いつか届く、次のキミへの歌 ~TVアニメ「音楽少女(2018年版)」感想~

「ここにいる皆さん全員が私と同じような気持ちになる保証はありません。でも、なるかもしれない。そんな可能性が音楽少女にはあります」

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スタジオディーン×キングレコードの共同アニメーション作品『音楽少女』を観た。
ゆるい作画、すっとぼけたギャグ、単話完結ベースで面白いものの時たま判りづらく雰囲気で押し通しているような作劇。第一印象はいかにもなB級アニメ、実際終始そんな匂いを漂わせていた本作であるが、それら一切をも含めて胸に刺さる掛け値なしの傑作だった。
トンチキ要素とエモーショナル成分の稀有なレベルでの融合、それでしか織り成されることのない独特のドラマと鮮烈な絵面、反復と対比がゴリッゴリに効いた演出・展開と美点を挙げればキリがない。視聴するたびに発見があり、何周でもしたくなる魅力に溢れている。特に最終話は何度見ても滂沱する。ここ数年のアニメ作品でも五指に入るのは間違いないだろう。今年のアニメでは一番好き。
前置きが長くなった。以下、感想。


「素敵なキラキラオーラを放って、音楽の力でみんなをワクワクドキドキさせる無敵の女の子」。アイドルが何なのかつゆと知らず、そんな母の言葉だけを胸にその存在を頭の中で自由に思い描き憧れていた少女・山田木はなこは、数年ぶりの日本への帰郷時に売れないC級アイドルグループ『音楽少女』と出会う。彼女たちのミニライブに心動かされたはなこはその活動を応援したいとマネージャーに志願し、『音楽少女』の面々と自分自身を少しずつ変えていく。

「アイドル」という概念は今やその由来である偶像を越えて、文化に応じて様々に定義される単語と化しているが、本作では「想いを歌で届ける者」(表象としてのアイドル)そして「自分の何かに対して懸命な者」(内実としてのアイドル)としてのアイドルがフォーカスされる。
また、受け取る者の存在なくして何かを届けることが叶わないように、受け取る観客があってはじめてアイドルはアイドルとして成立するということも。
当記事ではこの基本骨子を軸にし、アニメ『音楽少女』について私見を交えて書き綴っていく。

・山田木はなこという少女について

本作の主人公である山田木はなこの最大の特徴として、上述した受け取る者としてのきわめて優れた資質が挙げられる。
はなこは1話で初めて『音楽少女』のライブを見た時点で、楽曲『ON STAGE LIFE』に籠められた強い想いを受け取っている。桐の振り付けのズレを的確に見取り、逆に美点を褒めそやしたりもする。
3話では絶対音感の才覚を、6話では聞き上手な側面を見せたりと、とかく周囲に対するアンテナが鋭敏な上に心配りも巧い。ある意味理想の受け手の具現化とも呼べる存在だろう。
その一方で、送り手としては非常に中途半端な存在である。
一目でダンスを完コピできるがコピー以上でも以下でもない。料理の腕前は羽織に劣り、メイクは髪のセットが精々。音痴ゆえに作曲にも携われない。歌については言わずもがなである。スタッフとしても責任と実績を有する池橋には権限の範囲で及ばない。
はなこにできることの多くはクリエイティブでプロ的なそれらの前段階にある。
そこに存在するのは、ただ「届けようとする熱意」そのものだ。2話で免許を持たない彼女がライブ衣装を走って届けた描写が示唆的だったりする。
こと歌においては、それは作中で「心で歌う」と呼ばれている。
そして、届けようともがけば、それが誰かに届く瞬間だってある。音痴の歌でもそれは変わらない。……相手が受け取ろうとする限りは。

この「届けようとする熱意」は言葉通りの懸命さを帯びている。
即ち、実のところ上記の内実としてのアイドル性と直結している。

はなこ母「あなたが自分から何かをやりたいと言い出したのは初めてね」(2話)

2話ではなこの母が言及した、はなこの人物造形について触れる台詞。
はなこがなぜ送り手としての資質に欠けるかを端的に示した言葉ともいえる。
彼女はたぶん、今までの人生で自分から一生懸命になった経験に乏しいのだ。だから特に序盤は加減がわからず、結果オーライの無遠慮な行動にも出てしまう。
自分の道を歩き出したばかりのはなこは応援する者としてもまだまだ未熟だが、はなこ同様『音楽少女』を支える者として在り続けたセンター・羽織の姿を通して、徐々に適切な言動やレシピのアレンジなどの技も身に付けていく。

「応援できるような存在になりたい」ではなく単なる「応援したい」なのもミソだと思うがここではさて置く。
ともあれ、『音楽少女』を応援しようとはなこが決意したとき、彼女は内実としてのアイドル性を既に獲得している。
(ただしアイドルとは呼べないだろう。自分自身に向けられない情熱や、既に持っている内実のアイドルの本分からズレた地点でのそれは言ってしまえば似姿に過ぎない。だからあくまでアイドル「性」とする。)

次項に進む前にはなこのキーアイテム・ドルドルにも軽く触れておきたい。
ドルドルは曰く「はなこの中のアイドル」であり、彼女を象徴するアイテムだ。ツギハギだらけの不恰好な人形は(帰国して新たに生じた『音楽少女』を応援したいという熱意を除く)はなこのアイドル性・送り手たるすべてを仮託されてできている。
ドルドルは両親の仕事の都合で転居続きだった幼いはなこの寂しさを紛らわしてきたという。恐らくはなこは自分自身を送り手=ドルドルと受け手=はなこに分割し、受け手としてドルドルから元気をもらう他に孤独を癒す術を知らなかったのだろう。
自分の中の「音楽の力でドキドキワクワクさせる無敵の女の子」をドルドルに託したはなこが音痴なのは、後述する最終話のライブを踏まえると納得感がある。

・交感する受け手/送り手の関係

作中での直接的な言及はないが、観客とアイドル・受け手と送り手の関係性は本作の中軸を担っている。『音楽少女』のスタッフであり同時にいちファンでもあるはなこや、他の登場人物たちを通じてこの関係はしばしばピックアップされる。
受け手はただ提供されたものを注がれるだけの器ではない。己が内に生じた熱を以って送り手に影響を返しうる存在なのだ。本作はその点に着目したドラマが再三描かれている。

作曲の3話。
期待されることのプレッシャーからひとりでの曲作りに行き詰った絵里は、受け手であった日陽たちとの作曲によってスランプから脱する。絵里に足りていなかった音、つまり空回りになっていた懸命さは、日陽の初めての作曲活動や『音楽少女』の面々のサポートに補完される。
作詞の6話。
キャリアを積むうちいつしか色を失っていた6話の夏輝先生の心は、未来のダンスと素人丸出しの作詞によって復活する。先生は初めて作詞した未来と同じように素人らしいダンス(キレッキレだが…)を踊り、かつて心の中にいた17歳の少女、内実としてのアイドルを再獲得する。
そして歌の8、11話。
H☆E☆S、羽織に対してのはなこの歌も、上のふたりと同様である。
受け手に芽生えた内実としてのアイドル性=原初的なひたむきさが送り手のそれを再生/再発見させる構図が、もっともわかりやすい6話に限らず幾度も繰り返されている。

はなこ「だから『音楽少女』のみんなが、仕事や家族のこと、過去や将来のこと、そして絶対に諦めたくない夢について、全力で一生懸命ぶつかっているのを見て、びっくりしました。そしてすごいと思いました。そんな『音楽少女』が生み出す音楽だから、ドキドキしたり、ワクワクしたり、キラキラするんだって」(12話)

最終話ではなこはこのように語る。
しかし『音楽少女』が挫け、迷ったとき、その背を後押しして再起に至るまでの情熱――内実のアイドルを再び導いたのは、他ならぬはなこ自身なのだ。

また、こうした構図を反転させたドラマも並立して描かれる。
「心で歌う」バル・あこちゃんの姿を見て、羽織が自身の内実としてのアイドルの喪失を突きつけられる10話である。

羽織「桐ちゃんの体、あったかくてほっとする。なのに、もう心で歌えなくなっちゃったよ。どうしよう」

ユニットを支える者という既存のアイデンティティに囚われ、自分がいなくても『音楽少女』の歌が届きうると知った羽織からは、内実のアイドルがすっぽりと抜け落ち、表象のアイドルとしてしか振舞うことができなくなっている。
園児の前では歌えていたのに後に「歌えない」とこぼすさまが印象的だ。今の彼女の歌に心はなく、ただの発声でしか歌っていない。そしてこのライブも9話と同様、他メンバーの歌によって観客の園児らに無事届いてしまっている。エンドロールで実際に羽織が歌えていたことを示す演出がニクい。
ちなみに、10話は純粋な受け手であったあこちゃんが送り手となり、自身に芽吹いた内実のアイドルによって「心で歌う」ことを周囲の園児に伝播させていくさまも描かれる。
これは最終話におけるはなこの願いにもつながっている。

ここで、はなこの音痴という設定についても書き記しておきたい。
私は、元々はなこは天性の音痴だったというわけではないと考えている。

はなこ「私はずっと、自分が何をしたいか、自分に何ができるか知らないで生きてきました。ううん、そんな難しいこと考えたこともなかったんです」(12話)

はなこの音痴とは、自分のやりたいこととできることへの無知である。
あるいは、やりたいこと・ひたむきさが自身の歌に向けられていない状態の発露である。到着したい行き先を持たない声音は1話での空港のはなこと同様、常に五線譜の上をゆらゆらとさ迷う羽目になる。
内実の喪失による声の不調和。羽織の喉の失調と同一線上に位置する現象である(はなこと違い、表象の力のみで表面上また歌えるようになってしまうのが羽織のプロたる所以というか……)。

しかし、かつてアイドルになどなりたくないと言い切っていたはなこは、最終話で涙ながらに『音楽少女』になりたいと強く叫ぶ。
他者の応援に向けられていたはなこの中の内実のアイドル性は、誰かのためだけではないひたむきさ――内実のアイドルに形を変える。
今度は11話までとは逆に、はなこのほうが『音楽少女』の姿から、ドルドルに仮託していた自身の内実のアイドルを再生された形だ。
仕事、家庭、過去、未来、夢……自分の何かに一生懸命な『音楽少女』の姿が、そうした熱を何も持たなかったはなこに届いたから、はなこもそんなふうに、彼女たちのようになりたいと希えたのだ。
『音楽少女』のアイドルとしてのひたむきさを間近に受け続けて、憧れではない、自分の中の新しい内実のアイドルを見つけたのだ。

そして、そうなりたいと懸命に希うはなこの姿は既に『音楽少女』のそれと重なる。
ゆえにはなこは『音楽少女』になれる。素敵なキラキラオーラを放って、音楽の力でみんなをワクワクドキドキさせる無敵の女の子になれる。
はなこが確立した内実のアイドルは、本来有していた表象のアイドルとしてのポテンシャルと噛み合い、もうその音が迷うことはない。

・外の世界へと届ける歌――輝ける最後の一片

はなこ「ここにいる皆さん全員が私と同じような気持ちになる保証はありません。でも、なるかもしれない。そんな可能性が『音楽少女』にはあります」(12話)

最終話、はなこの演説と歌は観衆の心には届かない。
会場には野次と罵声が飛び交い、嘲笑の声が止むことはない。
この時点のはなこは表象のアイドルをまったく扱えていないからである。歌で想いを届ける力を一切有していないからである。
アイドルという表象の力を伴わない心だけの言葉・歌は、傍にいる人やファンには届いても、山田木はなこという人間を知らない、いわば「外の世界」の人には届かない。
この点、最終話は過去の話数すべてへのカウンターパートであると言える。
これまで『音楽少女』に対して好意的な、言ってしまえばぬるい声しか描いてこなかった過去の描写も、この野外フェスにおいて強烈な対比として機能してくる。

そしてこの一幕は、アニメとして十分にリッチなビジュアルだったとは言えない本作『音楽少女』自体の性質ともオーバーラップする。
告白すると、嘲笑するファンではない観衆の姿に、私は1話放映時点の私を見た。

アイドルではないはなこの想いは外の世界には届かない。
しかしアイドルグループである『音楽少女』の歌も、当然、必ず届くとは限らない。

羽織「みんな何しにここに来てるの!? 音楽を聴きたいからでしょう!? 音楽を楽しみたいからでしょう!? だったら、『音楽少女』が最高の音楽を聴かせてあげるわよ!」(12話)

羽織の啖呵に湧いた観衆のすべてに、その想いが届いているかははっきりしない。
私にはなんとなく、その多くが雰囲気で歓声をあげているだけのように聞こえる。

誰かに歌が、そこに籠めた想いが届いたとき、彼女たちはアイドルとなる。
届いたという事実だけが、彼女たち12人を遡及してアイドルとなす。
だから彼女たちは歌うのだ。自分たちは特別だと信じて、想いよ届けと声を振り絞って。
ファンではない、無邪気な園児たちを『音楽少女』の虜にできたように。
今度は、大切な仲間を嘲り笑った世界を変えていくために。

最終話ラストライブに対する観客の反応は描かれない。

最後のピースは誰でもない キミだよ キミなんだよ(ED『シャイニング・ピース』歌詞より抜粋)

1,1,2,3,5,8,13 Let's Go!(同上)

EDではなこが、そして10話であこちゃんがそう歌われたように、アイドルグループ『音楽少女』を完成させる最後の一片の役目は受け手に委ねられる。
これは視聴者についても同じことが言える。はなこがユニットの一員となった今、受け手の役割は私たちにシフトしている。私たちが届けられた想いを受け取ったとき『音楽少女』というアニメは初めて完成する。
そのために彼女たちは、そして本作はこのラストライブで、その表象においても外の世界にまで通用する最高のパフォーマンスを見せた。

それを本当の意味で最高のライブに、そして『音楽少女』を最高のアイドル、最高の作品にできるのは、私たち受け手だけだ。
だから私たちは音楽に、アイドルに、あらゆる創作物について、舐めてかかってはならないのだ。

夏輝先生「みながダイヤの原石。それを磨くのは客だ。君たちだけが特別ということはない」
未来「お言葉を返すようですが。自分は特別だって思わないとアイドルはできないと思います。私はいつだって、私を見てくれるすべての人のハートを鷲掴みにするようなパフォーマンスを見せたいって思っています!」(6話)

受け手が舐めずにかかった上でそれでもなお籠められた想いが届かなかったことを、作り手は――少なくとも『音楽少女』は受け手の責任にはしないだろう。

はなこ「この日見た景色を、私はきっと、忘れない!」(12話)

私たちの目に映った作品は、総じて私たちの記憶となる。
ひとりひとりの視聴体験の中にそれぞれの『音楽少女』というパズルは存在する。同じ完成形はひとつとしてない。

・おわりに

楽しく、面白いアニメだった。深く心に突き刺さるアニメでもあった。あの日あの時リアルタイムでファンと笑いあいながら実況した、そんなことが代えがたい視聴体験となる、そんなアニメでもあった(後番組の『百錬の覇王』も込みで)。
私は山田木はなこではないし『音楽少女』にはなりたくてもなれない。彼女たちに影響を与え返すなど不可能だし、最後まで本作の受け手のままだ。
ただ、彼女たちのようにはありたいと思った。そう私の中の内実のアイドル性が訴えかけてきた。
だからたまらずこうして筆を執っている。今伝えたい感情は今伝えなきゃその価値やニュアンス変わってしまうと『永遠少年』にも書いてある。
届けというこのアニメの想いを受け取ったから私も届けたいと思った。現時点での私のパズルを、この楽しみ方を忘れてしまった遠い未来の自分に、もしくは本作を楽しみたいと思いたまたまこんな場所を目にした誰かに。

これほど誰かに見てほしい、届いてほしいと思ったアニメは久しぶりだった。
ただ、視聴済みの方向けの記事でこんなことを言うのもナンセンスだが。
いちファンとして本作を薦めるときに言えるのは、やはり同じくいちファン、いちスタッフだった頃のはなこが語った記事冒頭の台詞だけなのだろうとも思う。

想いよ届けと叫んだ本作が、より多くの「外の世界」の人々にも届いてほしい。
今はただそれだけを切に願って筆を置く。



――アニメ舐めんな!!!

【イベント参加告知】放課後のプレアデスプチオンリーイベント「流れ星 時々 いちご牛乳」2/26(日)@池袋サンシャインシティ

イベント概要

サンシャインクリエイション2017Winter内プチオンリー
流れ星 時々 いちご牛乳
A1ホール/B13a「窓色アルバム」 

新刊情報

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 ジャンル:放課後のプレアデス

 誌名:ひとり星オーバーレイ

 版型:A6(文庫サイズ)オンデマンド

 イベント頒価:300円

2/26(日)池袋サンシャインシティにて開催される上記のイベントで、放課後のプレアデス二次創作小説「ひとり星オーバーレイ」を頒布します。
あおいの友人がすばると友達になるまでのお話です。本文60頁の短編ですが、色々な意味で原作とだいぶ離れたものに仕上がっているため、その旨ご了承いただけると精神的に大変助かります……><
本編でアナザーあおい(すばるの運命線のあおい)とあおいの友人が通っていた中学に、もしもすばるも入学していたら、という設定。

また、会場ではひかるメインの掌編もコピー本として無料配布いたしますので、お気軽にお手に取っていただければ幸いです。本編6~8話の間くらいのお話。6000字弱。こちらは一応本編ベースです。
あとたった今できちゃったので抱き合わせでアナザーすばる(あおいの運命線のすばる)の掌編もくっつけます。上記の短編の追補のような。6000字ちょい。

加えて、既刊で昨年発行した天体のメソッド二次創作小説「天体の足跡」の在庫もこっそり持っていきますので、もしご入用でしたらぜひぜひ。こちらは頒価700円となります。

それでは、2/26 A1ホール B13a「窓色アルバム」にてお待ちしております。 
当日はよろしくお願いします。


【追記】

Boothにて通販開始しました(上記のSS付)。よろしくお願いいたします。

信じる勇気をダンスに変えて ~映画『ポッピンQ』感想~

東映アニメーション創立60周年記念映画『ポッピンQ』を観た。
傑作だった。快作だった。2016年マイベスト映画だった。そして困ったことに怪作でもある。
マスにヒットする娯楽作品の形と要素単位では重なるものの、できた作品はわりとズレている。人の共感を呼び、説得力を生み出す箇所にぽっかりと空洞が存在するのだ。
しかし、だからこそ凄まじいパワーを内包するに至った代物であった。少なくとも私にとっては。 そしてきっと、まだ観ぬ誰かにとっても。

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何かを探して彷徨うような薄暗いキービジュアルが印象的。

神様!tell me tell me tell me 教えて
未来は僕らに光をくれるの?
神様!tell me tell me tell me 答えて
僕らの瞳は 明日を ねぇ?みつめてるの?

冒頭で描かれるメイン5人の悩み、CMでもおなじみ伊純の言葉にならない鮮烈な「あーーーーーー!!!」、そこから卒業式の朝を迎えて雪崩れ込む青春全開のオープニング『ティーンエイジ・ブルース』。これにてガッチリ心を掴まれた青春おじさんこと私である。
ここで私は当然のごとく以前このブログでも取り挙げた、今なお心に深く突き刺さっている2015年の大傑作『放課後のプレアデス』や2016年の怪傑作『アンジュ・ヴィエルジュ』のような、少女たち個々人の心の機微を鮮やかな筆致で描き出し、その解決を美しく与えることで大きなカタルシスをもたらしてくれるキモチのいい作品を期待した。そりゃもう期待しまくった。
そんな身勝手な期待は裏切られたり叶ったりした。
そして『ポッピンQ』は私にとってこの2作品と同じくらい大切な作品となった。

『ポッピンQ』は個々を掘り下げない。
『ポッピンQ』は最後まで解決しない。
『ポッピンQ』のダンスは祈りである。


・『ポッピンQ』は個々を掘り下げない。

レミィがさらわれた事件をきっかけに、伊純が蒼たちに対してレノとの密会の事実を告白するシーンがある。 いわゆるみんなで悩みを吐露して心が通じあう名シーン*1だが、初見時私はこう思った。
「個々の悩み掘り下げないのかよ!  尺の都合かもしれないけどならやっぱテレビシリーズで観たかったな……」と。同じように感じた人は結構多いのではないだろうか。
個の悩みを「みんないろいろ悩みはあるし戻りたくないよね。みんな一緒なんだ」という共感で薄めて、それが自分の悩みと向き合う勇気、元の世界に帰る勇気を持つ最初のきっかけとなる。
わるくはない。けどどうなんだろう。テレビシリーズならひとりひとりオムニバス形式で焦点を当てヒロイン同士の交流を描いて丁寧に心を解きほぐしてそれからダンスで世界を救うんじゃ……そんなストーリー展開にもできただろう。
しかしそのシナリオラインはおそらく『ポッピンQ』という作品が掲げるスタンスとは異なるのだと思う。

「自分の力で乗り越えないと、意味がない!」(沙紀)

この作品は旅先で仲間の協力によって個々の悩みやトラウマを払拭し、あるいは払拭できるという確証を得て、元の世界に帰る物語ではない
ただ自分の問題と向き合う勇気を得て、帰った先々で各自ひとりでケリをつける物語である。そうでなければ意味がない、とも言う。

……とはいえ、主人公である伊純と、ダンスが自己の問題の中心にあった沙紀以外の3人の掘り下げが少ないのは純然たる事実。 受け手が彼女たちに共感するためのレールはそこまで親切には敷かれていない。
ヒミツで甘い♥パートナーとのサイドストーリー『ポッピン・ドロップ』*2を読んだほうが共感しやすくなるのは間違いない。思慮深いピュアな女児ならあの夜の一幕と周辺の描写だけで容易く共感可能なのだろうが。
私を含む多くの受け手にとって補助線としてこの上ない一作なので、本編を観て良かったと感じた人には激烈オススメ。
ぜひ読了後の2周目で精神を爆発させてほしい。 

ポッピンQ~ポッピン・ドロップ~ (小学館ジュニア文庫)

ポッピンQ~ポッピン・ドロップ~ (小学館ジュニア文庫)

 

 余談だが、彼女たちはその場所で生きている。私たち受け手の理解や共感とは一切関係なく、尊いものはそこにきちんと存在する。『ポッピン・ドロップ』で見えた少女たちの気持ちも、読む前から存在していたのだ。ただ私たちの気が回らなかった、想像力が足りなかっただけ。
このことを忘れてはならないと思う。


・『ポッピンQ』は最後まで解決しない。

本作の最大の特徴としてこの点が挙げられる。正確には「ラストの現実世界まで問題解決の確証を得られはしない」というべきか。
5人は異世界である“時の谷”にいる間、決して自身の問題についての直接的な解決を与えられない。
また、先に挙げた通りこの作品の根底には「自分の問題は自分で解決しなければ意味がない」というドライな価値観が横たわっている。伊純の告白を受けた夜の後も、彼女たちは他者の問題に踏み込まない。解決できないことを知っているからだ。他ならぬ自分自身がそうであるように。
『ポッピン・ドロップ』においても、とうに内心の知れた自分の分身・同位体との内省的な対話こそすれ、仲間に対しては「○○ちゃんは(も)こうなのかな……?」と想像するだけに留まる。
彼女たちは互いに心を許した仲間でありながら独立している。

さて、繰り返しになるが、伊純の告白をきっかけに4人は全員が悩みを抱えていること・元の世界に戻りたくないことを知り、互いに心を通じ合わせる。
一方で個々の問題そのものに関しては宙ぶらりんのままだ。解決が与えられない状態で物語は淡々と進行する。
ここで重要なのは、彼女たちは現実に問題を抱えたままで勇気のダンスをマスターしたという点である。
彼女たちの「勇気」とはなんだろう? “時の谷”を救う使命感、元の世界に帰る(仲間を帰す)義務感、そして帰った元の世界で自分の問題にケリをつける覚悟。いろんな気持ちがないまぜの状態で彼女たちは突き進んでいる。
このどこか地に足の着いてない「勇気」はこちらとしても不安なものだ。内面の整理もついていないのにどうして勇気を持てるのだろう? としっくりこない人もいるだろう。
だが根拠が薄いから勇気なのだ。
不確かな未来へ漕ぎ出すエネルギーこそが勇気と呼ばれる感情である。
そして勇気とは、互いの私的な問題を分けあい背負いあうのではなく、ただ同じように悩んでいる仲間が前進しようとしている事実だけで奮い立てられる、もらいあえる気持ちでもある。


・『ポッピンQ』のダンスは祈りである。

ダンスは趣味も特技も異なる彼女たちをつなぐ媒介である。
しかし、沙紀を除く誰の問題とも直接関係しないものでもある。「音楽」「かわいいもの」「他人との協力が不可欠のもの」と、各々の問題と微妙に重なるポイントは散見されるけれども、やはり根本的には無関係。
では本作におけるダンスとは何なのか? どうしてダンスを主題に置いたのか?
自分と他者を鼓舞するダンス、今この時をめいっぱい楽しむダンス、「瞬間の今」の全肯定。いろいろ考えることはできるが、これについては終盤こう言及される。

 「ダンスはここで踊るの。自分を信じれば体は勝手についてくる」(沙紀)

『ポッピンQ』のダンスは「自分を信じる心の動き」そのものだ。
クライマックスにおける内面の描写をダンスという表現に置き換えてしまっている。この観点において実は『未来の歌』『FANTASY』は心情描写に他ならない。
ゆえにこれを頭でなく感受性・フィーリングで受容可能な段階になると文字通り胸を打たれてしまう。 

一方、上述したように、彼女たちの「信じる」は根拠が薄い。
ここが本作の勘所である。

伊純は少しずつ正直になり、仲間に嘘を打ち明けることができた。
小夏はダンスという与えられた題材を楽しむことができたし、あさひは自らの意見を仲間に対しては伝えられるようになった。 蒼は自分の殻に閉じこもらず、なんでも言いあえる友達を作れた。
そして沙紀はダンスを通して、また人とつながることができた。
作品側がまともに焦点を合わせてくれないこの一連の事実は、しかし現実世界での彼女たちの克己を、問題突破を約束しない。

ポッピンQ』はメインの5人が自分を信じる・信ずるに足る明確な根拠をラストまで描かないことで、逆に彼女たちの「信じる勇気」こそをこの上なく色濃く描き出し、その感情を完璧にダンスで表現しきった作品である。
彼女たちは自分を信じたのだ。心の底から信じきったのだ。リアルの問題など何ひとつ解決していない時の狭間で、リアルと無関係なダンスを踊って。

明日はどこからくるの
今日はどこに向かっているの?
見上げた空は冷たく
希望の光ひとつない

ラストの『FANTASY』から発せられる感情の力強さ、あやふやさ、祈りのような気持ちを受けて、私は涙せずにはいられない。
自身の抱えた問題、苦しみ、悩みに対する「本当は問題などなかった」「これができたのだから大丈夫」というような根拠・確証を得られないまま、なお彼女たちは自分を信じる。
それは科学や哲学によって類推可能な何らかの可能性を「信じる」よりもはるかに不確かな「信じる」だ。祈りと呼んでもいいかもしれない。
自分を信じるということは、つまりはそういうことなのだろう。まだ何者でもない中学生の少年少女などはとくに。

彼女たちは自分と向き合い、信じた。
克己できると信じようとした。
その眩い感情の迸りがラストのダンスに結実している。そのまま形に表れている。
私はこの眩しさに滂沱した。全身が打たれたように痺れてしまった。昨年の作品で一番泣いてしまった。ダンス3分のための1時間半という監督のコメントも十二分に理解した。私は心の中で叫んだ。がんばれ。がんばれ!! 泣きながら。
よく若い人、とくに悩める小中学生に見てほしいという意見を見かけるが、私もまったく同意見である。何も確かなものなど得られない、悩み苦しみの種類も異なる受け手に対しての、これはエールだ。

卒業は、悲しい通過点じゃない。卒業は、新しいスタートラインだ。

帰った先の現実世界で、彼女たちはひとりひとりが勇気を奮い、ひとりで自分を「卒業」する。
“時の谷”で振り絞った「自分を信じる勇気」によってダンスが成功した事実を、元以上の「自分を信じる勇気」に還元して。


以上が本作2周目時点での覚書となる。


・おわりに

一本筋の通った作品だが、十分に受容するにはこちらからのキャッチングが求められる。比較的セリフでの説明も多い世界観・設定を十全に把握し、メイン5人の心境についてある程度理解が深まった2周目で本領発揮したところはあった。私がここまでのめりこんだのも『ポッピン・ドロップ』を読んでの2周目である。 よりセンシティブな人は1周目でしっかり5人を掴めるのだろう。
あるいは、まったく別のアプローチで最高の境地に至っているのかもしれない。
このようなひねた裏返しの感想ではなく、よりシンプルに受け取って最高になっているのやも。
だって世界はシンプルなんだから。

優しくて幸せな映画だった。元気をもらえる映画でもあった。そして信じられないほどの深い感動を覚える映画でもあった。
続編よりもイベントよりも、どうにかもう一度劇場で観たい、公開し続けてほしいという気持ちが一番強い。

そしてこの映画が、伊純たち5人が「信じる勇気」を踊るその姿が、届くべき人、届くことで何かが変わるかもしれない人たちに届いてほしい。
今はそんな気持ちでいっぱいである。

*1:このシーンで「そんなことありません!」と真っ先に言い出すのは、自分の意見をはっきり表明できないという悩みを抱えるあさひである。これが勇気でなくて何なのか! 注視してないと見逃してしまう異常に遠回りな表現だ。『ポッピンQ』は女児アニメさながらの力押しでパワフルな作劇を機軸とする反面、こういうやたら細かい描写も得意だったりする。冒頭のセリフとか。寝姿とか。

*2:本作の関連書籍のうちの1冊。メイン5人と各々の同位体が織り成す1対1のやりとりを通して5人の内面を深く掘り下げる小説。名著。

話数単位で選ぶ 2016年TVアニメ10選

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私にとって2016年(のアニメ)は「愛」と「才能」そして「承認」の年であった。
そんな感じで10コ選ぶやつ。覚書に近い記事なので読みづらいところも多々ある。

ルール
・2016年1月1日~12月31日までに放送されたTVアニメ(再放送を除く)から選定。
・1作品につき上限1話。
・順位は付けない。


無彩限のファントム・ワールド 第11話「ちびっ子晴彦くん」

ベストオブ永遠に放送していてほしいアニメ2016に見事輝いた京アニ自社産ラノベアニメが繰り出す乾坤一擲のおねショタ回。まったりめな空気とポップなコメディ、予定調和の愉快なバトルに時おりほろりとくる人情味。てんこ盛りの快楽がもたらす視聴後の完全食めいた満足感が本作の大きな魅力なわけだが、11話はメインヒロイン・川神舞の魅力に傾注した回であった。

身体も中身も小学生に戻った晴彦の視点に寄り添いころころとテンポよくお話は進む。ファンタジーの許容量が莫大な本作ならではの軽妙さ。面倒見のいい舞先輩と青年時より数段小憎らしい少年晴彦との掛け合いが微笑ましくて面白い。
幼少期の長い時間をひとりで過ごした少年晴彦の孤独と、自分の存在が周囲に迷惑をかけているという自覚は身につまされるものがあった。生活感ある種々の描写が心苦しさを補強する。そしてそんな晴彦を先回りで気遣う包容力いっぱいの舞先輩が本当に素敵。私はこの回まで正直舞先輩のことはそんなに好きでもなかったのだけど途中から完全に舞お姉ちゃん……って呼んでた。
迷惑をかけていると知ってなお「戻りたくない」と口にする晴彦が、舞先輩の危機を前に「大人になりたい」と願い元に戻る一幕は直球ながらアツい。猫のおしっこくさかったんだもん! な砂場のファントムを敵に配置することで重くなりかねないバトル展開をライトな手触りに仕立て上げている。

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晴彦の嘘の作文が叶った夢のような現実の日々。その記憶を持ち帰ったのは舞先輩ひとりだけで、元に戻った晴彦はそれを事実としてしか知ることができない。
そもそも当の晴彦自身、そんな過去には既に折り合いをつけているのだ。この話は舞先輩が一方的に晴彦の過去に触れ、今の彼への心的距離を勝手に縮めたに過ぎない。
それでも、彼との楽しかった日々は、たしかに存在していたのだ。
証左としての「ともだち」の雑誌は晴彦の自室に残される。まったく困った子どもであったと晴彦をからかうみんなの「ウソウソ」に対して、寂しさや悲しさをかすかに滲ませた舞先輩の「ホントに」という一言、そして柔らかな笑顔で物語は幕を閉じる。
夢と現の境界が曖昧な、そしてその両方を大事にする本作ならではの素晴らしい話だった。

ここ数年で色々な作品を摂取してきて気付いたこと。
ある/あったかもしれない世界、現実未満の地平、絵空事ないし偽物の類を尊重する態度を取っている創作物に対して私は魂のレベルで弱いらしい。夢は夢だから現実を受け容れるのだ……というテーマではなく、ファントムの優しさをベースに夢と現実を等価値に置いた第4話もスマッシュヒットの回。

蒼の彼方のフォーリズム 第12話「もっと…飛ぼう!!」

「とにかく飛ぶシーンの魅力に尽きた。装備が極端に少ない点からは日常の延長線上に空があることが説明以上に伝わってくるし、空と人だけが映っているアニメーションは『空を飛ぶ行為』のプリミティブな魅力に満ちている。フライングサーカスという架空の競技の楽しさがこの原初的魅力を損なわず高めてくれるのが個人的にはベストかな。」

1話時点での感想が以上のもの。フライングサーカスが始まってもその魅力は一切失われなかった。遠近と角度を活かしたカメラワーク、ぐりぐり動く緩急の効いた飛翔、二対四足で描かれる軌跡の躍動感、そして空自体の抜けるような青さと、画作りに関しては言うことなし。ドラマ面はシリーズ構成・吉田玲子さんのリリカルな手腕が冴え渡る。たった今気付いたけどさっきのファントムワールド11話もこのお方の担当回だ……。
劇伴はElements Gardenが担当。ついでに言うとゴンゾ元請作品でもあるためストウィのノウハウも継承しているのかもしれないしそのへんは断絶しているのかもしれない。
とまれ、総じて超!名作と断言できる素晴らしいアニメに仕上がっている。

そんなアニメ版あおかなの最終回はこれまでの軌跡の集大成。互いへの憧れとリスペクトが織り成す、あらゆる競技者のあらゆるプレイングに対する全肯定である。
本作に通底する主題として「自分の飛び方の発見」がある。ヒロインたちや主人公、ライバルは自分以外の競技選手との練習や特訓、対戦を通じて「自分の飛び方」を見つけていく。相手の飛び方の良い所を真似したり、相手に通用する自分の得意技を磨いたり。
ここにアンチテーゼを突きつけてくるのがラスボス・乾沙希とリリーナのコンビ。沙希の得意技「バードケージ」「グリーンスリーブス」はいずれも相手の動きを阻害する戦法であり、相手に相手の飛び方をさせない。カードゲームで例えるならランデスやデッキ破壊のようなものである。
忌み嫌われるほどに強力な戦法はゲームからゲーム性を奪い去り、ともすればプレイヤーに恐怖を与える。観衆を楽しませる「サーカス」にもならない。

しかし作中ではこの飛び方を否定するのは、かつてこれらを開発した当人である部の顧問・葵だけである。真白などさらっと真似ている始末。
みさき、明日香は沙希の戦法に真っ向から対峙し、立ち向かう。そして沙希にはただ「一緒に飛ぼう」と語りかける。そこには沙希に対する競技者としての強いリスペクトが存在する。
みさきと明日香に触発され、リリーナに前述の飛び方を強いられていた沙希が、「一緒に飛びたい(これが初めて身に付ける「沙希の飛び方」でもある)」と願ったとき。
そしてグラシュのバランサーを外した(=一緒に飛ぶことを拒否した)沙希に追随する(=一緒に飛ぶ)ため、明日香もバランサーを外したとき。
今までの競技の常識を越えた、途方もない光景が現出する。
バードケージ等の技を開発してしまった、そんな自分のスタイルへの憧れをリリーナに抱かせてしまったことに対して葵がずっと抱え続けていた自縄自縛の呪いまでも解ける。主人公同様引退した身で、もう一度飛びたいと願ってしまうほど。

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自分にない何かを持った人が描く軌跡に憧れて、時にはそれに届かない現実に心折れることもあるけれど、それでも焦がれて、追うように飛翔し、最後には「自分の飛び方」を見つける。
この各人に共通するストーリーラインが競技と心情の両面で完璧に融和しているのがアニメ『蒼の彼方のフォーリズム』だった。
互いが互いの飛び方に何を感じてどう思ったかという点に着目し、改めてフライングサーカスの一戦一戦を観戦してみれば、他者と軌跡を交える行為の含意もうっすらと見えてくる。バードケージやグリーンスリーブスは「軌跡を交えない」技でもあるのだ(言い換えれば、みさき戦までの沙希は相手と一緒に飛んでいない。対戦相手はレースゲームでいうゴースト未満の扱い)。

だからこそ、互いに焦がれて追いあうことでしか生まれ得ないラストバウトの光景は、私には言葉にできないほどに美しく、そして尊く映った。
回想で度々描かれるアンジェリック・ヘイロー*1の延長線上にあるかのような、光の繭のような軌跡。
グラシュの描く軌跡をパイプとして、人と人との憧憬が、誰かと一緒に飛びたいという想いが、巡りあい循環している。

繊細かつ鮮やかな筆致でふたりの少女の感情の移ろいと友情の始まりを描いた第4話、明日香・真藤との対比を重ねて鳶沢みさきというひとりの競技者の再起までを描き抜いた第9話も本当に素晴らしかったのだけれど、今回は最終話に軍配を上げたい。挿入歌の使い方も相まり神がかった話数となっていた。既存のPC版主題歌なのにシーンに200%マッチしているという。
作品単位でも間違いなく今年べストアニメの一角。ベストなのに一角とはこれいかに。

■想いのかけら(25分版)

福島ガイナックス創生の光にして昨年『放課後のプレアデス』を製作した佐伯昭志監督の最新作。オールタイム1話完結アニメベストかもしれない(そんなに数観てないが)。
2015年秋初放送の2分版をバージョンアップした、2月放送の5分版は率直に言ってよくはなかった。ナレーションに会話にモノローグに挿入歌とレイヤーの異なる言葉を短時間で次々投げつけてくる困った作品だった。対して、この25分版は2分版に蒔かれた要素に新たな要素を盛り込みながらも、一切の余剰も不足も見当たらないパーフェクトな作品となっている。初見時、2周目、幾周目とボロボロ泣いてしまった。選出にあたり今また視聴したが案の定ボロボロ泣いている。

震災により母親を失った主人公・陽菜と父は「異なる時間」を過ごしている。漁師である父は早朝には仕事に出なければならないため早寝早起、結果として同じ仮設住宅に居ながら娘と生活時間帯がずれている……という意味合いがまずひとつ。
そして、震災に関する体感的な経過時間がふたつめとして挙げられる。当時小学生だった陽菜の記憶はおぼろげだが、一方で父は鮮明なまま。「七年も経った」と口にする陽菜と「たった七年だぞ!」と憤る父の姿は印象的に映る。
生活時間と体感時間の二点でふたりは噛みあっていない。付け加えて、陽菜は陸で、父は海で過ごす時間が長い。「異なる場所」で生きているとも言えるだろう。

そんなある日陽菜の元に届くのが、幼なじみのみちるが引っ越しにより街から離れてしまう事態と、七年前に埋めたタイムカプセルから取り出された一本のリボン、そしてボランティアの写真修復プロジェクト「想いのかけら」によって修復された亡き母との写真。
陽菜はリボンが母親から贈られたものであることを思い出し、同時に母を忘れてしまっていた自身に対する悲しみ、楽しかった日々が永遠に失われている現実への悲しみに直面する。これにより陽菜の体感時間は父のそれに急激に接近する。

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昼と夜が交わる夕刻、陸と海が交わる防波堤で、父娘の時間と場所はひとつになる。シチュエーションを比喩っぽく重ねているのも詩的でグっとくる一幕。
陽菜は自分の気持ちを父に伝え、無理なのはわかっているけどこの街をどうにか戻したいんだ、諦めきれないんだという父の気持ちを知り、ひとつの回答に辿り着く。

「無理かもしれないけど、この街が好きってそういうことだもの。それが当たり前なんだよ。好きな気持ちを忘れることのほうが、やっぱり悲しいと思うもの」

陽菜も、みちるも、街も変わっていく。当人の気持ちとは関係なく。
変われないのは父の感情だけだ。そんな父を陽菜は否定しない。 みちると別れてしまったことが、母を忘れていた今の自分が、そうした変化のひとつひとつが、たしかに悲しかったからだ。

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「だけどこうして、ほんの少しずつ、少しずつ、気付かないくらいにしか違わない毎日を重ねながら、私たちは変わっていく」

7歳の自分から贈られたリボンが、すべてを元に戻したいと願う父の気持ちの肯定につながり、同時に14歳である現在の自分が(本来届く予定だった)20歳の未来に向かうための背中を押す。
「途中で届いたタイムカプセル」というアイテムを用いるにあたり、これ以上ない作劇だろう。

ところでこの「私たちは変わっていく」という台詞は、私には能動的にも受動的にも聞こえる。
否応なしに流れてしまう時間というものへの諦観……つまり「私たちは変わっていってしまう」ことと、その上でなお何かを積み上げていこうとする「私たちは変わっていく」決意がこの一言に集約されているからだ。
「時間」という人にはどうしようもないもの、それによりもたらされる「変化」に対して、挫けず、面を上げ、前に踏み出す。転んだなら切り返して持ち直す。結果が伴わなくとも、笑う。
アニメでは陽菜が独白と共にフィギュアスケートでこうした美しい姿を見せたが、この独白の主語はあくまで「私たち」である。では「私たち」に含まれる人とは? アニメの中の人々? それとも現実の被災者の方々?
もちろんそれらもあると思うけれど、私は「時間」「変化」に抗えないすべての人へのエールだと解釈したい。それくらい誇大に考えてしまう普遍的パワーを本作には感じた。

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他ならぬ「変わってしまった(仕方なく町を離れた)」側のみちるが「変わっていく」陽菜を観客席から見て涙と笑顔を浮かべるの、いくらなんでも反則だろう……。

ビッグオーダー 第6話「オーダー! つなげ、魂!」

えすのサカエ的としか形容できない異常な空気が支配する本作。展開の突飛さと論理圧*2の凶悪さがクセになる原作に例のゴキゲンな劇伴と森田成一さんの「オーダー!!(絶叫)」をオーダーしたアニメ版『ビッグオーダー』、信じられないほど脳にキマる。今年最も脳細胞に深刻なダメージをもたらしたアニメといえば『ビッグオーダー』。次点で『アンジュ・ヴィエルジュ』だろうか。
速い・オカしい・イカれてる。三拍子揃ったドライブ感に1話完結としての完成度を備えたのがこの第6話である。

「お前を妊娠なんかさせねえから!」という2016年最悪の台詞のインパクトは勿論のこと、やたら気合の入った蕎麦の作画、脱衣、少年と少女の機微に沿ったリリシズム溢れる一幕の会話、瞬間心重ねて合体、オチの次元両断<ディメンションソード>と見どころは異様に多い。というか見どころしかない。神魂命の「ヨダレ止まんね」という台詞を「やっべお汁が止まんない」に改変した高山カツヒコとかいう脚本家はえすの先生のぶっ飛んだノリとちょっと相性良すぎたのだろう。次回作がもしアニメ化したなら絶対また登用してほしい。

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あまりにも唐突に登場する敵方最強クラスの剣客・柳生十兵衛より放たれる無体なガー不必殺技・次元両断<ディメンションソード>がオチを一手に担う。敵の刺客は始末されるしお汁止まんない巫女は死ぬ。全体の流れまで両断して即ED。ヘタな爆発オチなんて目じゃない傍若無人な展開である。それにしてもものすごい絵ヅラだ。飛ぶ斬撃がエネルギーや空気でなく金属質なの初めて見たぞ。
そんなきわめて完成度の高い回。あとそれと壱与がとてもかわいい。

■アンジュ・ヴィエルジュ 第9話「誰よりも速く」

アンドロイドは人間の理由なき「大切」を理解できるか。
どこを切り取ってもべらぼうに会話が濃くて胸焼け必至な本作、白の世界編はシンプルな言葉ひとつに膨大なニュアンスを籠めてズバッと投げこんでくる。パートナーを想うふたりの少女の、アクセル全開のドラマティックな衝突。叙情とドライブ感に満ちており、ロジック面でも優れた傑作回だった。

詳細は上記の記事の白の世界の項に記載したので割愛。
上の『ビッグオーダー』も併せて、個人的に2016年は高山カツヒコイヤーだったと言っても過言ではない。

■ガーリッシュナンバー 第1話「やさぐれ千歳と腐った業界」

俺たちのディオメディア*3が満を持して発射した2016年の最終兵器。ディオメディアラノベアニメのある意味ひとつの結節点。
「社会通念上汚いとされる欲望(承認欲求を含む)」「それを求めてしまう人格」「いくらでも代わりの利く人材・事物」という諸々の残念なシロモノに作中で「クズ」「クソ」というバズワードを割り振り、それらすべての存在を認める祈りと許しの物語が本作だが、第1話はスタートからゴールの勝ったなガハハ!に至るまで作品のヤダ味を結集している。
「このアニメはこういう作品です!」と視聴者に力強く宣言するのが第1話の役割だとするなら、この回はその役割をきっちり果たしているといえるだろう。後の第11話(この話数を選出したかった気持ちも大きい)において主人公・烏丸千歳が辿り着く、邪道も邪道の境地を1話時点で完璧に予想できる人はそういないと思うが……。

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特殊OPの舞台裏でくるっと回って無邪気に笑っている千歳はちょっともうめちゃめちゃ可愛らしい。そして切ない。胸がきゅっとする。
イベントの帰り道で百花と一緒になり、連絡先を交換して別れた後の「なんかいいなあ」も、格上の声優と知り合えた喜びと単純に友達ができたことへの喜びが渾然一体でなんともエモい。八重と京の出番を2話にズラし、ぐだギスっとした現場の空気と千歳の魅力を前面に押し出すことを優先したという点でも技ありな1話である。
それにつけても九頭P。「宴も高輪プリンスホテル」→「よっこらセックス!」の流れはいくらなんでもひどすぎる。フツーに目眩を起こしてしまった。絶望感すら覚える台詞回し。これはひどいアニメがきちゃったぞと思わせるには十分過ぎるしなんならここで視聴打ち切りまである。

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千歳はアレだし社長も軽いしラストの三人の掛け合いオモシロすぎる……無駄に劇判のラッパが効いてて尋常ではないアッパラパー感。破滅一直線の物語の幕開け、なんかもう全部がきちゃない。そしてそれでこそ意味がある。『ガーリッシュナンバー』という作品を象徴する名シーンのひとつ。
余談だが、今後悪化の一途を辿る烏丸千歳のパーソナリティは前日譚の小説を踏まえると余計複雑に映る。これがまた大変な読み応えがある。ただの小学生めいたノータリンなスカタンではないらしいのだ、一応。

さらに余談だが、本作の主人公・千歳と上に挙げた『アンジュ』の主人公・紗夜、後に述べる『卓球娘』の主人公のひとり・上矢あがりは、いずれも承認欲求に囚われて前が見えなくなってしまった人物。
それでいて全員がまったく異なる三者三様の答えに行き着いたのはとても印象に残った。
バトルものであるアンジュはともかく、このようなケースにおいては部活もの・業界ものの場合「承認欲求もあるけど題材にしているものが何より好き!」を結論に置くのがベタで強力な一手となる。そういうの一切言及されない烏丸千歳は突き抜けている……

灼熱の卓球娘 第3話「好きっ!!」

そのベタを十全にやりきったのがこの熱量の暴風雨みたいな回。
部内ランク1位の座をこよりに奪われかねない事態に焦燥感を禁じえないあがり。今のあがりにとって卓球は目的ではなく、承認されるための手段に変質している。ラケット型のサイリウムを前にアイドル姿でステージに立つイメージ映像は笑えるが驚くほど本質を突いている。身に覚えがあったりあったりする。おかげでびっくりするくらい刺さった。不覚にも涙腺を殴打されてしまった。

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何をやっても人並みにできない、何にもなれない、けどでも何かになりたかったときたまたま出会ったひとつの競技で、人より少し上手くできたことをほめられて、嬉しくて、それを好きになって……そんな誰でも持ちうる導線に対しての「ほめられるのが好き? それともそれ自体(卓球)が好き?」という問いをフォアハンドスマッシュのプレイひとつに集約する構成力。
動機はどうあれ努力を重ねて都ベスト8まで上り詰めたあがりの向上心自体は心底尊敬できるものだから、部員のあがりに対する尊敬も今と昔とでさほど変わらず、ただ賞賛だけを追い求めてそれに振り回されてきたあがりの「賞賛の受け取り方」だけが変わった……この変遷を、あがりの笑顔ひとつで示すシナリオ力。
特殊OPで負けられない理由を語り、特殊EDでそれから解放されるまでの彼女の道程を並べ直す演出力。
どれを取っても素晴らしいし、ここまでやるのはズルいとも思った。

ほめられたいから勝ち上がりたかったあがりがこよりのプレイに「好き」を引き出されたのと対照に、「好き」だけで満足していたこよりがあがりのプレイを間近に見て自身の勝ちたい理由を定義する第5話(全国を真剣に目指すというあがりの思いそのものはこより戦前から持ち続けていたというのがすごくツボ)、承認されたいという一心であがりが積んできた努力と育んだ実力を肯定する第9話と、本作は作品全体を通してのバランス感覚にも優れている。
『卓球娘』は全12話の構成を逆算して作ったかのように連続的に主題が散りばめられており、恐ろしくまとまりが良い。そのあたりを適宜拾っていくのも楽しかった。
競技に向き合う少女たちひとりひとりの心に真摯に寄り添った名作。

■フリップフラッパーズ 第6話「ピュアプレイ」

不和の家庭と子どもの孤独を描いた話にめっぽう弱い。
ふわっとした印象の過去5話の冒険とは明確に切り口が異なり、第6話は血肉を伴った「イロドリ先輩の過去」として捉えられる。パピカとココナで先輩の心の役割を正負に分離するイリュージョンは子どもの精神の有り様を如実に描き出す形で作用し、内容の生々しさをいや増す。
画面レベルでの暖色ー寒色ーモノトーンの使い分け、初めは意味のわからない「イロはイロだよ」という台詞が「彩いろはは初めからひとりであり、両親の不仲やおばあちゃんの認知症に直面した『不幸なイロ』を切り離しての『純粋に幸福なイロ』という存在はこの世のどこにも存在しない」という現実をおぞましいほどの鋭さで突きつける。
どこにも行き場のない彩いろはの閉塞を打破するのは「忘れられたらまた名乗る」という約束。絵の端に名前を書くようになったPI後の変化も示唆に富んでいる。

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爽やかに終わった6話ラストが7話アバンによりまったく別の意味合いを帯びてくるのも強烈。

と、こうしてざらっと書いてはみたが、正直私には全然消化しきれないレベルの回である。
『フリフラ』は各話まったく味わいの異なるパワフルな大冒険を描いた前半から一転、後半は広げた風呂敷を畳むべく怒涛の設定回収と母子を取り巻く主要人物のドラマに終始し収束していく(ラストは再び発散する)のだが、結び目となっている6-8話あたりが私は特に好みだった。9話のココナーヤヤカ戦は幼なじみ好きにはつらすぎてつらい。結局ヤヤカのほうがぽっと出のポット野郎だったわけで……新人脚本家ハヤシナオキ、絶対許せねえ……

響け!ユーフォニアム2 第9話「ひびけ!ユーフォニアム

群雄割拠の2015春アニメ最強の一角だった『響け!』。続編となるこの作品も実に最高の逸品だった。サブタイトルがタイトルの回は……。
高坂麗奈さんのオトメムーブがはじけるAパートも実にイイが、面倒くさい女子が三度の飯より好きな私はBパートの田中あすかについて書こうと思う。
香織先輩の登場から始まる、手すりや柵を用いたあすかとの隔絶を示す画面作り。香織に靴紐を結ばれるあすかの表情は窺い知れないが、恐らく大変おっかない。誰に何を縛られるのも厭うあすかのキャラが端的に描かれている。

勉強会の休憩時間に、あすかは自分がユーフォを吹く動機を語り、久美子はそれでもあなたの音が好きだ、今すぐにでも聴きたいと返答する。
私情を殺した滝先生を既に描いているからこそ対比でいっそう際立っている、私情で動いてしまったあすかの自嘲に「そこに何があっても私はあなたの音が好きです」という気持ちをぶつけたのが、あすかが最もユーフォっぽいと感じ憧れた黄前久美子という……その……

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「私、自分のことユーフォっぽくないってずっと思っていたんだ」にはショックで息が止まってしまった。
あすかの独奏は美しく、胸を打つものがあるが、ここでも鉄橋を挟んでふたりの断絶はなお続いている(と読める)。
これを「吹奏楽部という巨大な郡体のうちのひとり」ではなく「黄前久美子という個人」として飛び越えるのが第10話だろう。あなたの音が好き! に留まらず、自分のため(そしてあすか自身のため)に本番の舞台で吹いてほしい! と語った久美子は、私利私欲で吹いてきたと吐露した9話のあすかに対応する。だからこそあすかの許し、救いとなれる。
この、誰のため、何のために吹くのかという命題は『響け!2』全体を貫く柱のひとつなのだと思う。

家族の影響から教本の種類、誰かにほめられて嬉しかったことまで黄前久美子と田中あすかのスタートラインはまるで同じ。
ずっと黄前久美子のことをユーフォっぽいと感じていたあすかの目線で振り返る劇場版『響け!2』絶対観たい……観たい!!!

■ViVid Strike! 第10話「雨」

2016年最高のアニメは今なお議論が待たれるところだが最強のアニメはこれであった。
選んでおいてなんなんだけどこの話数そのものについて私が何か語るのは難しい。会話劇が凄絶、これに尽きるからだ。一撃が重い。キレ味も抜群。一言話すたびに精神が爆発する。都築脚本神話の再誕を見た。ぶっちゃけ台詞全部書き起こして最高!!!! 以上!!!!! って書いて失神するのが一番手っ取り早い気がする。
とはいえ選んだ手前最高!!!! で済ませるのもやっぱアレだから色々書いてみようと思う。結論から言えばリンネ・ベルリネッタの掘り下げがこちらの想定を圧倒的に凌駕していたのと、背後で静かに進行したフーカ・レヴェントンの物語の両面に完敗したのだが。

これより前の話数でも出てきているが、リンネの台詞は強くなったと「思いたくて」という言い回しが肝で、彼女は自分を信じられるようになるための手段として格闘技に傾倒していた。リンネの強迫観念めいた強さへの執着が、ヴィヴィオ相手の二度の敗北できれいさっぱり意義を見失うのは理に適っている。
フーカは拳と言葉でリンネの本当の気持ちを掘り起こしていく。「心が弱いからベルトにつられてフラつく」「お前の求める強さは自分の弱さから逃げ出す言い訳じゃないのか」「お前はベルトを心の支えにしたいわけでさえない」。この行程のひとつひとつも威力満点で吐きそうになるほどキツいのだが、最後にリンネから飛び出してくるのは「許されたいけど許されちゃいけない」「私は世界で誰より私が嫌い」という凄まじい自罰と絶望。これにて私はぐちゃぐちゃ泣く。悲しくて泣く。どうして被害者のはずのリンネが殺人者めいた自責を背負っているんだ。

この瞬間、5話から歩みを止めなかったフーカの動機も変転する。
彼女はリンネを尊重していた。「今さら何もできることはない」「リンネの悩みはリンネのもの」とリンネの重ねた四年間と変わってしまった事実自体は肯定して、ただその結果として変質した「今この瞬間のリンネ」が死ぬほど気に食わないから殴りつけにいく。そういうスタンスでこの決着の場に臨んでいるはずだった。断じて「あいつを更正させたい」などというお節介な話ではなかった。
それはフーカ・レヴェントンという人物が幼い頃から抱え続けている、他者に対して一線を引く気性だ。孤児という出生に由来するものなのだろう。ジムの仲間全員に一貫して敬語で話すのは単に先輩という理由だけでなく、このあたりも遠因なのかもしれない。

しかし、リンネの苦しみが今もなお続いていることを知ったフーカは明確に「お節介」にシフトする。厳密には「お節介をできるようになる」「したいと願えるようになる」。突き放されても付き合おうとする。リンネの言葉を借りると、彼女はお説教もお節介も……他者の内面に踏み込む行為が、大の苦手であるはずなのに。

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リンネの一撃に気を失いかけ、倒れる間にフーカが思い起こすのは孤児院でリンネとお菓子を分けあった日。生まれて初めて笑えた日。
友達の痛みを半分背負いたい、一線を踏み越えたいとフーカが希えるようになった、その原初の光景にもリンネがいたという……。

「お前がわしを嫌いでも、ただの他人だと思っていたとしても、それでええ。わしには、お前は大切な幼なじみで、友達じゃ! だからじゃ。お前がそうやってひとりで泣いとるんが、涙で目を腐らせとるんが、わしはどうにも我慢がならん!!」

「つらいことや後悔があるなら、誰にも言えんことがあるなら、わしが半分背負ってやる。お前を苦しめるものがあるんなら、わしも一緒に戦ってやる。じゃけん、わしが大好きな幼なじみのことを、自分のことを、嫌いだなんて言わんでくれ」

ほとんど目立つことはないが、大きな悲劇を背負った少女・リンネ・ベルリネッタの物語の裏にはたしかにフーカ・レヴェントンの物語がある。この両面性はなるほど、かの系譜の始まりの物語に連なるものなのだろう。

なんか全体の話になってしまった。やっぱりこの話数は語りきれないなと今こうやって書いて思う。台詞全部書き起こしたほうがいい。なんなら観るのが一番早い。
リンネがこのどうしようもない自罰の檻から解放されるための拳撃に「きっと、神様だって倒せます」という激エモセンテンスを当てはめた(作中で一番好きな台詞です)第11話『撃ち抜く一撃<ストライク>』も至高中の至高、超傑作回だが、今回は最も精神を打ちのめしてきた10話を選びたいと思う。
春に放映された『ばくおん!!』も併せて、客観的に2016年は西村純二イヤーだったと言って相違ないだろう。
キングレコードの提供でお送りしました。


以下、他に候補に挙げていた話数も10コ。
ファンタシースターオンライン2 ジ アニメーション 第6話「禁じられたPSO2
あんハピ♪ 第7話「はなこのお見舞い」
キズナイーバー 第7話「七分の一の痛みのそのまた七倍の正体に触れる戦い」
甲鉄城のカバネリ 第3話「捧げる祈り」
ばくおん!! 第5話「つーりんぐ!!」
ふらいんぐうぃっち 第8話「常連の鳴き声」
Re:ゼロから始める異世界生活 第13話「自称騎士ナツキ・スバル」
ReLIFE 第10話「みんなのワガママ」
■装神少女まとい 第11話「いってきます」
■ユーリ!!! on ICE 第11話「超超がんばらんば!!グランプリファイナルSP」
ハイスクール・フリート 第10話「赤道祭でハッピー!」*4

聖戦ケルベロス 竜刻のファタリテ』や『田中くんはいつもけだるげ』、『クロムクロ』『ももくり』あたりは総体としてきわめて良かったので話数単位には挙げられなかった。
こうして挙げてみてわかったけど、やっぱり私は味が濃くてわかりやすい話が好みらしい。毒が仕込んであるとよりグッドである。

以上。今年のアニメも豊作でした。
年を跨げばすぐに次クール。霊剣山で待ってるぜ!

*1:選手時代の葵の技。相手の周りを周回することで動きを封じてタイムアップを狙う。これも「軌跡を交えない」技である。

*2:よくよく考えるとムチャなロジックを、有無を言わせぬ勢いと場の雰囲気で押し通して受け手の首を縦に振らせる力。造語。

*3:渡航が言ってた。

*4:当確レベルの話数なのだが作品そのものを十二分に楽しめていないので選外とした。私の受け手としてのレベルがはいふりに追いついていない。

【イベント参加告知】天体のメソッドオンリーイベント「北美祭2016」11/5(土)@大田区産業プラザPiO

イベント概要

隙間ジャンル総合イベント「スキマフェスティバル11」内イベント「北美祭2016
北07「窓色アルバム」

新刊情報

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 誌名:天体の足跡

 版型:A6(文庫サイズ)オンデマンド

 イベント頒価:700円

11/5(土)大田区産業プラザPiOにて開催される北美祭2016で、天体のメソッド二次創作小説「天体の足跡」を頒布します。
Pixivで公開中の前日譚の加筆修正版2編、およびそれらの続編となる書き下ろしのアフター2編、以上4編収録で計252頁となります。
いずれも戸川汐音メインのお話です。

本作メインとなる書き下ろし中編「星の辿り着く場所」のサンプルも現在Pixivにアップロードしております。

7年前汐音と花織が交わした手紙、乃々香とノエルの抱える痛み、そして汐音の将来の夢、みたいなお話。
会場では本編に収録しきれなかった8ページの掌編(修一メイン・過去補完)もコピー本として無料配布しますので、天体のメソッド好きな方は是非お立ち寄り頂ければ幸いです。こちらは花織が逝去した直後のお話となります。

また、主催者様のサークル(北01,02「そらメソファン.org」様)で頒布される、オンリーイベント開催を記念した合同記念誌「流星たちのアンコール」(総ページ数70・フルカラー)にも掌編を寄稿させて頂いているので、よろしければこちらも併せてお求め頂ければ何よりです。
天体のメソッド本編では登場していないとある女性についての想像(捏造!)となっております。たぶん寄稿者の中で一番暗い。

それでは、11/5 北07「窓色アルバム」にてお待ちしております。
当日はよろしくお願いいたします。