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信じる勇気をダンスに変えて ~映画『ポッピンQ』感想~

東映アニメーション創立60周年記念映画『ポッピンQ』を観た。
傑作だった。快作だった。2016年マイベスト映画だった。そして困ったことに怪作でもある。
マスにヒットする娯楽作品の形と要素単位では重なるものの、できた作品はわりとズレている。人の共感を呼び、説得力を生み出す箇所にぽっかりと空洞が存在するのだ。
しかし、だからこそ凄まじいパワーを内包するに至った代物であった。少なくとも私にとっては。 そしてきっと、まだ観ぬ誰かにとっても。

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何かを探して彷徨うような薄暗いキービジュアルが印象的。

神様!tell me tell me tell me 教えて
未来は僕らに光をくれるの?
神様!tell me tell me tell me 答えて
僕らの瞳は 明日を ねぇ?みつめてるの?

冒頭で描かれるメイン5人の悩み、CMでもおなじみ伊純の言葉にならない鮮烈な「あーーーーーー!!!」、そこから卒業式の朝を迎えて雪崩れ込む青春全開のオープニング『ティーンエイジ・ブルース』。これにてガッチリ心を掴まれた青春おじさんこと私である。
ここで私は当然のごとく以前このブログでも取り挙げた、今なお心に深く突き刺さっている2015年の大傑作『放課後のプレアデス』や2016年の怪傑作『アンジュ・ヴィエルジュ』のような、少女たち個々人の心の機微を鮮やかな筆致で描き出し、その解決を美しく与えることで大きなカタルシスをもたらしてくれるキモチのいい作品を期待した。そりゃもう期待しまくった。
そんな身勝手な期待は裏切られたり叶ったりした。
そして『ポッピンQ』は私にとってこの2作品と同じくらい大切な作品となった。

『ポッピンQ』は個々を掘り下げない。
『ポッピンQ』は最後まで解決しない。
『ポッピンQ』のダンスは祈りである。


・『ポッピンQ』は個々を掘り下げない。

レミィがさらわれた事件をきっかけに、伊純が蒼たちに対してレノとの密会の事実を告白するシーンがある。 いわゆるみんなで悩みを吐露して心が通じあう名シーン*1だが、初見時私はこう思った。
「個々の悩み掘り下げないのかよ!  尺の都合かもしれないけどならやっぱテレビシリーズで観たかったな……」と。同じように感じた人は結構多いのではないだろうか。
個の悩みを「みんないろいろ悩みはあるし戻りたくないよね。みんな一緒なんだ」という共感で薄めて、それが自分の悩みと向き合う勇気、元の世界に帰る勇気を持つ最初のきっかけとなる。
わるくはない。けどどうなんだろう。テレビシリーズならひとりひとりオムニバス形式で焦点を当てヒロイン同士の交流を描いて丁寧に心を解きほぐしてそれからダンスで世界を救うんじゃ……そんなストーリー展開にもできただろう。
しかしそのシナリオラインはおそらく『ポッピンQ』という作品が掲げるスタンスとは異なるのだと思う。

「自分の力で乗り越えないと、意味がない!」(沙紀)

この作品は旅先で仲間の協力によって個々の悩みやトラウマを払拭し、あるいは払拭できるという確証を得て、元の世界に帰る物語ではない
ただ自分の問題と向き合う勇気を得て、帰った先々で各自ひとりでケリをつける物語である。そうでなければ意味がない、とも言う。

……とはいえ、主人公である伊純と、ダンスが自己の問題の中心にあった沙紀以外の3人の掘り下げが少ないのは純然たる事実。 受け手が彼女たちに共感するためのレールはそこまで親切には敷かれていない。
ヒミツで甘い♥パートナーとのサイドストーリー『ポッピン・ドロップ』*2を読んだほうが共感しやすくなるのは間違いない。思慮深いピュアな女児ならあの夜の一幕と周辺の描写だけで容易く共感可能なのだろうが。
私を含む多くの受け手にとって補助線としてこの上ない一作なので、本編を観て良かったと感じた人には激烈オススメ。
ぜひ読了後の2周目で精神を爆発させてほしい。 

ポッピンQ~ポッピン・ドロップ~ (小学館ジュニア文庫)

ポッピンQ~ポッピン・ドロップ~ (小学館ジュニア文庫)

 

 余談だが、彼女たちはその場所で生きている。私たち受け手の理解や共感とは一切関係なく、尊いものはそこにきちんと存在する。『ポッピン・ドロップ』で見えた少女たちの気持ちも、読む前から存在していたのだ。ただ私たちの気が回らなかった、想像力が足りなかっただけ。
このことを忘れてはならないと思う。


・『ポッピンQ』は最後まで解決しない。

本作の最大の特徴としてこの点が挙げられる。正確には「ラストの現実世界まで問題解決の確証を得られはしない」というべきか。
5人は異世界である“時の谷”にいる間、決して自身の問題についての直接的な解決を与えられない。
また、先に挙げた通りこの作品の根底には「自分の問題は自分で解決しなければ意味がない」というドライな価値観が横たわっている。伊純の告白を受けた夜の後も、彼女たちは他者の問題に踏み込まない。解決できないことを知っているからだ。他ならぬ自分自身がそうであるように。
『ポッピン・ドロップ』においても、とうに内心の知れた自分の分身・同位体との内省的な対話こそすれ、仲間に対しては「○○ちゃんは(も)こうなのかな……?」と想像するだけに留まる。
彼女たちは互いに心を許した仲間でありながら独立している。

さて、繰り返しになるが、伊純の告白をきっかけに4人は全員が悩みを抱えていること・元の世界に戻りたくないことを知り、互いに心を通じ合わせる。
一方で個々の問題そのものに関しては宙ぶらりんのままだ。解決が与えられない状態で物語は淡々と進行する。
ここで重要なのは、彼女たちは現実に問題を抱えたままで勇気のダンスをマスターしたという点である。
彼女たちの「勇気」とはなんだろう? “時の谷”を救う使命感、元の世界に帰る(仲間を帰す)義務感、そして帰った元の世界で自分の問題にケリをつける覚悟。いろんな気持ちがないまぜの状態で彼女たちは突き進んでいる。
このどこか地に足の着いてない「勇気」はこちらとしても不安なものだ。内面の整理もついていないのにどうして勇気を持てるのだろう? としっくりこない人もいるだろう。
だが根拠が薄いから勇気なのだ。
不確かな未来へ漕ぎ出すエネルギーこそが勇気と呼ばれる感情である。
そして勇気とは、互いの私的な問題を分けあい背負いあうのではなく、ただ同じように悩んでいる仲間が前進しようとしている事実だけで奮い立てられる、もらいあえる気持ちでもある。


・『ポッピンQ』のダンスは祈りである。

ダンスは趣味も特技も異なる彼女たちをつなぐ媒介である。
しかし、沙紀を除く誰の問題とも直接関係しないものでもある。「音楽」「かわいいもの」「他人との協力が不可欠のもの」と、各々の問題と微妙に重なるポイントは散見されるけれども、やはり根本的には無関係。
では本作におけるダンスとは何なのか? どうしてダンスを主題に置いたのか?
自分と他者を鼓舞するダンス、今この時をめいっぱい楽しむダンス、「瞬間の今」の全肯定。いろいろ考えることはできるが、これについては終盤こう言及される。

 「ダンスはここで踊るの。自分を信じれば体は勝手についてくる」(沙紀)

『ポッピンQ』のダンスは「自分を信じる心の動き」そのものだ。
クライマックスにおける内面の描写をダンスという表現に置き換えてしまっている。この観点において実は『未来の歌』『FANTASY』は心情描写に他ならない。
ゆえにこれを頭でなく感受性・フィーリングで受容可能な段階になると文字通り胸を打たれてしまう。 

一方、上述したように、彼女たちの「信じる」は根拠が薄い。
ここが本作の勘所である。

伊純は少しずつ正直になり、仲間に嘘を打ち明けることができた。
小夏はダンスという与えられた題材を楽しむことができたし、あさひは自らの意見を仲間に対しては伝えられるようになった。 蒼は自分の殻に閉じこもらず、なんでも言いあえる友達を作れた。
そして沙紀はダンスを通して、また人とつながることができた。
作品側がまともに焦点を合わせてくれないこの一連の事実は、しかし現実世界での彼女たちの克己を、問題突破を約束しない。

『ポッピンQ』はメインの5人が自分を信じる・信ずるに足る明確な根拠をラストまで描かないことで、逆に彼女たちの「信じる勇気」こそをこの上なく色濃く描き出し、その感情を完璧にダンスで表現しきった作品である。
彼女たちは自分を信じたのだ。心の底から信じきったのだ。リアルの問題など何ひとつ解決していない時の狭間で、リアルと無関係なダンスを踊って。

明日はどこからくるの
今日はどこに向かっているの?
見上げた空は冷たく
希望の色ひとつない

ラストの『FANTASY』から発せられる感情の力強さ、あやふやさ、祈りのような気持ちを受けて、私は涙せずにはいられない。
自身の抱えた問題、苦しみ、悩みに対する「本当は問題などなかった」「これができたのだから大丈夫」というような根拠・確証を得られないまま、なお彼女たちは自分を信じる。
それは科学や哲学によって類推可能な何らかの可能性を「信じる」よりもはるかに不確かな「信じる」だ。祈りと呼んでもいいかもしれない。
自分を信じるということは、つまりはそういうことなのだろう。まだ何者でもない中学生の少年少女などはとくに。

彼女たちは自分と向き合い、信じた。
克己できると信じようとした。
その眩い感情の迸りがラストのダンスに結実している。そのまま形に表れている。
私はこの眩しさに滂沱した。全身が打たれたように痺れてしまった。昨年の作品で一番泣いてしまった。ダンス3分のための1時間半という監督のコメントも十二分に理解した。私は心の中で叫んだ。がんばれ。がんばれ!! 泣きながら。
よく若い人、とくに悩める小中学生に見てほしいという意見を見かけるが、私もまったく同意見である。何も確かなものなど得られない、悩み苦しみの種類も異なる受け手に対しての、これはエールだ。

卒業は、悲しい通過点じゃない。卒業は、新しいスタートラインだ。

帰った先の現実世界で、彼女たちはひとりひとりが勇気を奮い、ひとりで自分を「卒業」する。
“時の谷”で振り絞った「自分を信じる勇気」によってダンスが成功した事実を、元以上の「自分を信じる勇気」に還元して。


以上が本作2周目時点での覚書となる。


・おわりに

一本筋の通った作品だが、十分に受容するにはこちらからのキャッチングが求められる。比較的セリフでの説明も多い世界観・設定を十全に把握し、メイン5人の心境についてある程度理解が深まった2周目で本領発揮したところはあった。私がここまでのめりこんだのも『ポッピン・ドロップ』を読んでの2周目である。 よりセンシティブな人は1周目でしっかり5人を掴めるのだろう。
あるいは、まったく別のアプローチで最高の境地に至っているのかもしれない。
このようなひねた裏返しの感想ではなく、よりシンプルに受け取って最高になっているのやも。
だって世界はシンプルなんだから。

優しくて幸せな映画だった。元気をもらえる映画でもあった。そして信じられないほどの深い感動を覚える映画でもあった。
続編よりもイベントよりも、どうにかもう一度劇場で観たい、公開し続けてほしいという気持ちが一番強い。

そしてこの映画が、伊純たち5人が「信じる勇気」を踊るその姿が、届くべき人、届くことで何かが変わるかもしれない人たちに届いてほしい。
今はそんな気持ちでいっぱいである。

*1:このシーンで「そんなことありません!」と真っ先に言い出すのは、自分の意見をはっきり表明できないという悩みを抱えるあさひである。これが勇気でなくて何なのか! 注視してないと見逃してしまう異常に遠回りな表現だ。『ポッピンQ』は女児アニメさながらの力押しでパワフルな作劇を機軸とする反面、こういうやたら細かい描写も得意だったりする。冒頭のセリフとか。寝姿とか。

*2:本作の関連書籍のうちの1冊。メイン5人と各々の同位体が織り成す1対1のやりとりを通して5人の内面を深く掘り下げる小説。名著。