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夜空の星を結ぶ魔法 ~放課後のプレアデス読解・感想~

アニメ

「寄り添うように輝く星も、本当はひとつひとつが何光年も遠く遠く離れています。何もない空でひとり輝きながら、みんな、同じように星達を見上げているのかもしれません。その輝きが、いつか誰かに伝わるって信じながら」

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SUBARU×GAINAXの共同アニメーション作品『放課後のプレアデス』が先日最終回を迎えた。言うまでもないが多くの視聴者同様、私は感動し、感動し、感動しきり、今なお心身が前後不覚に陥っている。毎話こんな感じだったが今回は特にひどい。どうにかアウトプットしないと心がおかしくなりそうなのでここにキーボードをとった次第である。
今回はこの史上稀に見る傑作(私の中ではもはや宇宙最高傑作)について、散りばめられた幾つかの謎に関する私見・こじつけをがっつり交えつつ、好き勝手に書き散らしていきたいと思う。


・可能性の結晶が持つ意志

放課後の魔法使いとしてエンジンのカケラを集める日々を通し、すばる達5人は自身のトラウマを克服してきた。ひかるは真実を知ること、いつきは自分を伝えること、あおいは誰かが変わっていくこと、ななこはいつか別れてしまうこと。各々の不安や悲しみ、自己否定は、すばるやみんなの言葉で得られた気付き、そこから選んだ自分自身の行動によって、どこまでも優しく取り払われる。
本作の「横の物語」はこの5人のつながりといえるだろう。
そして「縦の物語」に該当するのがすばるとみなとのつながりだ。
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「それにこの星も、君のことが好きみたいだよ」

幼い頃、夢か現かわからない世界で、ふたりは星の交換をした。
みなとはこの世に生まれることすらなかった命の可能性の結晶を、すばるは母と作った折り紙の星を。
序盤でしばしば温室みなとが語る「星が君を導く」とは、この結晶を指していると思われる。星の交換がなければふたりは再会することもなく、物語も始まらなかった。温室みなとは深い眠りについたまま、角マントも呪いの形のままだったかもしれない。コスプレ研究会のみんながトラウマを払拭できたかも怪しいところだ。すばるは温室みなとと交わした言葉に背中を押されて、友達を助けてきたのだから。
では、なぜ可能性の結晶はすばるを導いたのだろうか。
それはきっと、すばる達を応援しているからだ。
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6話においてドライブシャフトは突然の進化を見せる。
初見では意味不明(!)だったこの描写も、10話で花の正体がみなとの集めた可能性の結晶だとわかってからはすんなり理解できるようになる。
すばるの祈りを見たつぼみの花=結晶達は、自ら咲くことを選択した。おそらく自身の姿を確定させることで、弾き出される可能性のエネルギーをすばる達に渡したのだろう。
エンジンのカケラの方はわからないが*1、可能性の結晶達には明確な意志が感じられる。一度人の心に宿ってから弾き出された彼らが、変わりたいと願うすばる達を応援するのはとても自然な感情に思える。すばる達が友達を応援し続けたのと同じだ。
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たった一輪を残して、咲いた花はすべて消えてしまう。

……これも推測だが、角マントも結晶のエネルギーを借りて魔法を使っていたのではないだろうか。*2
自分をやり直すために、自分と似た境遇にある可能性の結晶を助けるために、救いたい対象自体を削りながらエンジンのカケラを追い求めたのではないか。
だとすればその覚悟、心情は計り知れない。みなとがすばる達のモラトリアムじみたカケラ集めを唾棄するのも道理といえる。


・観測するということ

魔法使いのエネルギー=可能性の力は何者でもない人間に宿る。大人のように自分の在り方を規定した者はエネルギーを失い(弾き出されて)、魔法使いではいられなくなる。
「自分は魔法使いだ」と自認したみなととすばるが魔法を失うのはこのためだ。皮肉ではあるが。
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「君だって僕と同じ……自分を呪っている」
「え?」
「心のどこかで君は、このままカケラ集めが終わらなければいいと、本当はそう願ってるんじゃないのか? それが、君自身への呪いだ」

そして、今の自分を否定すると、魔法は呪いへと変わる。

エンジンのカケラを集める活動自体を目的化していること。
変わりたいという自身への願いを、本心では否定してしまっていること。
心の奥底にある「今のままでいたい」という想いをみなとに指摘されたすばるは、自分の呪いを自覚する。
呪いとは自己を否定し、希望を奪う鎖である。
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「私だって信じてる。会長がどう言ったって、すばるは変われるって!」

胸に星を宿せなくなったすばるを最初に後押しするのはあおいだ。7話で「私達は変わっていける」と自分を、相手を信じられたから、あおいはすばるに断言する。

しかし、あおいはすばるの眼前から忽然と姿を消してしまう。
夕焼け空を見上げても、ドライブシャフトは目に映らない。
魔法の世界から弾き出されたすばるは、ふらふらと庭園を彷徨う。手入れがなかったことにされている雑草だらけの花壇を前に、もはや途方に暮れるしかない。
ここですばるの背中を押す、きわめて意外な2人目の人物が現れる。
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みなとの友人(以下梶君)!

「ほら、よくここであいつと一緒にいたろ?」
「あいつって?」
「ほら、うちのクラスのさー、いつもぼやっとしたあいつだよー。えっとー……あれ、おっかしいな……名前が出てこない……」

思いもよらない遠くの星が、同じようにみなとを観測していた。
自分と同様、魔法使いではない人が、である。
梶君の言葉を受けて、すばるは確かにみなとが此処にいたこと、なかったことになっていないことを再び信じられるようになる。
雑草が生えしきった花壇からあの花を見つけ出せたのは梶君のおかげだ。梶君は間違いなく本作の影のMVP。ありがとう梶君。
……まじめな話、ここですばるが「他人」に救われたという事実は、本作のメッセージ、ひいてはラストのすばるの台詞にも多大に関わっていると思う。
だいたい「みなとの友人」(実際キャストにこう表示される)というのがよく考えてみると重い。梶君の一方的な友達認定だとしても、みなとにはまだ観測者がいてくれたということなのだから。

ナナオレの自販機から見事いちご牛乳を引き出したすばるは、今度は消えたみなとへの扉を開こうと天文部室の入り口であがく。しかし魔法が使えないのは変わらない。そして過去にみなとがいたことが分かっても、今いない事実に変わりはない。
みなとは本当にいなくなってしまったのか。諦めかけたすばるの前に3人目の助けが現れる。胸に宿るもうひとつの星、可能性の結晶だ。すばるに魔法のエネルギーを貸して、ここでも彼女を導いてくれる。
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扉を開き、病に伏せる真実のみなとを知るすばる。
植物状態のみなとの手の下には、かつて交換した折り紙の星が置かれていた。みなとが存在を信じられなくなり消えていた折り紙の星は、すばるの意志、観測によって再びその形を結ぶ。
真実のみなとは今も、幻だったかもしれないすばるのことを想っている。すばるもまた、幻だったかもしれないみなとを想い続けてここまで来た。

「ほらね。みなと君も私も、幻なんかじゃないよ」
互いが想っているのならば、それが幻であるはずがない。


・十字の星と五芒星

魔法使いが宿す胸(黒すばるのみ頭部)の星は、彼女達の可能性そのものである。
何者でもない、故になんにでもなれる放課後の魔法使い達は、胸に十字の星を宿す。
角マントは自身に可能性がないことを理解してしまい、胸の星を失っている。
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黒すばるはすでに何者かになった後で、なお変わろうとする意志・希望を持つことで、頭上に光なき星を宿す。ダークエネルギー同様、既存の科学では観測しえないが、確かにそこにある可能性。星の持つ引力ではなく、斥力……離れる力を持つ何か。「まったく新しい魔法」。
(ちなみに、すでに何者かになったすばるのコスチュームは角マント同様、無垢な白から何色にも染まらない黒に変わっているが、自分を否定してはいないので呪われているわけではない)

何者かでありながら、再び何者かになれる≒変われる可能性を宿す「まったく新しい魔法」とは、こじつけるなら「変わること」を自己の在り方として規定し直すことなのかもしれない。
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そして白みなとは可能性の結晶から生まれた、星型の星を宿す。
本来、魔法使いのコスチュームに星型は宿らない。宿るのは個の光、十字に伸びる光点の星だけである。みなとの胸の星だけが唯一の例外として描かれる。
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五芒星という形は他者との間に象られる。
夜空に星型の星が存在しないのと同じだ。星型は所謂パブリックイメージであり、現実の星がそのような形をしているわけではない。人同士の認識の間にのみ、星型は存在する。*3
みなとの星が星型なのも、それが他者とのつながりによって生まれたからではないかと思うのだ。無論、他者とはすばるのことである。すばるに貰った折り紙の星がみなとにとっての淡い希望=可能性だった、と考えてみても面白い。

衣装に白さを取り戻し、ピアスの色も赤から黄色に変わったみなと。さながら寿命を迎えたベテルギウス超新星爆発を迎え、新たな星に生まれ変わったようでもある……が、この衣装は胸に星型を宿す一方で(ピアスを除いて)十字の星を一切宿していない。星がキラキラと目に眩しいすばる達のコスチュームに比べると非常に淡白な印象を受ける。
ともすればこのみなとは、角マント以上に個としての可能性を持っていないのかもしれない。
この『放課後の世界』では既に滅びてしまったみなとに、この世に生まれなかった命の可能性とすばるの観測が与えた、一時ばかりの仮初の姿。それが白みなとなのかも。


・本当の魔法

「君達のおかげで僕達は新しい可能性を探す旅に出られる。宇宙の理を越えてまで、君達はエンジンのカケラを集めきったんだ! これこそが本当の魔法だよ!」

11話でちゃっかり暴露されていたが、プレアデス星人の魔法は科学に等しい。任意に可能性を選べるという技術は、言い換えれば「できることしかできない」。正しくSFの枠内といえる。

「ファンタジーは現実で存在しない、また存在しえない事柄を扱い、SFは現実に存在しうる、また将来いつか存在するようになるだろう事柄を扱い、つねに論理の領域内にある可能性に限定される」
(『天使と宇宙船』 フレデリック・ブラウン)

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本作において並行世界はそれぞれが独立しつつ、同時に重ね合わせの世界としても扱われる。
特に6人の運命線が複雑に絡まりあった『放課後の世界』では、意志こそが世界を収斂し、事象を確定する鍵となる。
「この宇宙のおかげなんかじゃない。全部私達が、自分の意志と自分の力でやったことだよ!」
という、11話でのひかるの言葉は圧倒的に正しい。
重なり合っている世界を、求めるひとつに収斂させるもの。
エンジンのカケラを集めきれたのも、バナナオレの自販機からいちご牛乳を引き出せたのも、すべては強い意志が世界を引き寄せたからだ。

そして意志とは、他者によって引き出されるものでもある。

他者とのふれあいによって、今まで閉じていた可能性が開きうるということ。
すばるがあおい達の鎖を解き放ったように。みなとと交換した星がすばるを導き続けたように。可能性の結晶達がドライブシャフトを進化させたように。梶君がすばるの観測を後押ししたように。すばるとみなとに魔法が戻ってきたように。
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(すばるに可能性を開かれてきたコスプレ研究会の4人が、文化祭の出し物において自分達が仮装するのではなく、客を仮装させる=可能性を開くのも印象的に映る)

人と人との間で紡がれる関係、その結果生じる確率・可能性の相互作用こそが、プレアデス星人でさえ予測することのできない、宇宙の理*4を越える「本当の魔法」を生む力だ。

この「本当の魔法」は『放課後の世界』特有のものではない。
いきなり飛躍するが、彼女達がしてきたことは言ってしまえば天体観測だ。1話・最終話での星を人に見立てたすばるのモノローグが表す通り、彼女達の……いや、すべての人間関係は、星空の模様と近似である。
現実には存在しない五芒星を結ぶことは、実在しない形を思い描き、夜空に星座を観測する行為と一致する。

そしてその星型は、相手が相手、自分が自分だったから結ぶことができたのだ。
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「みんなを羨ましく思うのはきっと、困ったとき、落ち込んだとき、たくさん助けてもらったから」
「完璧な誰かになりたいってことじゃなくて」
「みんながみんなだったから」
「私が私だったから」
「一緒にいられたあの時間」
「だったら、私は私がいい。そしてそのとき傍にいる人の、きれいなところ、いいところを、たくさん見つけてあげたい」

「私は、私になる」

気付きを得た彼女達はただ単に元の世界へと「戻る」のではなく、自分の意志で元の世界を選んで「行く」。

星はいつだって離れ離れで、人も結局ひとりなのかもしれない。
けれど、自分と相手を肯定できたなら、星空を想うことができたなら、きっと孤独にはならない。傍で一緒にいる人と、一緒ではない遠くの誰かと、想いをずっとつなげていける。もしも巡り逢えたのなら、互いの可能性を開いていくことだってできる。
星々のつながりーー星座を結ぶのは、人の意志だ。
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気付いたすばるが抱く祈りに、もう悲しみの色はない。
雨だったはずの流星雨の夜は晴天に変わり、空には星が降り注ぐ。

「夜空に浮かぶ星達は、ひとりぼっちの寂しさと、巡り逢う喜びを繰り返して、長い時の中をすれ違っていきます。
今日の予報は流星雨。星空を見上げていると、今はまだ出逢えていないどこかの誰かのことを、ふと思ってしまいます。
その誰かも、同じようにこの星空を見上げていて。
星達は空から、そんな私達の姿を、見守っていてくれるはずです」

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「待っててね!」
すばるの言葉は、まだ出逢えていないすべての人への、いっぱいの希望だ。


・全話通しての雑感

1話、バス停のあおいを遠くから見つめるシーンで一気に心を掴まれていた。叙情性に満ちた作品が好きだ。ポエムなんかもう大好物だ。心のチャンネルをリリカルに合わせたところで描かれるのは、2話でのすばる・あおいのカケラキャッチ。ふたりの距離感と映像がシンクロしているさま。ここで私は完全にノックアウトされてしまった。
カケラ集めの目的が会長の宇宙船を直すため、というのがピンとこない瞬間もあったが、しばらく観ているうちに、これは彼女達自身が抱える問題と大目的を切り離すことで「一緒に何かを達成したい」という彼女達のシンプルな想いを強調するためだとわかった。これは世界を救うだとかではない、あくまでささやかな少女達のお話なのだ。
そんなミクロな物語を描くために、国立天文台の協力を得ての考証を重ねているのもすごい。色んな意味でおそろしく贅沢な世界の使い方だと思うし、映像面でもこれ以上のスケールの作品は今後そう出てこないだろう。先に物語を作ってから当てはまる宇宙の現象を探したのか、宇宙の現象をもとに物語を作っていったのかはわからないが、各キャラクターの個別回は、もとい個別回も、ひとつのハズレ回もない傑作中の傑作である。本筋やテーマとリンクしているのがまた素晴らしい。YouTube版からの4年間でどれほど徹底的に練りこんだのだろうか。
本作は単に科学・天文学方面での考証が重ねられているから良いのではない。重ねた考証を物語と接続し、見事に一体化しているからこそ、こうも魅力的に映るのだ。
ダイナミックな宇宙の情景と少女の心象を重ね合わせる手法には宮沢賢治を感じたりもする。心を直接揺さぶられるような感覚は文字通りの「感動」だった。これが映像媒体の力かと感服した。毎回私の精神が崩壊しそうだったというのは誇張のない本当の話だ。
個別回があまりに良かったため、9話以降の「縦の物語」に不安を覚えたりもしたが、それもまったくの杞憂だったのは上につらつら書き殴ったことからお分かり頂けると思う。10話で少年の一人称視点が飛び出してきたときなんかはもうね……

放課後のプレアデス』はSFと魔法と少年少女の心にどこまでも誠実な傑作ジュブナイルアニメだった。
6月末からは学研から児童書、8月にはSF作家・菅浩江先生がみなと視点(!)の小説を刊行されるが、どういったジャンル・枠組みにおいても通用するパワーが本作には詰まっている。
他の刊行書籍も含めて楽しみに待ちたい。Febri Vol29*5も素晴らしかった。放課後のプレアデス……ガイナックス最後の光……


おわり。
星を想って生きていきたい。

*1:10話で角マントを刺し貫いているあたりに何らかの意図は伺える。

*2:最終回においてみなとの持つ可能性の結晶の数が減っていたことが示されている。

*3:十字光の星も現実にあるわけではないのだけれど、ここはフィクションレベルが違うということでひとつ……スバルのエンブレムですし……。

*4:宇宙の理には光速の壁などといった物理的側面と、自分ひとりでは越えられないような精神的側面(例えばずっと魔法使いでいたい、というような)があると思う。

*5:一迅社発行の美少女キャラクター・ビジュアル情報誌。29号は放課後のプレアデス特集。佐伯監督および協力された国立天文台教授へのインタビューと第10話までのコメント付き各話解説などが掲載されている。