先がなくて飛ばされてきた形だけど……。

3-4話 届け手と受け取り手の関係

(戦場を離れたことを未だに悔しく感じているアイラが、客の笑顔を通して昔の笑顔を取り戻す。音楽隊が「歌うウィッチ」として確立される)

アイラ「音楽が人を救うなんてこと、本当にできるのかな」
エリー「さあね」

グレイスが信じる音楽の力について半信半疑なふたり。
そもそもふたりは望んで音楽隊の活動を始めたわけではない。アイラは魔法力の減衰によって、逆にエリーは発現の遅れによって、それぞれ前線で戦えないため配置転換を余儀なくされている。
そして今までふたりが隊の活動で歌を届けてきた相手は、ふたりの歌をアクセサリー程度に思っている(少なくともアイラはそう認識している)軍のお偉いさんが主らしい。
力を振るい人々を守っていた前線時代と異なり、実際に自分の歌で救われる人を直接その目で見たことがない。アイラが上記のような台詞をこぼすのも無理のない話だろう。

軍人らしさにこだわるアイラはマリアに無理な飛行訓練を強いてしまう。
気を失ったマリアを前に自責の念に駆られたアイラは、自分こそ音楽隊にふさわしくないと語り、一日マリアの看病に勤しむ。
一方ジニーたちは村の子どもたちと交流し、村民とも親睦を深める。

翌日、買い出しのために村に出たアイラと同伴するジニーの会話は印象深い。

ジニー「私、戦闘部隊には入れてもらえなくて音楽隊に入ることになりました」
アイラ「そうか。悔しくはないのか? ウィッチとして生まれたのに人の役に立てないなんて」

音楽隊って役立たずよね、という実感が思いっきり漏れちゃった一言だ。グレイスには聞かせられないよ~!

しかし村でアイラは村民に話しかけられ、昨日ジニーたちと一緒に歌った子どもたちに笑顔が戻った事実を知る。ネウロイから村を守り抜いたウィッチにはできなかったことだ、とも。
アイラは子どもたちに歌をせがまれ、しばし逡巡し、ほどなく告げる。

「ああ、私も歌うウィッチだ」

ここの一連のカット、数瞬の感情のうつろいを直に映す表情芝居こそがアニメという媒体の強さだと思う……顔の描写から逃げないアニメ。作中でも指折りに好きなシーン。

広場で『優しい明かり』を歌うアイラ。
初めに思い起こされる記憶は、エリーと共に大舞台に立って豪奢なシャンデリアを見上げる自分。
歌唱にジニーが加わってから浮かぶのは、故郷でオーロラを見上げる幼い日の自分。
記憶のアイラはどちらも笑顔だけど、前者は固く、後者は無邪気だ。
ミラーシャも加わりトリオでの合唱を終えたとき、夕暮れ空にマナたちぽんこつウィッチの不格好な編隊飛行の軌跡が描かれる。
マリアが発する魔法力の光*2を見て楽しそうに笑う子どもたちとジニー・ミラーシャ。

アイラ「楽しそうに笑うんだな、お前たちは」
ジニー「それ、アイラさんも一緒です!」

幼少期の笑顔≒ジニーたちの笑顔≒今の笑顔。クッションを挟んだ筆致がイイね。

オーロラ、シャンデリア、そしてぽんこつウィッチの編隊飛行という「戦場から離れた地の光」を並べ、それを捉えるアイラの心境の変遷を写し取る。
歌を届けた子どもたちの笑顔によって、自らも昔の笑顔――「光」を取り戻す。
『優しい明かり』という副題がとても合う、受け取り手(子どもたち)-届け手(アイラ)間の「光」の循環を描いた素晴らしいエピソード。
隊長に威厳がないのは困る~とグレイスの表情をたしなめるアイラも味わい深い。

また一夜明け、音楽隊は初のコンサートのための本格的な準備を始める。
班分けを通じて各々の得手不得手、各分野への興味関心が改めて描かれる。見習い期間のため担当を割り振られなかったジニーは、各班の見学に際して困ってる子たちにアドバイスを残していく。*3
相手の「光」を見出す/引き出す、受信者・ジニーのセンスが発揮される一幕。

ジニー「ミラーシャちゃんは誰に歌を届けたいの?」
ミラーシャ「ええ? そ、そりゃアイラ様とか、アイラ様とか、あとアイラ様とか!」
ジニー「届いたらどんな気持ちになってほしい?」
(ミラーシャといのり、村の人たちの笑顔を思い出す)
ミラーシャ「!……そっか、わかったかも」

本作では歌を受け取る側の存在が常に意識されている。
音楽隊が輝くということはすなわち客を照らすということ。受け取る側をどう照らしたいかから逆算し、どう光るべきかも見当がつく、みたいな。
また、コンサート前夜の宿舎ではグレイスたち3人のこんな会話も。

エリー「だって隊長が淹れてくれたこのコーヒー、すっごく美味しいですもん」
グレイス「はあ」
エリー「どこで誰と飲んだか、誰が淹れてくれたか、どんな形のカップだったか。そういうこと全部が素敵な体験になる。音楽もきっとそうじゃないですか?」
アイラ「このコーヒーの味はずっと忘れませんよ、隊長」

コーヒーを飲む=受け取る側の視点に立った、体験そのものの肯定。
届ける側の完成度がライブという体験のすべてではない。受け取る側の環境もまた音楽を形作る一部なのだ、と。このへん現地勢の皮膚感覚っぽいね。

コンサート当日、いつにない緊張を覚えるエリーとアイラが舞台の幕を開け、続けて村娘風の衣装を着たジニーたちが……萌え!

「連盟空軍第72統合戦闘飛行隊編隊支援中隊航空魔法音楽隊、です!」

衣装替えをした直後の9人の挨拶はバラバラで揃わない。なんならこうして打つのも大変。早口言葉っぽくもある(やってみよう! マジでむずいぞ)。よくわからんけどウィッチってこと? と首をかしげる村人のおばちゃんの気持ちもよくわかる。
一方、9人を間近に見続けてきた村の子どもたちは彼女たちが何者かを、ともすれば今の本人たちよりも正確に捉えている。
曰く「歌うウィッチ」。

四角い板に色とりどりの文字で書かれた名前と子どもたちの笑顔。隊の本質。

機材トラブルを乗り越えてストライカーで飛翔したジニーたちは、上空から子どもたちが掲げた『LUMINOUS』のプラカードを発見する。
演奏を終えてステージに降りてきた9人は、〆の挨拶で今一度名乗る。

「連盟空軍航空魔法音楽隊、ルミナスウィッチーズです!」

軍によって付けられた区分けのためだけの機械的な名称から、歌を受け取る側の目線を通して命名された輝く像へ。
「歌や音楽でみんなの笑顔を守る」という、隊全体で発する「光」の指向性がここに定まり、自己認識の確立と共に名乗りの声が揃う。エモーショナル。
……でも頭と尻尾だけ残してばっさり略してるのは正直ちょっと面白い。

余談だけど本作のタイトルも公募で決まったらしい。音楽隊ウィッチーズ(仮)→ルミナスウィッチーズとな。こういう現実のエピソードも作劇に反映されているのかもね。

雨上がりの夕空に描かれた五線譜と9つの輝く星。まんまルミナスのメタファーだろう。光が集い、音楽を奏でる。

5-6話 あなたがあなたらしく居られる場所

(シルヴィとジョー、そしてマリアがありのままの自分を隊内でさらけ出す。前2人はペルソナを含めて肯定され、マリアはマナの助力により開き直れるように)

ここからはワールドツアーが始まり、部隊は世界各地を巡ることになる。
最初の訪問国はシルヴィの故郷・ロマーニャ公国。しかし当のシルヴィは浮かない顔である。
飛行機に乗ったいのりはウィッチでも怖いものは怖い! と言って折り紙を折る。気を紛らわすためにめっちゃ折る。
隠し立てせず自分の弱みをさらす、この編の縮図みたいなシーン。

ステージに出たくない、ロマーニャだけでいいからとシルヴィはグレイスに頼む。
公室の血を引くシルヴィは実戦部隊では腫れ物扱いされていた。音楽隊に転属となり、慰問活動に励んでいる現状をロマーニャに住む父には知られたくないと言う。

グレイス「けど、知られたくないのは本当にお父様にだけ?」

隊の仲間に出自を知られたくないシルヴィの心境を見透かした台詞。
ここでシルヴィの嘆願を拒否せず「考えておくわ」と保留するグレイス少佐のじんわりと染みるような優しさがとても好きです。

ジニーたちの案内がてら首都ローマの街を訪れたシルヴィは、住民から亡くなった母・ローザと見間違われてとっさに走って逃げ出す。そうしてたまたま行きついた先は母が眠りに就いている墓地だった。
シルヴィはいのりが作った折り紙の花を真似て、チラシで青い桔梗――母が好きだった花――を折って供える。

シルヴィ「本当のわたくしを知られたら、また遠ざけられてしまうから。けれどそうやってみんなに嘘をつかなくてはならないことが今は苦しいんです。シルヴィ、シルヴァーナ、どちらが本当のわたくしなのでしょう」

弱音を吐くシルヴィは墓参りに来た父と偶然再会し、再度逃亡。
今度は教会に辿り着き、シルヴィを探していたジニー・ジョーと落ち合う。
天井に描かれたクーポラ*4の騙し絵をすごい、綺麗だと言うジニー。

シルヴィ「本物とは違うって裏切りじゃない? 騙されたのよ? それってすごいかな」
ジニー「でも綺麗だなって思ったのは本当だよ。これが絵なら私、この絵好きだな」
ジョー「うん、あたしも」

嘘でも本当でも、目に映る形は形で、綺麗なものは綺麗。
受け取る側のピュアな価値観はシルヴィの心をほぐす最初のとっかかり。

その夜、シルヴィは同じ寝室でダンスの練習をするジョーを目撃する。
片や家族を養うため、片や家名に縛られないために軍属となったふたりが、この部隊での仕事を楽しんでいることが語られる。

ジョー「部隊章を考えたときもシルヴィと一緒に衣装を考えたときもさ、おれ、すっごく楽しかった!」
シルヴィ「おれ?」
「あ、いや。あたし男兄弟ばっかだったもんで、気を抜くと家の感じが出ちゃうんだ。気いつけてたんだけど。恥ずかしい……」
「!……バカね。音楽隊は誰もそんなこと気にしないでしょう?」

おれ、という一人称が漏れてしまい照れるジョーにシルヴィは息を呑む。
家柄に由来する個性を隠そうとする今のジョーはシルヴィの写し鏡だ。
そんなのは杞憂だとジョーに告げることで、他ならぬシルヴィ自身もまた、この部隊はありのままの自分たちを受け容れてくれる場所なのだと理解する。
よく似た他人を認めることで自身をも肯定できるようになる。人に向けた優しさが跳ね返ってくる構図はこのアニメの十八番である。

鏡越しにシルヴィが、ガラス窓越しにジョーが視認して確かめたのは「他人から見た自分の姿」である。隠そうとしたシルヴィと直そうとしたジョーの対比。

より美しいダンスを客の目に映すべくジョーは努力している。
なら、当の自分は音楽隊の一員としてどんなことができるか。
嘘も本当も関係なく、大切なのは客に何を届けるか――決意を固めたシルヴィはジョーが考案した衣装である白いリボンを身に纏う。
幼い日の姿、シルヴァーナを名乗っていた頃の「光」を取り戻す。

ジョー「シルヴィがシルヴィだったら、シルヴァーナのお姫様でも、ルミナスウィッチーズのシルヴィでも、なーんも変わりゃしねえんだな!」

シルヴィ「喋り方がどうだってジョーはジョーでしょ?」

ライブ後、身分を告白したシルヴィと一人称:おれをまたもこぼしてしまったジョーがそれぞれ仲間たちに受け容れられることで隊の中での話は終わる。ジニーがシルヴィとジョーをそれぞれ「かわいい」「かっこいい」と表しているのがイイ。ヴァージニア・ロバートソン……やはり(他者の「光」を観測し受信する)天才か……。
以後、シルヴィはステージ上でのリボン着用が、ジョーはおれ口調がデフォに。嬉し~。

カリニャーノ公「この厳しい時代の中、彼女たちが何者かを問うのではなく、何を伝えようとしているのかに耳を傾けましょう。戦わないウィッチであっても、彼女たちの人々を想う心になんの変わりがあるでしょう」

そして、この回の評価をワンランク押し上げるシルヴィ父の〆の一言。
子どもたちが素の自分を認めあう物語の外側には、素がどうであれより良い自分を見せようとした努力こそを認めよう、と説く大人の優しさがある。それがひいては音楽隊を許容する社会の話にまで敷衍される。
たとえ偽物でも母に桔梗を贈ろうとシルヴィが折った想いの結晶、チラシの花を胸に挿したシルヴィ父の写真のアップで終わるのが素晴らしい。

5話は台詞がぎちぎちに詰まっておりやや性急な印象もあるが、脚本の完成度は決して他に見劣りしない回である。衣装・鏡・演技・作り物という様々なモチーフが「他者の視点から見えるもの」という要素を軸に美しく連動している。

さて、ロマーニャでのライブを皮切りにステージを重ねた音楽隊は、今度は休暇を兼ねたトランジットでギリシアに逗留することになる。
マリアはアクロバットを組みこんだ演目の刷新を提案するも、肝心の飛行訓練には乗り気ではない。生来虚弱で単独の長時間飛行を困難とするためだ。
同じく飛行が苦手ないのりはマリアに「頑張るから理想の演目にして」と伝える。しかしマリアは無関係な話ではぐらかす。
自分の個性から目を背けるさまは5話序盤のシルヴィに近い。

窓から射しこむ光は空へと続く扉や道のようでもある。今話は光と窓の演出が多用される。脚本・絵コンテ春藤佳奈。

自室で演目を再検討中、屋外に飛ばされそうになるメモの束。自分では演じるのが難しいはずのそれらにマリアは必死に手を伸ばす。
反射的にメモを守ってしまった事実からマリアは未練と悔しさを突きつけられ、今度は自らの手で窓の外に勢いよく投げ捨てる。空に続く窓を閉めて嗚咽する。煮え立つような感情表現、作中随一の鮮烈な描写である。

捨てられたメモを拾い集めたマナは宿舎でマリアにそれを手渡す。
マリアがメモに記した内容はマナがやりたかった動きと同じであった。

マリア「本当はもっと高みを目指したいのに、マリアは虚弱なので。難易度が上がるほどみんなに迷惑が……」

3話ではミラーシャが「頑張ったって無理なことはある」と擁護した虚弱体質。
マナはマリアの気持ちを受け止めた上で、でもよくわからんからとりま一緒に飛ぼう! とマリアを空に連行する。マジ? マジ。
天真爛漫で他人を嫌いになるということがよくわからない――美点も欠点もひっくるめて他人を好きでいられる――マナだからこそ、欠点を抱えたまま飛ばなければならないマリアの相棒にふさわしいのだろう。
5話後のジョーやシルヴィと違ってマリアはこの個性を(なるたけ)克服したいわけだしね。

マリア「ぎゅーんと飛んでぐるぐるぐるーなのです!」
マナ「わかった!」

理論派と感覚派、夜の住民と昼の住民の凹凸が、夕間暮れというシチュエーションにおいて抽象的な言語で噛み合う。
マリアがマナと上昇するためにつないだ手はほどなく離される。相手への信頼と自分への決意。互いが互いに託した光は、くっついたままでは決して描けない二条の軌跡を空に結ぶ。
気を失う~落っこちる~と夜間飛行の前に意気投合していた2話を思うと感慨深い。

マナ「マリアがへたっぴなのなんて知ってるよ。でもマナがいるから大丈夫だよ」

手を離した=強くあろうとしたマリアにマナがこう声がけるのが本当にな……………………。

影を共有し光に照らされる。髪、絡んでますね。伝統芸能だね。

後日の訓練では弱みを隠すことをやめ、開き直ったマリアが見られる。

マリア「なので、マリアをばっちりフォローしてもらうため、余裕で演目をこなせるようになってほしいのです!」

マリア「長時間は飛べません! マリアは虚弱なので!」

弱さと向きあい、強くなろうとし、必要なら弱さを支えてもらう。
ハンデを抱えたまま、高みにある理想の自分――「光」に近づこうとする。
音楽隊は、マナの隣は、マリアがそんなふうに居られる場所なのだ。
実は今この瞬間も頑張って起きてるはずのマリアの姿を、コメディっぽい筆致でくるんで描いているのが本当に好ましい。
ふたりの使い魔であるモモンガとキーウィ(飛ぶ哺乳類と飛べない鳥)が一緒に空を飛んでいく愛らしくも転倒したラクガキで〆。テクい。

……ところで波の気持ちってやっぱ光る棒振ってるヲタクの気持ちのこと?

7-8話 わたしの声は空に届いている

(503部隊を救おうとしたジニーが魔導波の発信に成功し、ボロージャの演奏がサーニャに届く。いのりたちが合奏する。ジニーと彼女のファンの西杉が出会う)

さらにいくつかの公演を経て、音楽隊は次の舞台へ向かう。
空路にて戦闘部隊・503部隊と軽く挨拶を交わした翌朝、一同は次の開催国であるオラーシャの疎開都市に降り立つ。
ジニーたちはひとまずその地に住む女性・アンナを訪ね、体調不良のモフィを診てもらうことに。
次の日には容態は快癒するのだけど、その診断内容が興味深い。

アンナ「使い魔はその土地の気を受けて育つから、居場所が変わると調子を崩すことがあるんだけど」

アンナ「まあ食べすぎってとこかしら。何かの原因で大地や空を循環する気の流れが妨げられて、身体の中に溜めこまれている感じ、かしら」

アンナ「そう。この子は自分自身が何者かもわかっていないのね」

色々と示唆に富んだ台詞で、ジニーと重ねて読むこともできる。
というかアンナさんモフィ視えてないんだよね。診断なのに祖母が遺したメモばかり見ているのも納得である。

都市の状況を鑑み、グレイスは場所を問わないラジオコンサートを企画する。
事のついでにジニーたちはアンナの夫・ボロージャに、娘の誕生日にピアノを弾いてラジオで流さないか、と交渉。
ピアニストの手ではなくなってしまった(=「光」を失った)と語るボロージャに3人は懸命に食い下がる。
特にジニーがここまで感情を露わにするのはとても珍しい。自分の声が届かない現実に深い諦観を覚えている分、余計にボロージャには簡単に諦めてほしくないのかもしれない。

ミラーシャ「いつものあんたらしくはないけど、まあ悪くない意味でよ」

何事でも受け容れるたちだけど誰かのことになると必死になる。
ジニーという少女の美徳はこの7話と10話で大きく発露する。

コンサート当日、ネウロイの襲来を上空の503部隊に知らせるべく、音楽隊は嵐の中を飛ぶ。
白鍵ひとつでは何も弾けなくとも揃えばピアノになるように。
街の人々の助力によってボロージャが演奏会を開けたように。
みんなと手をつなぐことでジニーも分厚い雷雲を切り抜けられる。
過酷な環境下でなお、自分が自分らしく光るための方法。

ここに至ってジニーが魔導波の発信にやっと成功したのは、モフィが最終話で語られる「成長する精霊」に該当するからだろうけど。*5
あえて心理面に着目するなら、溜めこんだ想いの爆発なのかも。
受信と諦めの日々の中でじっくりコトコト膨らんだ鬱屈が、他人のための叫びとなって4000km離れたブリタニアにまで届いた、みたいな。
503部隊にインカム越しにしか挨拶できなかった件も思うところがあったかもしれない。ワールドツアー中もそんな出来事はしょっちゅうなのかも?

503部隊によるネウロイの撃破で通信障害は回復し、ボロージャのピアノはヨーロッパに居る娘・サーニャにまで届く。

レジェンドライダー出演! クソデカい月もルミナスをイメージしているかのようだ。後付けだけど。

今話は『SW』1期6話『いっしょだよ』の裏側を描いたエピソードでもあるのだけど、単品でも完成度が高く、ジニーの物語の転換点となっているのが素晴らしい。サービス精神とクオリティの両立は優れた外伝の条件である。
どうでもいいけどサブタイ『太陽の理由』って『SW』6話で宮藤が太陽のタロットを引いた理由と、ジニーが太陽のように自ら発光(発信)できた理由のダブルミーニングなんじゃないかなー、なんて書いてみたり。

続く8話はいのりの故郷である扶桑皇国を訪れる回だが、話の中心となるのはミラーシャ・いのり・アイラの3人と多い。また、アイラとの対比を通してジニーの変化が示される回でもある。
神社へのお参りでみんながツアーの成功を祈願する中、ひとりモフィの帰還を願うジニー。悪かないけど自分へのお願いではないよね……。

実家に着いたいのりは幼い頃習っていた琴の演奏をジニーにせがまれる。しかしいまいち気乗りしない。琴自体が嫌いなわけではないのに。祖母ほど上手く弾けなかった悔しさに由来する苦手意識らしい。
一方、舞台での失敗を引きずるミラーシャはエリーに対抗心を燃やし、家事で全敗した挙句なぜかストライカーによる飛行勝負を申し込む(なんで?)。ミラーシャは辛くも勝利し……かけるもバードストライクを回避して海に落下。
夕方、いのりに薬を塗ってもらっている時、ミラーシャは巾着から割れたレコードを取り出す。いのりに聴きたいとせがまれ、ミラーシャはアカペラで曲を独唱する(すごい!)。

同刻、縁側でエリーが語るミラーシャ像には尊敬の念がにじみ出ている。

エリー「あたしもミラーシャもさ、ネウロイに故郷を追われたんだ。みんなそれぞれ理由があって音楽隊にいるけど、帰る場所がないのって結構つらいはずなんだ。でもミラーシャは何に対しても一生懸命で。そんな姿見てるとさ、あたしのほうも元気をもらえるんだよね」

負けん気が強く向上心があり、いのりの求めにも応じられる。ミラーシャは強くてカッコいい。光り輝いている少女である。
けどそんなミラーシャも常にひとりでに光っていられたわけではない。
今のミラーシャがいるのは、つらい日々に寄り添うアイラの歌があったからだ。

その夜、いのりはミラーシャにボーカルを頼んで琴を演奏する。

演奏を終える頃にはいのりの表情はすっと和らいでいる。1話でジニーが言った「歌う喜び」ならぬ「弾く喜び」を思い出せたのかもね。

かつてアイラが歌った『あの日々を忘れない』がミラーシャに「光」を与え。
ミラーシャの歌声が、失った「光」である琴と向き合ういのりの支えとなる。
ここには音楽を媒介とした、アイラ→ミラーシャ→いのりの「光」の連鎖がある。受け取る側が届ける側に立ち、また別の誰かに光を届ける。

アイラ「あの頃はまだ自分の歌が誰かに届くなんてことが信じられなくて。まして歌で誰かを救えるなんて」
ミラーシャ「私には届きました! 他にもそんな人はいるはずです、きっともっと!」

届くと信じて歌ったわけではないアイラは、入隊前のジニーと同じ。
決定的な差は、現実に誰かの耳に届いていたか否か。
では今のジニーの歌はどうなのか。みんなが寝静まった後にそれは描かれる。

レジェンドライ……? どこの作品が出典か調べちゃったじゃないかもー。

扶桑の新人ナイトウィッチ・西杉はジニーの大ファンだという。
彼女の存在は、ずっと受け取る側だったジニーが今では届ける側に立っている――昔のミラーシャにとってのアイラがそうだったように――ことの証明だ。
魔導波も出た。歌も届いていた。
もうジニーは受信専門ではない。

西杉「みなさんの音楽には人々を笑顔にする力があります」
ジニー「私も、歌うと笑っちゃうんだ。楽しくなって」
西杉「その気持ちがきっとみんなに伝わってるんです。私にも」

グレイスが信じる歌の力の本質がこの会話に凝縮されている。
スト2話へのストレートなパス。

空へと飛び立つ軍人を見送る構図の重ね合わせで〆。「その浴衣すごく似合ってますよ」といい、ジニーが軍属より民間人寄りのキャラであることの暗示のよう。

9-10話 故郷を離れた者たちの居場所

(ニューヨーク中の空に歌を届ける。ジョーとシルヴィが互いを姉妹のように思う。ガリアで生き延びていたエリーの元飼い猫に家族ができており、エリーは猫を拾わず置いていく。ジニーがモフィを仲間のもとへ送り出す)

ワールドツアーの終幕を飾る地はジョーの故郷・リベリオン合衆国。
未だネウロイの侵攻に遭わず興行を続けるブロードウェイ。ニューヨークは夜でもきらびやかな灯りと音楽に包まれている。

アイラ「この戦時下にこんなにも人の心を動かすエンターテインメントが溢れているなんて」

アンチ富裕層アニメに堕していないのが今話の立派なところ。
娯楽・芸術は人々の心に余裕をもたらし笑顔を生む。ブロードウェイも音楽隊の慰問もひとしく文化の光である。ネオンの灯はリスペクトの対象であり、ネウロイの被害を受けた各国が取り戻すべき景色でもある。
会場となる沿岸要塞・フォートジェイの説明を終えてグレイスは言う。

グレイス「コンサートには軍上層部や財界の要人も見に来ることになっているわ。いいステージにして今後の支援を取りつけましょう!」

軍の上層部にとって島でのショーは広報の一環に過ぎない。戦時国債の購入促進キャンペーン。生々しい字面だ……。
しかしスポンサーあってのルミナスウィッチーズであることもまた事実(KADOKAWAとブシロの提供でお送りしています)。資本の力は否定されない。新しい衣装がその結実だ。グラデがかった上物の布も、縫製工場の生産力も、布の使用を躊躇うジョーの背を押したシルヴィの価値観もまた、豊かさが育んだ産物である。
ノースリーブの4人えっちすぎる!

とはいえ今回のショーが労働者階級に手の届かない高嶺の花なのは変わらない。
街の人にも見せてあげたいジョーの話を聞いてアイラは考える。

アイラ「私たちは誰に向けて歌を届けたいのか」

後のステージを見れば自明である。貧しい人々へ、ではない。
ニューヨークに住むすべての人へ。
アイラは届け手としてショーと向き合い、みんなと演目を完成させる。

国旗を模したリベリオンの星と庶民に親しまれるドーナツの輪。富の象徴たる摩天楼の頭上、格差を越えた空に刻まれる。

ロンドンで権力者相手に歌い、腐っていた頃とは見違えるような変化。
現実を踏まえた上でやれることをやり理想を実現していく。グレイスとアイラのしたたかさは隊を引っ張っていくエネルギーだろう。さすが隊長とリーダー。

年長組と並べて描かれるのが最年少者・ジョーのドラマである。
年齢について言及されたのは今回が初ではないだろうか。ジョアンナ・エリザベス・スタッフォード12歳。本人は「もう」と言うけどまだ子どもよ。
ジョーを軍にいざなったのは家庭の困窮とウィッチの資質だけど、回想の表情を見る限りではやはり乗り気だったとは思えない。弟たちの誰とも似ていない荒っぽい言葉遣いといい、大人になるしかなかった子って感じ。

橋向こうから帰ってくる父を迎える此方側=故郷を旅立つジョー。直後の取り繕った笑顔を家族に向ける姿は健気すぎる……。

望むと望まざるとに関わらず身についたジョーの言葉遣い=自分らしさ。
家族向けのその口調を隊の中で発せるようになった5話から、音楽隊はジョーにとって第二の故郷になったのだろうと思う。
そのきっかけをくれたのは、他ならぬジョーが救ってみせたシルヴィで。

此方と彼方の境界である橋の空にふたりはドーナツを浮かべる。
家族との惜別の場で家族に立派な姿を見せたという意味でも素晴らしいし、格差社会の分断の象徴でおなじみのブルックリン橋*6を庶民の特等席に仕立てあげたという意味でも批評性が高い。
貴族と貧民という生まれの差を越えてつながったジョーとシルヴィが、上流・下流の隔てなくニューヨーク全土の民に歌を届ける。ふたりの関係を反映したようなクライマックス。話の組み立てが巧すぎる……。

ジョー「おれ、長女だからよくわかんねえけど。姉ちゃんがいたらシルヴィみたいな感じなのかな
シルヴィ「私だってひとりっ子だからよくわからないけど。妹がいたらこんな感じかなって」

家族のもとを離れたジョー/シルヴィに家族のような存在ができた。そこがふたつめの居場所になった。今話は社会を描きつつもそんなミクロな話で幕を閉じる。
よく考えると次話への前フリ。ジョーとシルヴィ≒エリーの元飼い猫と仔猫ってね。
またも余談だが、エリーが故郷を追われたのは13歳くらいの頃である。ほぼ今のジョーと同じ年頃。冒頭で3年前~と言及しているのは「幼くして」故郷を追われたエリーとジョーを重ねる意図もある。タブンネ

続く第10話『故郷の空』は全話通してもかなりの傑作で、この回を咀嚼するの私には無理では、野暮では、と思うのだけど、ここまで覚書を進めた手前、一応整理を試みてみる。
語らなさと間に詩情を宿して、画と音で雄弁に物語る。アニメの真髄みたいな回。

501部隊が達成したガリア奪還の報に沸きたつ人類。音楽隊も広報活動に追われ、凱旋記念式典への出演も検討されている。移動中の車内で「歌う仕事はないのかなあ」と呟くジニー、歌が好きなんだね~。
ガリア出身のエリーは取材や宣伝の矢面に立つはめに。シリーズの裏面とも言える本作が直球のプロパガンダを描くのは皮肉というか自己言及っぽい。『SW』本編はフェイク!『501部隊発進しますっ!』こそが世界の真実!(陰謀論)(発狂)

エリー「人々が故郷や家族と再会できるよう今後も戦っていきます」

今話の核心じみた台詞である。カンペ棒読みのエリーは冷めた目で感情の機微を読み取らせないが……。

エリー「今はこれがガリアのためにできることだと思うよ。あたしたち戦線で戦ったわけじゃないんだし、こうして役に立たないとさ」

魔法力の発現が人より遅く、前戦に立てなかったエリーはウィッチとしてある種の負い目を感じている。自分の手でガリアを守れなかった過去への悔恨。
エリーの胸に刺さっているのは以前のアイラと同質の棘だ。音楽隊にやりがいを覚えている今もなおそれが抜けないのは、疎開の際に置き去りにした――見殺しにした――飼い猫の一件があるからだろう。うまくやれてる今がやれなかった過去を帳消しにしてくれるわけではない。キツいぜ。
だいぶ上に記載した、3話の「さあね」という台詞も効いてくるというもの。

視察のためガリアへの同行を求められたエリーは及び腰な様子。
故郷が今どうなっているのか知りたくない。失われたものを確かめるのが怖い。
躊躇するエリーに、ジニーは帰れるなら帰ったほうがいい、と告げる。

ジニー「私ね、モフィがいたからみんなと飛べたんだ。(中略)でもそれは、選び取ったんじゃなくてそうするしかなかったっていうか。このまま私の傍に居て、モフィが自分の翼を手にできないとしたら」
エリー「そんなふうに思ってるの?」
ジニー「故郷の仲間と会ってモフィがもっとたくさんの未来を選べるようになるなら。今度は私がその力になりたいんだ」

自分が一番自分らしく居られる場所と、その選択について。
疎開野戦病院→音楽隊と居場所を転々とし、故郷を失った今の生活にも慣れてしまったと8話で語ったエリーと、群れからはぐれてなし崩しでジニーの傍に居るモフィが対比される。
こう並べてみると、今回はエリーが自分の居場所を選ぶ話でもあったのかも。

ジニーに背中を押されたエリーは一念発起してガリアに帰郷し、折れたエッフェル塔がそびえる廃墟と化した街を目撃する。
使い魔のリオに元飼い猫を幻視し、過去の思い出を呼び起こされる。変わってしまった景観の中で今のエリーは幼少期に戻っている。

灰色のポートレートと目にも鮮やかな幼い時分の記憶。自分らしさを殺す広報の日々と、自分らしくいられたかつての日々。

幼い頃のように歌を口ずさみながら空き家となった生家を訪ねるエリー。人工物は壊れたままだが、自然環境は回復しつつあった。

グレイス「よかった。エリーのガリアにちゃんと会えたわ」

ウィッチたちの活躍は動物たちの選択肢も取り戻している。再びガリアに住めるようになった水鳥たちの鳴き声が景色を満たしている。
劇伴控えめで環境音を強調した映像作り、強い。

エリー「あたしの仲間が、その羽根の子を故郷に帰してあげたいんだって」

エリーはモフィとジニーのために、川で会ったコクチョウの精霊を空へと送る。
故郷こそが居場所であり、帰ることが唯一絶対の幸せにつながる。そう信じて疑わない、純粋で視野が狭い、子どもの善性の発露。
故郷を離れた誰かが、行く先を第二の故郷とした可能性にも。
そこを去ることが新たなる別離を生む可能性にも思い至らず、エリーはただ清々しく笑う。

そして、生きていた飼い猫と再会するエリー。
上記の幼さに対するカウンター。差し伸べたエリーの手に猫は頬ずりするが、すぐに離れ、仔猫の毛づくろいを始める。
ボロボロのリボンが流れていった時間の長さを表している。

エリー「ここが、君の故郷なんだね」

エリーは再会した猫を拾わず、そのまま生家を後にする。
猫はエリーについていかず、陽だまりの中で仔猫たちの面倒を見る。
疎開時は共に居ることを選べず否応なく引き裂かれた両者が、今改めて自分の居場所を確認し、別れを選択している。

一同「おかえりなさい!」
エリー「ただいま」

宿舎に帰ってきたエリーたちを迎える一同と微笑むエリー。ここが今の自分の居場所なのだと実感しているようでもある。
ここ、エリーの頬に珍しく赤みが差しているのが本当に嬉しいんだよね……。

エリーのドラマにひと区切りついて、カメラは再びジニーとモフィへ。
エリーに渡されたコクチョウの羽根にモフィは強く反応する。羽根が指し示す先の川ではコクチョウの群れがモフィを待っていた。
人が住む陸と鳥が住む空、その境界となる川でジニーはモフィを手放す。

ジニー「モフィもモフィの空を見つけてね」

みにくいアヒルの子』を下敷きとした、叙情に満ちた妖精譚。ジニーを追って川に踏みこむいのりとミラーシャの姿が胸に沁みる。

モフィがモフィらしくいられる場所を探せるようジニーはモフィを空に帰し、当のジニーは自分が自分らしくいられる場所への切符――魔法力を喪失する。
シリーズを通して専ら悲劇として描かれてきた「(魔女としての)あがりを迎える」ことを、自らの決断をもって為す。なるほど外伝の主人公だ……。
まばたきの間に精霊が見えなくなるの、子どもの時間の終わり感ある。

9-10話はジョー・エリーとその元飼い猫が帰郷と離別を通して、自分の今の居場所がどこなのか改めて確かめる編だった。
ではモフィは果たしてどうだったのか? 他者の背を押し続けたジニー当人は?
その答えは次編までお預けとなる。

ジニー「だけど、今のままじゃモフィはきっと寂しいから」
ミラーシャ「あんまりそうは見えないけど」

……モフィに関しては1話でミラーシャが答え言ってたりする。ですよねー。

EDの一枚絵は荷解きする=ここに住むエリーと荷造りする=ここを出るジニー。ジニーの右腕はもういないモフィを抱きしめているようにも映る。

11-12話 わたしとみんなの歌

(歌いたいという自分の気持ちと向き合い、ジニーが音楽隊に復帰する。モフィがジニーの隣を居場所に選ぶ。音楽隊が世界中に歌を届ける)

ウィッチの力を失ったジニーは出立のための荷造りを始める。
一緒に歌いたくなくなったの? といういのりの問いにジニーは答えない。代わりに、ウィッチでもなくなった自分は正真正銘のぽんこつだからと朗らかに笑う。
面談の場では何らかの形で軍への残留も可能と伝えるグレイス。他ならぬグレイス自身がそうだしね。
しかしジニーの意志は曲がらない。

ジニー「私はやっぱり軍人にはなれないっていうか。使い魔と契約を交わさなくちゃならないことも知らなくて。生まれてすぐ私と会ったからモフィは仲間のもとに戻れなくて」

まず、自分は軍人ではないという自己認識。
次に、最初の契約自体が一方的で、モフィ側に選ぶ権利がなかった事実。

ジニー「私、最初からウィッチじゃなかったんだと思います。みんなと出会えて、モフィを仲間のところに帰すことができただけでも、ここに来られて良かったと思っています」

使い魔と相互に承認しあった契約の上にいない自分は、実は他のみんなと違ってウィッチですらなかったというロジック。

グレイス「忘れないでジニー。私はあなたの歌が好き。あなたがどこにいても、気持ちのままにいられるよう願ってるわ」

グレイスに言えることはこの程度しかないし、これ以上もないだろう。
気持ちのままにいられる場所。あなたがあなたらしく居られる場所。繰り返し描かれてきたテーマが、今度はジニーにスポットライトを当てる。

明け方にジニーは宿舎を出る。置き手紙冒頭の「私を受け容れてくれてありがとう」ってなんじゃい……他者の尊重と自己肯定感の低さがないまぜになってるよ~。
次のステージのための準備をジニー抜きで始める音楽隊。画面もゴリゴリ彩度を失う。回想シーンもかくやとばかり。
このタイミングでアイラが、ジニーに転属の命令が下っていた件を話す。
そも、音楽隊には前線で起用できないぽんこつ・わけありウィッチの掃きだめ的な側面がある/あった。成長してぽんこつを脱したら転属命令が下るのも自然なのだ。有能かつ希少で絶対数が不足しているナイトウィッチは特に。
モフィを仲間のもとに帰さずとも、ジニーは隊を去る運命だった。
どうにもならなかった現実を認識し、いのりは嗚咽する。

ミラーシャ「世の中の誰よりまず、ジニーに胸を張れるような曲を作るの! 私も頑張って詞を作るから! ね!」

作曲の手が止まっていたいのりをミラーシャはこう励ます。
4話の反復。受け取り手を意識すること。ジニーに教わった考え方。

マリア「ですが、9人いると思うとアイデアが自然と湧いてくるのです!」

振り付け班もジニーの存在を仮定することで手が動き始める。
このシーンで私は4話の〆、五線譜の空と星の音符を思い出していた。わざわざ音符をひとつ抜いた曲より原曲まんまのほうが弾きやすい、みたいな。

シルヴィ「作っちゃう?」
ジョー「なんかその方が調子出る気がするんだよな」

上に同じ。最終話で無から衣装が生えてきたらビックリしちゃうしな!

エリー「あたしは、何もかもうまくいくって思ったんだ」

ジニーが軍を抜けるきっかけを作ったことへの罪悪感に苛まれるエリー。
転属の件を知ってなおこう感じてしまうのがエリーの優しさだし、そういう角度からのフォローをせず「正しいことをした」とだけ伝えるアイラも優しい。外からではなく、エリーの視点に立って彼女を慮っている。

アイラ「ステージに立つために我々に必要なのは、まずは笑顔だ」

誰かを笑顔にするために、まずは自分自身が笑顔でいる。
3話で笑顔を取り戻したアイラがこれを言うの、堪らんね。

で、話を戻してジニーである。すべての描写が良い。とても静か。
ストライカーに貼られたモフィのステッカーを撫でながら目を見開いたり、仔牛に背をつつかれてモフィと勘違いしたり。空いた穴を生活の中で浮かびあがらせる。見せ方が巧い。
住み込みで働いていたブリタニアの家の温かさを描いているのも大変良かった。四葉のクローバー、マフラー、駅への送り迎え、何気ないやりとり。一時の止まり木に過ぎなくともその日々も確かに幸福だった。そういう大事なことをきちんと尺を割いて伝えてくる。つくづくいいアニメ。

けど、ジニーはあの家に戻ってから一度も歌を歌わなかったという。
なぜジニーは歌いたい気持ちに蓋をしたのか。推測するのも無粋だけどメモ。
歌えば音楽隊が恋しくなるから。
それほどまでにみんなと歌うのが楽しかったから。*7
より多くの人に自分の歌が届く喜びを知ってしまったから。
でも、自分は音楽隊にいる資格がないと考えているから。

アイラ「ですが、たとえ今は大切な人と離れていても、仲間や家族のことを想う心は私たちも皆さんと変わりません。大切な誰かに届くよう、皆さんも一緒に歌いましょう」

駅でラジオから流れてくる台詞は民衆にも、ジニーにも向けられている。
民衆の中にジニーも含まれている、と表現したほうが正しいか。

そして本作のクライマックスと言えるだろう、列車の中での一幕。
まずは幼い姉妹が、つられて同じ車両にいる乗客みんなが『歌を歌おう』を歌い始める。ルミナスウィッチーズが初めて作った曲。

ジニー「参ったなあ」

ここに至るまで、ジニーが人前で表情に陰りを見せることはなかった。
1話の台詞のリフレインと共に音楽隊でのライブが次々思い起こされる。

ジニー「気分が落ちこんだときは歌を歌うといいよ。落ちこんだときも、楽しいときも、なんでもないときも。歌を歌うと幸せな気持ちになれるから!」

夜の丘で魔導針が受信する歌を歌っていた頃に見つけた、自分の本当の想い――「光」を、今度は笑顔で歌う乗客の歌によって再発見する。
ジニーはなくした魔導針に手を当てるように両耳を押さえる。

音楽隊がジニーの存在を仮定することで隊らしさを取り戻したように 、ジニーはモフィがいると仮定して自分らしさを取り戻した。そんな見方もできるカット。

受け取り手が届け手を照らした3-4話、個性を肯定しあった5-6話、真に届け手となった7-8話、自分の居場所を確かめた9-10話。
これまで散りばめてきた諸要素やテーマが有機的に組み合わさり、主役の背中を押すという、本作の集大成のようなシーンである。
なくしかけた想いや個性――「光」を発見・肯定するというキャラ単位の話の軸と、歌の力で笑顔を生もうとするルミナスウィッチーズの話の軸。双方が「歌いたい気持ちに蓋をしていたジニーの物語」で見事に接続されている。
加えて、山場のトリガーを名もなき大衆へと預ける筆運びは、最終話の「みんな」を主体とした物語の先取りのようにも映る。

子ども「行き先間違えちゃったの?」
ジニー「うん、そうかも。けどやっとわかったの。わかった気がする。すごく簡単なことだけど、私にはすごく難しくて時間がかかっちゃったけど」

そうするしかなくて居場所を出たジニーが、再度その場所を選び取る。
ジニーは乗客に感謝を告げて一路Uターン、出発直前の基地へ。

ジニー「わかったの、私の一番の場所!」

ジニー「ウィッチでもウィッチじゃなくても、私、みんなと歌いたい! ずっと一緒に飛びたいの!」

屋根の上を走って跳び、いのりに抱きしめられた2話終盤の変奏。「私たち飛んでるよ」から「一緒に飛びたいの」へ。飛べなくても一緒に飛ぼうとする。当時は無自覚、今は自覚的。

魔法力を喪失し、ストライカーで飛べなくなったジニーが揃ってからの「ルミナスウィッチーズ、テイクオフ!」の掛け声で〆。痺れる。

ガリアに向かう航空機に乗ったジニーは一同に温かく迎えられるが、軍を除隊したのにステージに上れるのか? とアイラが不安をこぼす。

エリー「なんで! いいじゃん!」
アイラ「それは! 私だってそうなってほしいが、手続きというものが……」
グレイス「ジニーはまだ音楽隊の一員よ」
一同「えっ?」
神谷「いつ辻がサッカー部を辞めたんだよ」
秀人「でも俺、退部届を……」
神谷「ふっ」(内ポケットに挿したままの退部届を見せる)
一同「あ……あぁああ~~~~~~~~~~~~~~っ!!」




驚くジョーたちを前に微笑むグレイスはとっても大人らしい。

グレイス「ウィッチじゃなくなったからステージに立てないなんて、これまでの活動を否定することになるじゃない? 誰だって自分の人生を都合よく乗り換えることなんてできないんだから。他人からぽんこつ呼ばわりされたってそんなこといちいち気にしないで、図々しく生きてやればいいのよ!」

図々しく生きる。自分で自分の生き方を選び取るということ。
隊が世間に応援される口実・実績を少しずつ積み上げ、各所への筋も通してきたグレイスが子どもにはこう伝えるってのが良い。かっこいい大人像。

……この最終話はジニーの転属の件を蒸し返さないまま終わる。
けど、実質的にはこのグレイスの一言で片がついたのだと思う。
エピローグ時点では魔導波の発信がまたできなくなった*8とか、ナイトウィッチの資質を費やすほどの価値が音楽隊に認められたとか、色々と補完する余地はあるけれど。
大事なのは、当のジニーがようやく「音楽隊にいたい」と表明した事実だろう。
「ウィッチでもウィッチじゃなくても」。この言い回しには「たとえナイトウィッチでも」も含まれる(曲解すればね)。
軍人か否か、使い魔がいるか、魔導針の有無、そんなのは他人の物差しである。ぽんこつだろうが有能だろうが、居たい場所を希望する権利はある。
人から掛けられた言葉ではなく、自分の言葉でジニーが再起したのはそういう意味でも重要だろう。
根回しはフェリシアさんやグレイス隊長がなんとかしてくれるよ(ぶん投げ)。子どもを尊重する大人たちが住む世界なのは1話から描いてきてるし。

ガリア着。式典の演説をおやつ片手に聞き流しながらエリーは呟く。

エリー「だって、ここに居た人たちは今もどこかで暮らしが元に戻るのを願ってるよ。みんながそう願ってるんならどんなに大変なことだって、いつかは叶うと思うんだよね」

改めて強調される「みんな」。復興を願う人々について。
音楽隊はあくまで一時の癒しと笑顔を与えるだけである。ガリアに限らず、街の復興を果たす主役は名もなき民衆だ。

日が暮れた会場に客の姿はない。いるのは欧州各国の要人と軍の上層部のみ。
遠く離れた空にも届くよう、音楽隊は高らかに歌う。

自分だけで生きていくこと そうあるべきだと思い目指してた
助けを求めることは弱さじゃない 生きるという本気の強さ

みんなみんな戦ってるんだ自分を賭けて今未来へと みんなの世界は続いてく

『みんなの世界』より。2番から歌詞持ってきてるんだなこのシーン……。
6話のマリアや他の話、というか手をつないで飛ぶルミナス全員に当てはまる。
作中、ひとりで何かを成し遂げた人間なんてほとんどいない。周囲の助力で演奏会に漕ぎつけたボロージャは最たる例だろう。その点では音楽隊も名無しのモブもなんら変わりはしないのだ。
本作は特別な力に選ばれた者の英雄譚ではない。
ひとりでは何者にも満たない子たちが自分の居たい場所を選び、そこで合わさって大きな力を生む、そんな普遍的な成長譚である。*9
ジニーたちの歩みは世界中の人々に敷衍できるモデルケースだ。
……こう言葉にすると正しくアイドルアニメですね。

そして遠い夜空から姿を変えたモフィがステージにやって来る。
大切な誰かに届いたね、歌。ジニーが歌わなかったらモフィもジニーがどこにいるのかわからず、彼女の隣を選べなかったと考えるとなかなか厳しいものがある。
自身が何者かを知り、居場所を選んだモフィの魔導針は、以前のヘッドフォン型からアンテナを象った形状へと変化する。
ジニーたちの歌は魔導波に乗って世界各地のナイトウィッチに届き、それぞれを中継することでさらに世界中へと広がっていく。

地球を股にかけるドーナツ、折れたエッフェル塔を甦らせる光の航跡。9話のスケールを大きくしたようなライブは人類の結束を予感させる。

最終的には音楽隊と聴衆が互いの姿を身近に投影する奇跡が起こる。これはジニーの固有魔法*10っぽい。距離をなくす魔法、ジニーらしいな。

MCを頼まれて壇上に立ったグレイスは流れで『永久の寄す処』を歌う。完全にアメイジング・グレイスになってる(?)。
魔法力を再度手に入れたジニーの後にこれを描くのが偉い。「ウィッチじゃなくなったからステージに立てないなんて、これまでの活動を否定することになる」のなら、まずは他ならぬグレイスが先陣を切る。その姿が世界中の人々へのメッセージにもなる。
グレイスの歌は非ウィッチでも音楽隊でいられることの証明であり、誰もが音楽隊のように歌を歌って周りを笑顔にできる可能性の提示だ。
1話のフェリシアが言った、後続への希望の光にもなっただろう。

サブタイトルの上3コの星もその文脈だよね、という指摘に目から鱗が落ちて失明した。ナイトウィッチだと数合わないものね。

ジニー「お~いみんな~。私たちの声聞こえますか~?」

は~い。映像を映すのがジニーの魔法なので第四の壁もちょっと越えた。
ここ、さらっとミラーシャにファンがいる描写を挟んでるのが抜群に良かった。8話の台詞「他にもそんな人はいるはずです、きっともっと!」×「いつかアイラ様を越えてみせます!」=ミラーシャについた固定ファン。天才の方程式だ。
でも客席がキャラの呼びかけに応えてパーソナルカラーで光るのは草。やっぱりヲタク棒じゃないか💢

ジニー「不思議。私たち、みんなを応援してるつもりだったのに、私たちのほうが応援されてるみたい」

音楽隊の歌が客を照らし、客の応援が音楽隊を照らし返す。
4話・11話と同じ構図。隊の活動の総括でもある。

〆のライブは回想と共に世界中の人々を映し出す。
輝ける音楽隊ではなく、その光を受け取った人たちに重きを置く。彼女たちが何を為してきたかを人々の笑顔が雄弁に語る。

ここで名前テロップが表示される。毎話の名前テロップ自体は同監督の『アサルトリリィBOUQUET』を踏襲した技法だが、本作のそれは「芸名」「ルミナスウィッチーズでの名称」的な側面もある。アクターとしての彼女たちを強調し、讃えるような演出。

『歌を歌おう』はタイトル通り、歌を歌おうと呼びかける歌。
これはルミナスと、ルミナスの活動をきっかけに自分たちの「光」を取り戻した人々によって紡がれる、世界を光で満たす物語である。

後日、元の木阿弥。

いのり「私はまんまるのモフィも可愛くて好きだな」

みにくいアヒルの子モチーフのモフィが元に戻ってその姿を肯定される。現代的というか、監督の作家性を感じる帰結である。
そいでもって終わり間際にはろくでもないシーンで畳みかけてくる。使い魔どものケンカ、通信障害オチ、写り込み、萌え萌えミラーシャ。感動的な最終話なのに最後のほうは表情筋ゆるゆるだったね。あとグレイス隊長の衣装案、耳と尻尾が小道具なの言われてから気付いた。すべてのアニメは耳と尻尾を付けろ党*11の私もこれには笑顔である。
ラストシーンは1周年記念ライブ、始まりのステージでの挨拶。
言うことなし。いい最終回だった!

おわりに

きれいごとが過ぎる、という気持ちがまったくないかと言えば嘘になる。

本作では「歌で笑顔になれなかった存在」は一切描かれない。疑いを挟む余地すら残していない、と言ったほうが正確かもしれない。
ジニーにとっては真実のあの台詞。歌えば必ずハッピーになるか? んなこたない。なんなら沈んだ気持ちと紐づけられて曲が苦手になるまである(実体験)。聴衆にも同じことが言えるだろう。歌で救えない現実はある。
「みんなで協力できない状況・集団」「協力してもダメだった挑戦」も(現在の時系列では)描かれない。1話でグレイスを認めなかった軍上層部も最終話では満足顔。ボロージャの街の住民は切羽詰まっててもなお協力的だ。音楽隊のワールドツアーは(8話のミラーシャのような細かい失敗はあれど)どの公演も成功を収める。
「光を持たない人間」「居場所のない人間」なんかも登場しない。マリアの虚弱なども、解消こそされないが致命的に足を引っ張ることはない。エリーが音楽隊を居場所としたのは先に書いた通りである。
過酷な戦時下、破壊と貧困を背景に漂わせながらも、テーマにまつわる今と未来への描写は一貫してポジティブな基調が保たれる。1話アバンのような絶対的敗北がルミナスを襲うことはない。
それは作品をエンタメとして成立させるための刺抜きだし、尺の都合もあるかもしれない。はたまたフェリシアやグレイスが裏で奔走しているのかも。
本作は基本、砂糖菓子のように甘くて美しい理想を描いている。

でも、フィクションの存在意義ってそういうところに宿るんじゃないの。

歌の力の限界を描かないのは、限界なんてないと信じる強さの裏返しで。
頑張ればみんな手を取りあえるし、そうすれば絶対に成功するし。
いいトコなしな奴なんていなくて、居場所だってきっといつか見つかる。
だから、
歌を歌って元気を出す。
みんなで力を合わせてやってみる。
傍にいる人のいいところを見つける。
自分の居場所は自分で決める。
そんな言葉にしちゃえばありふれた、道徳の教科書みたいな話を、本作はこの上ない熱量と繊細さ・力強さをもって描き出してみせた。
見終えた後に感じる希望は一時の錯覚かもしれないけど、なんとも気持ちのいい錯覚だ。そのまま信じてみたくなるような、上を向いて歩きたくなるような、見る者の心を明るくする「光」だ。
他人を照らすためにまず自分が輝く。本作はこの哲学を体現している。

誰かが歌う。それを聞いた誰かも歌う。幸せな気持ちが伝播していく。
みんながみんなのいいところを見つけあって、認めあって、輝きあう。
笑顔が別の人の笑顔を生み、共振し、世界を満たしていく。
太陽が月を照らし、月が夜の地球を照らすように、地上の星々ひとびとの間で「光」がどこまでも広がるというおとぎ話。
メインキャラの内に留まらず、モブ・ウィッチ・格差・国境といった垣根を飛び越えて、視聴者をも巻きこんでいく広大無辺な夢物語。
その眩しさを私は支持する。
理想を描き切った物語は尊い

良いアニメだった。子どもにも見せたい~なんて押しつけがましい言葉を使う気はないけど、長く後世まで残ってほしい。そう願わずにいられない、正しくて善いアニメだった。
私に視えた本作の「光」は前項までであらかた記載したが、きっとまだ発見できていない魅力が星の数ほどあると思う。焦点も極端にジュブナイルに偏ってるし。歴史・文化・ミリタリー的視点からはろくに拾えてない自覚がある。
乱暴な見立てをしてしまった箇所も多いし、終盤の幻覚度はヤバイ。数年後になんだこれって笑いたいね。まあこのブログそんな記事ばっかだけど。。。

あれこれこねくり回してたらなんだか私も歌いたくなってきたぞ。
路上で歌ったら職質されるし久しぶりにカラオケにでも行くか。おれがジョアンナ・エリザベス・スタッフォードだ。12歳。ちっちゃなムネのトキメキ。
『歌を歌おう』はマストでしょう。列車の乗客ごっこしたいし。ジョー的には『星と共に』『まっしろリボン』あたりも当然捨てがたい。曲としては『太陽の理由』『Flying Skyhigh』もかなり好みなんだよな。

はい。
前期アニメなんだから曲が揃ってるわけない、それはそう。










……










……










……『Flying Skyhigh』(2020)は入っててもよくない?










……










……










なんでこんなことになっちちまうんだよぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!!!!!!!!!










……










『わたしとみんなのうた』、完全神曲……。

おわり

*1:ただし軍人ではなく歌手。主に慰問に関わった方を選んでるっぽい。

*2:ゲロじゃないよ!

*3:衣装班だけスルーされたのはシルヴィとジョーの能力が充分だったからだろうか。

*4:いわゆる丸天井のこと。モデルとなった聖イグナチオ教会では資金不足等の理由で半球形を建設できず、代わりにこのような騙し絵が用いられた。

*5:いろんな土地を渡ることで魔法力を貯めて変身する精霊。変身前には体調を崩し、変身後は元に戻ると推測される。ちなみにモフィは10話でも同様の体調不良を起こしている。

*6:労働者の街であるブルックリンと高層ビルが立ち並ぶマンハッタンを結ぶ吊り橋のため。『サタデー・ナイト・フィーバー(1977)』が有名。

*7:ジニー「みんなで歌えたらきっと楽しいね!」(3話終盤より)

*8:ラストカットではモフィと同様、魔導針もヘッドフォン型に戻っている。

*9:この筆致がガリアを取り戻した英雄・501部隊の戦いの価値を毀損するわけではない、というのはもちろんとしてね。

*10:

「ワールドウィッチーズ発進しますっ!」山川美千子のワールドウィッチーズ講座⑨ - YouTube

*11:SHOW BY ROCK!! ましゅまいれっしゅ!!』以後結成された真実を謳う党。党員1名。

時を越える声、孤独に寄り添う希望 ~TVアニメ「CUE!」第16話『二十歳になった私へ』覚書~

・まえがき

昨年サービスを停止したソーシャルゲーム原作のアニメ『CUE!』を見た。

2019年の名作アイドルアニメ『Re:ステージ! ドリームデイズ♪』の座組が再集結し、16人もの新人女性声優たちが奮闘する姿を映した本作。見始めた当初はいやメインキャラ2桁とか多っ! という印象が第一にきたが、2クール目も半ばを過ぎた頃には全員フルネームで言えるようになっていた。記憶力がまずい私としてはこれだけで軽い感動がある。
16人をアフレコ組・アイドルユニット組・Webラジオ組・産廃組の4人×4チームに分け、各キャラの個別回をチームの4人主体で回す群像劇。2クールという潤沢な尺を素直に活かした嬉しい構成だ。四組四様のドラマを通してチーム単位で描かれるテーマは「演技」「自立」「発信」「仕事」となんとも新人声優らしい。気がする。
見た目はポップな萌えアニメでふざけたシーンもかなり多いのだけど、よく見ると24分の中に散りばめた要素に意外なほど無駄がない。堅実な回からキマった回までどのエピソードも完成度が高く、終盤ではリアタイ後に追い視聴するのがデフォルトになっていた(就寝は朝4時を回る)。
キャッチーな楽しさとスルメ的な面白さをしっかり兼ね揃えた、私が大変好ましく感じるタイプのアニメ作品であった。プロジェクトヒンメルというかライブ周りはぴんとこないこともあったけど、そういうごちゃっとしたトコも含めて声優だと最終話で納得させられてしまった。天晴だった。

本記事ではその中でも特別心に残ったエピソード、元子役・宮路まほろの個別回である第16話について書き留めておく。私的メモなので幻覚だったり飛躍している箇所も多々あるはず。もし目を通すならまほろのように前向きな想像力で補完してほしい(???)。
まほろが属するWebラジオ組(通称Wind組)の物語の軸となっているのは、ざっくり言えば『遠く離れた誰かに距離/時間を越えて声を届けること』。ラジオの開始と〆の挨拶「おはようこんばんはこんにちは」「いってらっしゃい。おかえりなさい。おやすみなさい。またお会いしましょう!」もしっくりくる。このテーマを総括するのが美晴回の20話だがここでは割愛する。
絢回の6話は離別に、莉子回の14話は距離に着目した話だった。そして16話はまほろが約10年に渡る時間という隔たりを越えて、過去と未来の自分に届かないはずの声を届ける物語である。

・おぼえがき

「ひとつだけ、教えてほしいことがあるの」

アバン。小学生の頃のまほろが未来に投げかけたひとつの問い。

「なんだか未来の服みたいね」

Aパート。モーションキャプチャーのシーンで美晴がこぼしたこの一言は、今・ここが昔のまほろにとっての未来に位置することをそれとなく示している。
子役時代は多忙のため友達がいなくて孤独だったまほろ。ロープレとはいえ素の自分で協力プレイをするのは今も不慣れなのかも。どこかおずおずとした様子でまほろは冒険の旅についていく。いや単にシチュエーションが異常極まってるからかもしれないが……。

手を強く握りすぎて友達役の子に睨まれてしまった過去。
子役の頃のそんな夢を挟み場面は寮のリビングに移る。まほろの母校からタイムカプセルの受け取りに関する手紙が届く。
まほろは自分がタイムカプセルに何を入れたのか覚えていない。冗談交じりとはいえ虫でも入ってるんじゃないか? とか言う始末。6話冒頭でも赤い風船を見て「子どもの頃はこんなものが欲しかったなんてね」と呟く彼女である。まほろにとって過去のまほろは半ば他人じみた存在となっている。

Aパート〆、すれ違う過去の姿を車窓から幻視するシーンは象徴的。
美晴を連れて故郷の名古屋へと帰ってきたまほろは歩きがてら、孤独だった小学生時代の記憶を口に出して振り返る。防護柵、フェンス、無人のベンチと心象を表したようなカットが続く。飛石をぴょんぴょん渡る美晴の楽しい姿が清涼剤(冒険要素)。
カフェに着いて話が終わる頃、まほろはタイムカプセルに入れたものを思い出す。

「どうせまほろのことだから、世の中を斜めに見た生意気でくだらない文章だと思うの」

彼女は過去に書いた作文の内容を後ろ向きな予想で語る。作文を入れたことは思い出せても、その時抱いていた気持ちには想像が及ばない。代わりに、掘り返したら嫌な気分になるという確信めいた予感がある。
まほろは帰ろうと提案するも、今度は逆に美晴に連れられて母校へ。
ふたりは異常な深さに埋め戻されたタイムカプセルを掘り返す(冒険要素)。ここでも防球ネットや木の枝といった遮蔽物の画が入るが、漏れ入る夕陽が直後に回想される夕暮れの教室と重なって印象に残る。過去から降り注ぐ光のよう。

「どうせ私のことだから、冷めた目で世の中を見て大人になり切れず、一匹狼気取りでやせがまんしてるんでしょ。今の私と変わらないよね」

作文には先のまほろの言葉を写し鏡にしたような一文が記されている。
結局、彼女の読みは昔のも今のも的中してしまっている。しかしその後に続く問いかけと返答を求めない宣言は、今のまほろの予想を大きく裏切る。

「大人になっても、あなたはこどくですか? でも、それでも大丈夫。私は、私が好きだぞ」

「頑張れ、まほろ!」

最後のエールの声はよく見ると作文には記載されていない。*1
今のまほろにこの声を届けたのは蘇った記憶であり、かつての彼女が抱いた諦観であり、「それでも」と言い張れた芯の強さ・前向きさだ。


……誰も見ていないことを確かめて、ひっそりしたためた問いと想い。
それがすぐ虚しさを覚えるような、気まぐれの追記に過ぎなくても。
彼女はその時「それでも」と書いたのだ。孤独な今と、孤独かもしれない未来の自分自身に向けて。

そして未来の――今のまほろの状況も、過去の予想を裏切っている。
手がボロボロになってもまほろのためにスコップを握り続ける、その手でまほろの手を取ってくれる、そんな友達が目の前にいる。

Cパート、まほろの過去を巡る名古屋へのよきふたり旅は終わって、今度はWind組の4人で先の見えない未来への冒険に旅立つ。
冒険サバイバーズの収録中、まほろの独白からシーンは小学生時代に移行。

「大丈夫だよ、心配ないからね」

夕焼け空とは対照的な今/未来を思わせる青空(AiRBLUE)をバックに、今のまほろのこの声に呼応するように過去のまほろが空を振り仰ぐ。
聞こえるはずのない声――タイムカプセルに埋めた質問の答え――に対して彼女は満足そうに微笑み、またひとりぼっちの旅を再開する。
ひとりであることは変わらないのに、その足取りはどこか軽やかで。
アバンに対応し、Aパ〆とBパ山場の構図も織り込まれた、まとまりの良さと情感を両立した美しいエピローグである。

・そえがき

過去と今の自分が互いに持つ「どうせ~」という冷笑混じりの予想が裏返り、手紙に書かれていない「頑張れ」と時を遡る「心配ないからね」が届きあう。
未来へと励ましの声を贈り、未来からの応答さえ受け取る。
そんな前向きな想像力のことを希望と呼ぶのだと私は思う。
あるいは、これもまた演技という題材とつながっているのかもしれない。頭の中で他者を思い描き、その言動をなぞってみること。そうした営為はきっと相手に必要な言葉を選び取る助けとなる。
歳月に隔てられた自分自身が相手であってもそこは変わらない。

話をひっくり返すようだけど。
今回のエピソードは言ってしまえば、ぼっちだったまほろにも友達ができて良かったね~というお話ではある。あるのだけど、同時にまほろの孤独に寄り添ったお話でもある。
過去/未来との対話そのものはまほろの中で自己完結している。
タイムカプセルを掘り起こせたのは美晴が背を押してくれたからだし、今のまほろが涙を流すのは「ちゃんと友達ができた」喜びからだろう。彼女曰く。
けど、過去のまほろは将来友達ができるという結果に救われたわけではない
受け取った未来の声は叶う見込みも薄い第二の希望である。
そも、手紙に書いた第一の希望「(自分を好きでいるから)大丈夫」と未来からの「(友達ができたから)大丈夫」ではニュアンスからして違うわけで。

もし仮に、今のまほろがWind組という仲間を持ち得なかったとしても。
過去のまほろはそんな未来とは無関係に「大丈夫」だったのかな、と思う。
友達がいるいないではなく、そんな自分がそれでもなお好きだから。未来の自分に「好きだぞ」と胸を張れるくらい、覚悟を持って生き方を選んだから。
無論、寂しさは拭えないままだろうけど。今に至る十余年と同じで。

まほろにとっては「ちゃんと友達ができたこと」が一番の出来事である。
もちろん私も、彼女の孤独が癒えたことには嬉しさを覚えている。
けど、ホントに大事なのは自分を好きでいることだよな、とも感じる。
孤独は寂しい。頑張れ! と自分を励ましたくなる程度にはキツい。長く続けばそんな自分がイヤになる日だって来るかもしれない。
それでもそんな未来までひっくるめて「私は私が好きだから大丈夫」なんて言いきれる、強がれる、エールを送れる、そういう確固とした意志があれば。
……まあ、ずっとが無理なら、瞬間的にでも言いきれる気分になれれば。
人は上を向いて歩いて行ける。自分で自分の孤独に寄り添える。
このエピソードはそう言ってのけた。
その包容力に泣いてしまった。

いかにも友達ができて一件落着したようなこの話には、実のところまほろのように孤独を選んだ、選ばざるを得なかった子たちへの優しさと敬意がある。刺さった要因としてはおそらくこの筆致こそがもっとも大きい。
宮路まほろはカッコよかった。淡い希望を胸にひとりでも未来へ踏み出せる心の強さも、孤独だった過去の記憶にひとりでは踏み出せない心の弱さも。どちらも嘘のない地続きの姿で、だからこそ見ていて眩しい。
6話で猫の飼い主に(ちと強引でも)感謝の言葉をいただけないかお願いしたり、22話で絢に直接声がけたりするシーンも好きなんだよな。プロとしての矜持、人並みの強さと弱さ、他者に手を差し伸べられる優しさ……宮路まほろ……(筆の置きどころを失ったので脱線して終)。

・あとがき

いいアニメでした。この回以外では恵庭が頼る占いやジンクスを否定せずにむしろ自分たちで運命を作り出さんとするおいなりさんな4話、新人声優・陽菜と少女A・モモミが世界の中からお互いを見つけあう5-12話、鹿野志穂の悩みを通して声質と演技の相補的な関係を描いた8話、年長者である赤川の脆さに徹底して寄り添ってみせた11話、鳴への核心を突いた問いかけを意図的に放置したうえで今はただMoon組と丸山の傍で声優を続ける鳴を写し取った19話、先に触れたWind組の総括となる美晴回の20話などが好きです。受け取ってくれる誰かに声を送り届けるのが声優なのだ、と全員の物語をパワフルにまとめあげた最終話もグッド。←でキャラの呼称が名字だったり名前だったりフルネームだったりするのはなんだろう、呼びやすさ……?
他の話数でもいっぱい書き連ねたいことあるけど今回はこのへんで。原作からどう翻案したか気になるしアクセス手段欲しいぞう。

*1:ちなみに原作アプリの当該エピソード『dig down メモリーズ』では直接手紙に書かれているとのこと。再構成にあたって明確な演出意図を感じさせる改変である。