広がる世界と変わらないもの ~アニメ『きんいろモザイク』『ハロー!!きんいろモザイク』第1話雑感~

「ねえシノ、2人のお姫様はずっと離れ離れなの?」
「そんなことないですよ。いつだって会えますし、ずっと友達です。私達みたいに」
きんいろモザイク12話『きんいろのとき』より)

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「ずっと一緒」を信じさせてくれる作品に弱い。

先日、アニメ『きんいろモザイク』(以下『無印』)の第2期『ハロー‼︎きんいろモザイク』(以下『ハロー‼︎』)第1話が放映された。私は第2期が始まるにあたり既刊4巻および無印アニメシリーズを順番にチェックしたいわゆるクソニワカだが、浅薄な経験を通して最も衝撃を受けたのは原作ではなく、アニメ無印第1話だった。ここではその無印1話および、それを踏まえた『ハロー‼︎』1話についての雑感を綴っていく。

・無印1話雑感

Aパートでは中学生時代の忍・陽子・綾が一緒にいる様子を描いた後、ホームステイした忍のイギリスでの一週間がたっぷり時間をかけて描かれる。
緑豊かな牧草地、レンガ造りの街並みに家々。内装も日本家屋とは一味違う。水彩画のような淡く美しい世界の中で、光と自然に彩られたアリスとの日々は喜びに満ち溢れている。
忍とアリスのいるイギリスの風景は、正直私には半ば現実感を喪失しているようにすら見えてしまった。あまりにも幸せすぎた。「現実にこんなハッピーな場所があるのか……?」みたいな。
まさに夢の国というか、表題通りの『ふしぎの国』だった。

とはいえ、忍の世界はあくまで現代日本。ホームステイの日々はたしかにあった楽しい思い出だけど、非日常でしかありえない。
この、忍が地に足をつけて生活していた日常=世界に変化が生じるのがBパート、アリスが学校に編入してきた瞬間だ。
アリスは低い身長、ピンクのカーディガン、華やかな金髪もあいまり、日本の教室の風景からはっきり浮いてしまっている。彼女の可愛さに嬌声をあげるクラスメートが、異物としてのアリスのポジションをいっそう浮き彫りにする。
作品世界内でのこうした反応は「日本では外国人目立つよねー」といったリアルな感覚だろう。一方テレビ越しの私はこのアリスがもたらした空気に、単なる外国人の物珍しさとは異なるものを感じていた。
アリスの纏う雰囲気は、たとえば同じく芳文社のヒットアニメである『ご注文はうさぎですか?』などの世界が持つ「ここではないどこか」の空気に近い。
まるで、現実にはないどこかステキな場所から来たような。
アリスはそんな「ここではないどこか」から迷い込んできたようであり、ファンタジーめいた存在に映る。

日常に非日常が流れこんできて、心なしフワフワとした雰囲気に教室が包まれたとき、OPが流れ始める。「問題なんか何もないよ」という力強い歌詞から始まる、明るくポップなメロディに乗せて、これからアリスと送るであろう新しい日々が描かれていく。
このOP映像ではカレンという今後のさらなる変化も示唆されている。しかし、彼女たちが5人揃った画に違和感はまったくない。もちろん金髪2人で色合いのバランスが取れたというのもあるのだろうが、教室のとき(OPの後流れる1話EDでの映像も含む)とは違い、ひとつの風景として5人はそこに成立している。

穏やかな日々、幸せな日常はすばらしい。
ではそんな日常に非日常――これまでなかったもの――が入りこんできたとき、今の日常はどうなってしまうのか?
本来ならその変化には期待と、同じくらいの大きな不安が入り混じるわけだが、無印1話を見てマイナスに転がるなんてまったく考えようもない。
もっとキラキラの日常になるのが、前もってOPで示されるからだ。
第1話OPは、いずれアリス・カレンを含めた5人の景色が「ここではないどこか」ではなく、「ここ」になるという未来を見せてくれる。
夢の中での幸せではなく、夢のような幸せに満ちた現実の日々に。

・『ハロー!!』1話雑感

『ハロー!!』1話は無印最終話と地続き。
高校2年に進級して新しいクラスメートとも仲良くなったアリスは、忍とクラスが別れた事実をきちんと受け容れられている。窓から吹き込んだ春風に外を見やり、桜を眺めるアリスの表情はとても穏やかだ。
一方で、5人の中でもっとも困った様子を見せるのは、環境に対応することに長けているはずのカレン。厳しめの態度で生徒と接する新しい担任・久世橋先生に対応できず、カレンはやみくもに怖がっている。
久世橋先生は、無印でこの世界に現れたアリスやカレンとはまた別の変化である。
先生は「ここではないどこか」の住民=問答無用のプラスファクターではない。周りにいてもおかしくなさそうなちょっと怖い感じの大人だ。多くの人は先生に対してマイナス……とまではいかなくとも、やや親しみ難い感じの第一印象を持つだろう。
しかし久世橋先生が生徒想いの良い先生であること、生徒を可愛く感じていること、本当は生徒ともっと親しく接したいことは殆ど間をおかずに示される。視聴者にも安心のストレスフリー設計。
お手洗いで笑顔を作ろうと悪戦苦闘する先生を見つけ、その意外な一面にカレンは親近感を抱く。何も不安がることはないと、叱責に対しても無謀果敢にアタックしていく。
結果として今回は怒られてしまうわけだが、そのさまはあくまでコミカルで、前半にあった不安な空気は完全に消え去っている。

このように『きんモザ』における環境の変化はすべてプラスのものとして日常に還元される。
問題なんか何もないのだ。ハローと踏み込む意志さえあれば、世界はそれに応えてくれる。
明日は今日より良い日でありますように。
そんな誰もが抱く祈りを『きんモザ』の世界は約束する。

続いてのBパートでは、今度は外部ではなく内部、5人に焦点が絞られる。世界の変化、広がりをきっちりと描いた上で、改めて5人の日常が描かれ始めている。
Bパートの話を一言でまとめるならば「忍の考えはいまいち読めないけど、裏表はない」。改めて安心感を与える作り。ここは安心安全、みんなの幸福を保証する『きんモザ』ワールドですよ、といったふう。
広がりを見せる世界の中で5人はますますお互いを知って、より深く結びついていく。少し切ないEDをバックに、5人がはしゃぎながら歩いていく並木道の先は輝く光に満ちている。続けてOP。この映像には無印OPにはいなかった穂花、猪熊弟妹、久世橋先生、忍母、穂乃花の友達が加わっている。無印OPと変わらず、いやそれ以上に、みんなどこまでも楽しげで、キラキラ輝いていて、圧倒的幸せ感が画面いっぱいに放出されている。
変わりゆく世界だからこそ、変わらないものも際立っている。
それはきっと何よりも美しく、尊く、善なるものだと思う。


・余談

世界のすべてが変わってしまって、物理的に一緒ではいられなくなってしまっても、それでもなおそのグループが「ずっと一緒」であるだろう確信。それを与えてくれる、信じさせてくれる作品が、私は好きでたまらない(『がくえんゆーとぴあ まなびストレート!』とか)。
『きんモザ』が今後、彼女たちの離別を描くかどうかはわからない。同じ大学に進むでもいいし、アリスはこのまま日本(大宮家?)に定住するかもしれない。くっついてようと思えばいくらでもくっついていられるだろう。
ただ、進級でのクラス分けは、いずれ訪れる決定的な変化に向けての1つの叩き台のようにも思える。

まあ気の早い話なので、今は広がっていくカラフルな日々を見つめていたい。

【総評】聖剣使いの禁呪詠唱<ワールドブレイク>が破壊したもの

アニメ『聖剣使いの禁呪詠唱<ワールドブレイク>』とはなんだったのか。


TVアニメ「聖剣使いの禁呪詠唱」”最強”の解体新書〈ターヘルアナトミア〉 - YouTube

2015年春、数多くの視聴者を熱狂と狂乱の渦に巻き込んだアニメ『聖剣使いの禁呪詠唱』(以下『禁呪詠唱』)は最終回までその勢いを落とすことなく、怒涛のラストスパートをもって終幕を迎えた。放送当初から「神クソアニメ」とまで揶揄された本作の評価は真っ二つに割れている。絶賛か酷評。酷評しつつ絶賛する人も多い。グラフにしたらきれいな二次関数になるだろう。
この一部での高評価を見て、絶賛する視聴者を「壊れた」ととなえる人が各所で散見されている。たしかにこの作品を手放しで褒めまくる私自身、明確に壊れた実感がある。この作品は間違いなく「クソアニメ」と呼ばれても仕方ないマイナス点が数多く見られるからだ。
にも関わらず、そのどれもがプラスだったかのように思えてしまう。

ここでは『禁呪詠唱』の持つ「笑い」の要素を中心に、本作を視聴することによって視聴者に何が起こり、どう感じるように仕上がっていくのかを、自身の体験をサンプルにして綴っていく。

・笑いとは
人はなぜ笑うのか。

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笑いは構図(シェーマ)のズレによって生じると考えられている。噛み砕いて言えば「自分の想像が間違っていたと気付いたときに笑う」。筋骨隆々のオカマキャラがいつまでも定番であり続ける理由がこれだ。人はその見た目と言動のギャップに笑う。他、たとえば武藤遊戯がカードゲームで命を賭けたとき、範馬刃牙がゴキブリを師匠と崇めたとき、緑間真太郎がオールコート3Pなどとのたまい始めたとき――自分の想像をはるかに飛び越えた言動を前に、人は笑う。

『禁呪詠唱』ではこのズレが日常・非日常(ギャグ・シリアス)パートを問わずあらゆる場面で発生する。

視聴者はアニメを見る際「本来こうあるべき映像・音声」を無意識に脳裏で描いている。ただ普通に歩いたり喋ったりするシーンから、スピーディーで息もつかせぬバトルまで、シーンの内容や種類は問わずにだ。過去観た映像や音楽の雰囲気、あるいは設定等から、視聴者はテレビ画面に映し出されるべきアニメを、自分でも気付かないうちに予測している。

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『禁呪詠唱』を形作る要素のうち、想像と現実のズレを感じられる部分をざっといくつか挙げてみる。宙空にひらがなで綴る魔法の呪文。妙にねばついてスライムじみたオーラ(プラーナ)。高速の腕振りダッシュ。てくてく歩いているようにしか見えない超高速戦闘。止め絵の怪物。ヤシの木。波。白背景。13の頭を持つ9頭の龍。etcetc……枚挙にいとまがない。

アニメーション(映像媒体)は情報のバリエーションに富んだメディアである。視覚と聴覚に訴えかける要素がきわめて多い。そして『禁呪詠唱』ではそれらの各要素があちこちでズレて軋みをあげる。良質なBGMや作中の説明、声優の迫真の演技が、無意識下の「本来こうあるべき映像」を補強するのだ。現実に提供される映像は作画班が力尽きたようなしょっぼいものから、想像を絶するぶっとんだものまで様々だが、これによりズレは増幅され、より破壊的な笑いがもたらされる。
特にクライマックスで流れるメインテーマに関しては稲垣監督も「アニメ人生屈指の名曲」と認める、非常に壮大かつ情熱的な素晴らしい曲である*1。これとシュールな映像が噛み合ったときにはたまらない。シナリオ的にも大きなカタルシスを達成する瞬間であるため、視聴者は言い知れないほどの多幸感を味わうことになる。

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アッパードラッグとはこのような感じなのだろうか?

・朗笑と嘲笑
笑いは、大まかに2種類に分けられる。 親愛的な陽性の笑い「朗笑」と、心理的な暴力性からくる陰性の笑い「嘲笑」である。ざっくり分ければ、人は作品がこちらの想像を上回ったときに朗笑し、下回ったときに嘲笑する
たっぷりと盛り込まれた作中のギャグによる笑いは朗笑、力ない戦闘シーンやロシア人-日本人間の言語問題をあっさり放棄する等の雑な展開による笑いは嘲笑に属するだろう。アリプロに似たOP*2も、人によっては嘲笑の対象にするのかもしれない。

とはいえ、もっとも嘲笑を浴びているのは基本的に作画部分である。これは制作会社に責任があるとする声が多い。本作を手掛けるディオメディアはこのクール、実に4作ものアニメをかけもちで制作している*3。割ける予算も人員もかなり限られた状況だろう。
本作の作画(というより動画)はしばしば厳しい状態に陥る。多少崩れても問題のないキャラデザを採用しているので人物はさほど気にならない。……さほど。
問題は戦闘だ。せっかくの見せ場において残念なアクションになることも多く、細かい動きの使い回しもしばしば。目の肥えた視聴者が多い昨今のアニメ界隈において、こういった低品質な部分を嘲られてしまうのは仕方のないところもあるだろう。

f:id:n_method:20150328171759j:plainでは、たびたび出てくる例の高速ダッシュ(光技・神足通)はどうだろうか?
早送りのコントめいた全力疾走。絵面からしてギャグだが、場面の雰囲気問わず用いられる、呪文詠唱と双璧をなす『禁呪』アクションの代名詞だ。これをどう感じるかは個人個人によって分かれるだろう。『禁呪詠唱』はピエロに似ている。
こういった、意図的に「まともさ」を崩したアニメーションが、本作では毎話必ず提供される。
1話、服だけ破れる攻撃。
2話、横スクロールアクション。
3話、スローモーション喫茶ボクシング。
4話、垂直跳び→成層圏での「綴るッ!」。
そして、「このアニメはネタ抜きで観ても結構面白いんじゃないか?」と多くの視聴者に気付かせた正統派水着ギャグ回・5話直後の、あの6話。

話数を重ね、何十回も笑い転げているうちに、視聴者は突き出される映像が想像を上回っているのか下回っているのかよくわからなくなってくる。くだらないのか面白いのか、ネタかガチかガチでネタか。朗笑と嘲笑はあやふやに溶け合い、視聴後には笑いがもたらす幸福感、プラスの感覚だけが残っている。1話観終えるごとにまたひとつ『禁呪詠唱』が好きになっている。
半クール分も過ぎた頃に第1話を観返してみると、初見時とはまるで異なる印象を覚えることに驚くはずだ。第1話には本作のエッセンスが凝縮されている。

こうして感受性をかき回され続けた結果、最終的に視聴者は、それこそ箸が転んでも笑えるような状態に調教されてしまう。何せ走っているだけで笑えるのが『禁呪詠唱』だ。あばたなのかえくぼなのかわけわからなくなっても仕方ない。だいたい、そういう画面作り•セリフ回しをしているほうが悪い!
こうなればもうどうしようもない。制作サイドのエネルギー的死が笑いに転化されるさまはちょっとしたエントロピーの凌駕である。魔法少女もびっくりだ。

「禁呪が面白くなったのではなく、我々がおかしくなったのではないか」

正気に返った誰かが叫ぶ。しかし、真に強い作品とは受け手の価値観を変革してしまうものだ。聖書だってそうだ。実際、アニメ『禁呪詠唱』ファン(とくに実況勢)の言動はどこか狂信者めいている。他の作品に触れているときから日常のふとした瞬間においても、ふいに思い出したり綴ったりしている。はたから見たらただの頭のおかしい人である。

話が逸れた。
つまり、本作『聖剣使いの禁呪詠唱』は二つの笑いを持ち、正統派コメディによる最強の朗笑と、戯画化されたクソさによる最強の嘲笑、両方を自在に使用することができる。

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・作品そのものの強度
笑いに関して長々と書き連ねておいて何だが、『禁呪詠唱』の魅力は決して笑いだけではない。それについても軽く触れておこう。

本作は原作小説1巻分を2話にまとめており、原作付きアニメとしてもかなりのハイペースで進行する。そのためカットされてしまう部分も多いが、反面、展開のスピードにおいては他のアニメの追随を許さない。また原作のストーリーライン自体もしっかりと構成されており、人間的な魅力にあふれる登場人物*4がぐいぐい物語を牽引していくので、上述した「笑い」の味付けを抜きにしても十分楽しめる骨子がある。 王道かつ質実剛健、『水戸黄門』『暴れん坊将軍』あたりに通じる、爽快感に満ちた勧善懲悪シナリオから感じられる面白さは、世に言う「まともに面白い作品」と何ら変わらない。
肉も骨も味付けも美味しい=面白いのがアニメ版『禁呪詠唱』といえるだろう*5

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視聴者は、圧倒的なカタルシスをもたらす主人公の決め台詞「思い…出した!」をはじめ、「綴るッ!」「ウィーアーザセイヴァーズ」「俺は俺から奪っていく奴を絶対に許さねえ」などの定型ネタがいつどのように飛び出すかを期待しつつ、畳んでは開きを繰り返す超スピーディな物語を観続けることとなる*6。その間にも矢継ぎ早に、間断なく笑いは供給され続ける。止まったら死ぬマグロじみた生き急ぎ具合だ。
きわめて密度の高い流れを追うことにより、視聴者の体感速度は恐ろしいまでに加速する。1話ごとの体感時間は人によっては10分を切るという。


たしかに『禁呪詠唱』は文句なしに笑える作品である。しかし、同時に熱くもなれるし、感動もできる。登場人物の可愛さ格好良さに悶えたり、彼らの生き様に憧れる人もいるだろう。
本作を単純にネタアニメと捉えてしまうのも、テンプレ学園異能バトルと切って捨ててしまうのも、等しく「もったいない!」と思う。あるいはそういった安直なレッテル貼り、バイアスさえも破壊し得るのがこの作品なのかもしれない。

『禁呪詠唱』は視聴者の世界を破壊する。感受性、時間感覚、評価基軸、価値観、常識ーー創作物と相対する際に私達が踏みしめるあらゆる足場は崩れ去り、丸裸になった意識が『禁呪詠唱』という名の奔流<ウロボロス>に放り出される。
自身の世界を壊されて湧き起こってくる感情は、笑いかもしれないし、恐怖かもしれない。もしくは絶対的な嫌悪か、はたまた神への信仰心か。
私は本作に対してプラスの感情しか湧かなくなるくらいワールドブレイクされてしまったが、それほどのパワーがこの作品にあることは間違いない。

原作のストックは1クール分以上ある。2期制作を強く望む。 

 

*1:コンプティーク2015年4月号のインタビューより。主人公・灰村諸葉が「思い…出した!」し、必殺技で敵を倒すときにしばしば用いられる曲「World Break -Main Theme-」のこと。

*2:なお、これは実際にALI PROJECTが楽曲を提供している。CDのカップリング曲はドライブ感ある熱い良曲(雰囲気としてはED曲「マグナ•イデア」に近い)なので、是非聴いてみてほしい

*3:特にビッグコンテンツである「艦隊これくしょん」のアニメに多くのリソースが費やされたのでは? という声も。

*4:個性的なヒロインズも大変に魅力的だが、主人公・灰村諸葉のキャラクターが特筆に値する。行動力、決断力、ユーモアといった人格面の高さに加えて、金銭面でのセコさや人並みの性欲といった、俗っぽく親しみを持てる一面があり、何より熱血漢である。「等身大の強い善人」という、往年の名作少年漫画を彷彿とさせる人物造型に成功している。

*5:無論、肉と骨と味付けに関しても、各要素が兼ね揃える「まともさ」と「まともでなさ」が前述した構図のズレを起こしている。これがよりいっそうの笑いをもたらす。

*6:定型ネタを捻ったり下地にした言葉での決着はカッコよく、そして面白い。ここで笑えてしまうのもまた、ズレによるものだろう。